オルカノン
温かく心地のよい風が大きく開け放たれた窓から潮の匂いを運んでやってくる。
気分を爽快な気分にさせる風に誘われてユーリンは、ベランダに出た。
そこからはオルカノンの城下街を見おろす事が出来る。
オルカノンの熱帯な気候に合わせるように人々の格好は小麦色の肌が見える比較的、露出が多い服である。
黎は、比較的石で造られた建家が多いがオルカノンは木製の建家が多い。
市場の喧噪がユーリンの元まで届いてくる。
市場では酒場などで街の住民がどんちゃん騒ぎしているに違いない。
瞼を閉じるとその情景が浮かんでくるようである。
街を抜けた先には、港があり巨大な船が何艘も停泊している。
港の向こう側には地平線まで続く青き海。
この海の遥か彼方に黎がある。
(父の容態はどうだろか?)
ユーリンが黎を離れる時、父の容態は思わしくなかった。
不安が胸を過る。
「国の事が気がかりですかな?」
振り返ると初老の老人が背後に立っていた。
「ユーゲルハイム殿…」
小麦色の肌に肩まである白い髪、星の煌めきのように美しい蒼い瞳。
しかし、その瞳は一つしかなく右目には漆黒の眼帯。それをなぞるように一筋の傷が頬にかけてある。
ユーゲルハイム。
彼はオルカノンの宰相である。
かつては、オルカノンの将として数々の武勇伝を残した武人であったそうだが
今は剣を置き政にその重点を置いているようだ。
黎で言うならばユジンのようなお人であろう。
人の良さそうな穏やかな笑みを浮かべながら歩みよるユーゲンハイムは黄金に輝く鎧を着用している。
鎧から見える筋肉が隆々とした四肢を見る限り彼が初老の男性だとは到底思えない。
「国の事が心配ですかな?」
ユーゲンハイムが笑みを浮かべると同時に目尻に皺がより穏やかな人柄を印象づけている。
「国と言うよりは父の事ですかね。容態が良くなかったもので」
「ユーリン殿は優しいお方だ」
ユーゲンハイムは、ユーリンに並び海を仰いだ。
海には大きな渦潮が幾つも見える。
船を丸ごと飲み込めそうなその渦は、突然現れては消えを繰り返している。
この不可思議な海流こそが他の国がオルカノンに侵略する事が出来ない由縁である。
複雑なこの海流は、オルカノンの者でも船を扱いに優れているものしか
攻略する事は出来ないらしい。
実際、オルカノンに辿りつく際にはこの海流を渡らねばならなかったのだが、
ユーリンは酷い揺れと近くで見る渦の大きさに幾度ももう駄目だと思った。
つまり、自然の防御壁といっても過言ではない。
パチン。
ユーゲンハイムが突然指を鳴らし、その音に続き宙から紫色の奇妙な液体を入れたグラスを持ったインプ(鬼小霊)が現れた。
この瘤だらけの奇妙な生き物は、羽をばたつかせユーリンの前で一礼すると
グラスを乗せた椀を彼とユーゲンハイムの元に差し出した。
白髪の老人ユーゲンハイムはそれを受け取るように促すとユーリンは戸惑いながらも受け取った。
インプは椀が空になると一礼し天空へと戻っていった。
「オルカノンは不思議な国です。ジンと人間が共存している」
ユーリンはグラスに注がれている奇妙な紫色の液体を眺めながら言った。
「ジンにも命がある。ジンは一方的に人間が強制し使役すると考えている者も多いようですがこの国ではそのような思想を持つ者はいないでしょう。
オルカノンという国は、ジンの力で繁栄した国と言っても過言ではありません。
ジンの力によって国が守られ、生活が豊かになっている。
他の国の資源に頼る事なくこの島国であるオルカノンがやっていけているのもジンの力の賜物です。我々はジンに対して皆、敬意があります。
無理矢理、力で押さえつけるような真似はしない。彼らジンとて心があるのです。
こちらが敬意を表せば向こうそれに応えてくれるのです。その証拠に私は使役するジンに呪縛の呪文など使用していません。私と彼らを繋いでいるもの信頼関係そのものです」
ユーゲンハイムは片眉を上げ、グラスを掲げると紫色の液体の匂いを嗅ぎグラスを愛でるように回す、
そして、グラスに口をつけ飲み干す事なく味わうように液体を口にひと含みし、
咀嚼するように口に中で転がし、口から鼻に上がる匂いを楽しんでいるようだ。
それからひと呼吸置くと、彼は喉を鳴らし満足げに息を吐いた。
「よろしければどうぞ。この国で育つ葡萄という果物を酒にした葡萄酒というものです」
葡萄?
聞いた事がない。
紫色の果物などあるのだろうが。
毒々しいこの謎の飲み物の色に躊躇しながらも、ご好意を無下にする訳にはいかないとまず匂いを嗅いでみる。
口に中に思わず唾が溜まるほどの刺激の強い匂いだ。
鼻の奥をつくようなこの刺激臭は葡萄という果物からくるものなのだろうか。
しかし、それと同時に芳醇な匂いが鼻を抜ける。
興味がそそられる。
ユーリンは恐る恐るであるが、ユーゲンハイムの真似をし葡萄酒たるもの口の中に一口含んだ。
果実を含んでいるかのような新鮮な香りが口全体に広がる。
酸味はある。
だが、それは優しく匂いから連想していたほどの強い酸味ではない。
優しく撫でるように。
風に運ばれてくるかのように口に広がる香りが鼻から抜けていく。
喉を通した後も香りは以前として口の中に広がり、一口しか飲んでいないというのに身体の内が心なしかにわかに熱を持っている気がする。
「おいしい」
自分でも驚くほど大きな声が出してしまった。
ユーリンの反応に、満足げにユーゲンハイムは微笑み頷いた。
「ユーリン殿はお若いのに酒の味というものがお分かりになるようだ。将来が楽しみですな」
「これは誰が飲んでもおいしいと答えますよ」
ユーリンは一気に残りの葡萄酒を飲み干した。
やや頬を紅潮させたユーリンの表情が僅かに曇る。
「どうなさいました?」
「いえ、少し友の事を思い出しました」
「ご友人の事を」
「はい。私の親友でオルカノンの血を引く者がいます」
ユーリンの茶色の瞳が地平線に沈みゆく太陽を遠く見つめ潮風が彼の長髪を揺らす。
「そうですか。我らの同族が黎に」
「だからこそオルカノンの地に降り立った時、何だか懐かしい気がしたのです」
「ユーリン殿にとってとても大切なご友人なのですね。貴方の目をみれば分かる」
「はい。彼ともう一人親友がいるのですが、私は幼き頃彼らに命を救われました。
そして誓い合ったのです。この戦乱の世を終わらし泰平の世を築こうと…しかし、私は不甲斐ない。歳月だけを積み重ね何一つ前に進めていない」
身体が小刻みに震え感情が込み上げてくる。
優しく肩に手が置かれた。
「少し街を歩きましょう」
とユーゲンハイムは慰めるように言った。
★
ユーリンとユーゲンハイムは街に出た。
二人は身分を偽る為、民のような刺繍が施された衣一枚を身に纏っている。
実際に城下に降りると熱気が違う。
市場では、売り子の怒号にも似た叫び声が聞こえる。
二人の頭上を食材を入れた籠を持ったインプが飛び交う。
買い出しだろうか。
オルカノンの民は、ほとんどの者がジンを召喚出来る力を持っているらしい。
女でもインプ程度ならば召喚する事が出来るという。
国民全体がサマナーという事になる。
黎や他国では考えられない事である。
サマナーになるには適正というものがあり、ジンを召喚する際に必要となる人の内にある魂力というものが一定以上存在しないとサマナーにはどうあがいてもなれない。
魂力というものは、人間誰しも微弱ながら内に秘めているらしい。
しかし、それはサマナーになれる程度のものではない。
稀に魂力が一定以上備わっていたとしても、その先に待ち受ける召喚する上で必要となる詠唱術は恐ろしいほど難解でその二点を考慮すると、サマナーになれる人間の割合は千人に一人程度である。
だが、オルカノンの民は国民の殆どが魂力を一定以上備えており難解な詠唱術を理解する事が出来る。
サマナー、発祥の地だからだろうか。
国民の殆どがジンを使役出来るオルカノンと黎がもし戦争になった時の事を考えるとぞっとする。
「お兄さん!新鮮な魚が入ったよ。見てってよ」
「お兄さんこっちこっち」
「こっちもいいの入ってるよ!」
市場の売る子達から飛び交うように声がかかる。
慣れていないユーリンは会釈しそれを申し訳ないと思いながらもそれとなく躱す。
売り子達の表情は皆明るく国民の心の豊かさを表している。
「凄いですね、ボーガン王は。国だけではなく民の心も満たされている。
ここの民は皆笑っている」
売り子と買い物客である女性が笑い合い話し、子供連れの家族が手を繋ぎ幸せそうに微笑んでいる。
当たり前の光景。
しかし、今の黎にはそれがない。
長く続く戦。
民に重くのしかかる税
今の黎に光りはない。
天下を平定しなければ国、民と共に先はない。
「ボーガン王はあのような豪快な振る舞いを見せていますが、実はそうではない。
民の事を真摯に考え、どうすれば国が民が豊かになるか常々考えておられる。
王が民に課せている税は極僅かなもの。金は他で賄える。しかし、民の心は他で賄う事は出来ないと以前話しておられました。そんな王の気持ちに応えるように民は王を慕っている。勿論、私もですが」
ユーゲンハイムは、民の行く交う様を眺めている。
「何故、ホーガン王は私をオルカノンに招いてのでしょうか?」
疑問だった。
ホーガン王とは接点などなくオルカノンの名など耳にした事があるくらいで何も知らなかった
すると、ある日ホーガン王からユーリン宛に書状が届いたのである。
是非、貴殿我が国に招きたいと。
何故、自分なのかと理解出来なかったがユジンの後押しもありオルカノンに向かう事になった。
「王に宛てたユジン殿の文にいつも貴方の事が書かれていたそうです」
「私の事が」
初耳である。
ホーガン王とユジンが文を交わす仲という事は。
「はい。ユジン殿は大層、貴方をかっていたようだ。王はユジン殿の文に書かれてある貴方に興味を持ち一度お会いしたくなったそうです」
「私なぞお招きに値する人間ではありません」
「そうですかな」
ユーゲンハイムの蒼い瞳が輝く。
「え?」
「私は、貴方にお会いして何故ユジン殿がそこまで貴方を慕っているのか分かった気がしました」
「ユーゲンハイム殿もユジンを?」
ユーゲンハイムは、目尻に皺を刻み柔らかに微笑む。
「ええ。随分と昔になりますが一度お会いした事があります。私が20代半ばの頃だったと記憶していますが…ユジン殿は今の黎王の父君と仲間の一人とオルカノンの地にやって来られた。確か、そのお仲間のお名前は…ユナ・セオル」
「ユナ・セオル…」
まさか…
「はい。その記憶しております。ご存知で」
「はい。ユジンに聞いた事があります。かつてユナ・セオルという猛将がいたと。
しかし、彼の名はあまり我が国では知られていません。若くして戦場から去ったのです。ユジンが言うにはあのまま彼が戦い続けていればラタトスクは自分ではなく間違いなく彼だったと。それから彼は戦場を離れ隠居したと聞いています。ですが…」
含みのあるユーリンの言葉にユーゲンハイムが首を傾げる。
「そのセオルの孫であるユナ・アルカという者と友人です。先程
お話した私の命を救ってくれた友人が彼なのです」
「これはなんと…運命めいたものを感じますな」
「運命?」
「いや、気になさらないで下さい。もし差し支えなかればもう一人の友人のお名前を聞かせていただいても?」
ユーゲンハイムの運命という言葉の意図は読めなかったがユーリンは質問に答えた。
「マサリ。キジュ・マサリといいます」
「キジュ…キジュと申されましたか?」
ユーゲンハイムの表情が若返ったかのように明るくなる。
「は、はい」
「これはなんという」
ユーゲンハイムの身体がわなわなと震えている。
「だ、大丈夫ですか?」
倒れそうになるユーゲンハイムを慌てて抱える。
「失礼しました。絆というものは世代を越え紡いでいく」
ユーゲンハイムは立ち上がり独り言のように小さく呟いた。
その瞳はここではない何処か別の何かを見ているようでもある。
「ユーゲンハイム殿?」
ユーリンの呼びかけにこの隻眼の老人は我に返り彼の顔を見ると笑みを浮かべた。
その笑みはまるで祖父が孫を見ているかのような暖かい笑みであった。
「またお話する機会があるかもしれませんな。さて、ユーリン殿まだまだ案内した場所がございます。次は我が国自慢の闘技場に参りましょうか」




