深淵
アルカ達がトウレイに帰還する数週間前ほど前に時は遡る。
シャオランは広大な広さを有する自室の隅で一人膝を抱え込み上げる笑いを必死に抑え込んでいた。
「くはくはははは」
笑いが止まらない。
窓から射し込む月の明かりが腹を抱えて笑いを堪えるシャオランの影を白塗りの壁に
不気味に映し出す。
長兄エルトがつい先程死去した。
シャオランは何も手を下していない。
長兄エルトは生まれつき病弱であった。
一日中、床に伏せる事も多くあった。
しかし、そんな兄でも王位継承者である。
順等に行けば後継者に一番に名があがる。
兄には政官共の強い後押しもついていた。
何故ならば欲に塗れたな政官どもがそんな兄を傀儡の王として飼い殺しにする為である。
兄は頭は悪くなかった。
しかしながらあまりに病弱で政をまともに取り仕切れるとは到底思わない。
そんな所に腐った役人どもはつけこんだのである。
しかし、欲に塗れた政官と言っても兄を後押しする政官の中には有力な力を持つ者も複数存在した。
無論、兄を何からしらの方法で葬り去る事は考えていたが政官どもの目を盗んで暗殺を実行するにはシャオラン自身が負うリスクも高かった。
だが、兄は手を下さずとも死んだ。
そして、今父である黎王は病によりの生死の境を彷徨っている。
これが笑わずにいられるか。
邪魔者であった兄は死にそして父が今まさに天に召されようとしている。
時代が俺を呼んでいる。
天がこのシン・シャオランに味方しているのだ。
王になれ!世界を統べる覇者になれと!
覇道を遮るものは残すは次兄ウラオスのみ。
弟のユーリンは今はどうでもいい。
もともと腹違いの生まれの奴にとって王位継承権はあってないようなもの。
後でも幾らでも始末出来る。
だが少し引っかかる事がある。
現黎王のラタトスクであるタルマ・ユジンがユーリンを支持する姿勢を見せている事だった。
なぜあの老いぼれがユーリンを支持するのかは理解出来ないが結局は老いぼれの戯れ言でしかない。
過去には(炎塵王)というたいそうな渾名で呼ばれ英雄扱いされていたそうだがそれはもう過去の事である。
しかし、炎塵王と他国からも恐れられた英雄は御歳の75歳の爺である。
過去の栄光にすがりつく老いぼれに過ぎない。
奴が何を言おうと彼の過去の威光を知る者も少ない今、奴に対した影響力はない。
父にしてもユジンにしても
老いぼれの分際でごみにたかる蠅のように玉座にたかりおって。
ユジンもいずれ始末する。
だが、今最優先に始末しなければならないのはウラオスである。
ウラオスも無論、王の座を欲している。
兄は強い。
政より戦が得意なのが兄である。
皇子であるにも関わらず自ら戦場に赴き実際に軍の指揮を執り、時には単騎で敵将の首を執る。
戦においては間違いなく天賦の才があるだろう。
だが政に関しては間違いなくこちらが上手である。
兄は己の力を過信している。
その証拠に兄はどこにいる時も従者をつけない。
手練れの刺客が現れようと兄はそれを自分一人の手で返り討ちにする自負があるかである。
実際にそうであろう。
これまでに試験的に何度も刺客を放った事はあった。
それは、暗殺の為ではなくシャオランが兄の力というものを計りたかったからである。
結果、刺客は返り討ちにあい命を落とした。
兄は絶対的な自信を持っている。
そこにつけ込むのだ。
刺客として影を放った。
影はシャオランが抱える暗殺者の中では別格の力を持っている。
必ずウラオスの首を手土産にしてくれるだろう。
「はははははは」
もうすぐだ。
(黎の全てが俺の手中に…)
★
ウラオスは自室の中央で瞼を閉じ座していた。
蝋燭の炎が揺れ動くのを瞼の奥から射し込んでくる僅かな光りで感じる事が出来る。
開けは放たれた窓の隙間から風が入り込んでくる。
涼しい静かな夜である。
静かずぎる。
それ故に何か不気味にも感じる。
僅かなに頬を撫でる風に違和感を感じた。
それと同時に蝋燭の明かりが風が吹くのに合わせるように揺らめいた。
「そろそろ来る頃だと思っていた」
ウラオスは瞼をゆっくりと開いた。
彼の瞳が捉えているのは、漆黒の装束を身につつむ者である。
顔は黒い布で覆われている為、性別は確認出来ない。
男性、女性ともとれる身体つきをしているからだ。
小柄で痩身でどちらとも取れる。
右手には刀身から血が滴り落ちる一本の短刀。
左手には扉の前を守護していた兵士の首が。
首からは血がぽたぽたと滴っている。
「シャオランの手の者だな」
座を崩し右手に置いていた剣を取り熊のような巨躯のウラオスは立ち上がる。
シャオランが放ったであろうアサシンは何も言わずその場で静かに立っている。
まるで気配を感じられない。
周りの景色に溶け込んでしまいそうである。
完全に殺気、生気を自らの体内に押し込めている。
優れた暗殺者の証だ。
これまでの刺客とは格が違う。
シャオランも本気という事だ。
「答えぬという事は認めたという事であるぞ」
「…」
沈黙。
「認めたな。この期を狙っていずれやってくるだろうと分かっていた。以前から刺客を放っているのはシャオランだと気づいていた。父のお耳に入れてもよかったがそうしなかったのは兄としての情けである。血を分けた兄弟同士過ちの一つや二つはあるとな。しかし、今日お主を放ったという事はシャオランは俺の首を本気で取りに来た。そういう事だな」
「…」
「言葉を知らぬか。奴がその気ならば俺とて奴にかける情けなど微塵もない。貴様の首を手土産に愚弟に挨拶に行くとしよう。覚悟せい!」
ウラオスが剣を抜き、黒服に襲いかかる。
豪腕から繰り出されるその斬撃は、空気すら震動させる。
黒服は剣劇を全て際どい所で避けてみせる。
幾度となくウラオスは斬撃を繰り出すが黒服はそれを全て身一つで躱す。
「ちょろちょろと小癪な!」
渾身の突きを放つ。
肉を抉りとるような突きを屈んで躱した黒服は、突きを放った事によって生まれた
ウラオスの僅かな隙を見逃さなかった。
懐に潜りこみ短刀の柄でウラオスの腹部を突く。
巨体の膝が折れる。
「うう…貴様」
ウラオスは憎しみのこもった眼で地に這いつくばりながら黒服を睨みつける。
巨躯を持ちあげようとするが足に力が入らない。
黒服に急所を突かれたようだ。
「貴様何を…」
黒服は兵士の首を掲げ何やらぶつぶつと唱えている。
ウラオスの血の気が引いて行く。
蝋燭の火が風も吹いていないのに消える。
月の光りも夜空に浮かぶ雲に遮断され、混沌が対峙する二人を包み込む。
混沌とする世界に黒服の不気味な声とウラオスの荒い息づかいだけが聞こえる。
黒服が呪いのように唱えている言葉。
サマナーの心得も僅かであるが心得ているウラオスは知っていた。
召喚術でも禁忌とされている深淵のジンを召喚する為に必要とされる詠唱呪文である。
深淵のジンは、サマナーが召喚するジンと異質なものである。
ジンは、アースガルズという別世界の住人である。
それを難解な詠唱呪文でこちらの世界に無理矢理に引っ張ってくるのである。
しかし、無理矢理に喚び出されたジン達が従うはずもない。
そこで、サマナーとしての腕が試される。
ジンを従わす為の呪縛の呪文を唱え契約を結び使役するのである。
しかし、半人前が力の強いジンを喚び出せば契約は結ぶ事はおろか、召喚したジンに襲われる。
それで命を落としたサマナーは数えきれない。
優秀なサマナーほど知識があり、力の強いジンそして数多くのジンを使役している。
だがアースガルズのジンとて好き好んで自ら使役されている訳ではない。
何かしらの原因で呪縛の呪文が途切れた時には一番に自分を使役するサマナーに襲いかかり命を奪おうとするだろう。
ジンとは、全てのジンがそうとは限らないが凶暴かつ残忍な生物である。
しかし、それ以上に深淵のジンは恐ろしい。
アースガルズとは比べものにならないほどの力を有し邪悪かつ残忍である。
アースガルズのジンが闇に堕ち、アースガルズを追放されヘルへイムに墜ちたジンを深淵のジンと呼ぶと言われている。
深淵のジンを召喚する事が禁忌とされている理由はこれだけではない。
召喚する際に人の血肉、同時にサマナーの寿命が代償として必要とされている。
深淵のジン同様、その人道を踏み外しているとも言える召喚条件も合わさり深淵のジンを召喚する事は禁忌とされた。
また、古代にその詠唱呪文失われ現代に深淵のジンを召喚出来るサマナーはいないと言われていた。
しかし、今それを出来る者が目の前にいる。
ただの刺客ではあるまい。
「貴様は一体何者だ」
ウラオスの問いに答える事なく黒服は難解の呪文を低く消え入りそうな声で呟いている。
「ゴルゴーン(蛇女兵隊)」
黒服の男の声が突然はね上がり、声に呼応するように斬り取った兵士の首から血が濁流のごとく流れ出した。
流れ出る血が徐々に蛇のように形づくられていく。
やがて首から流れ出る血が完全な鮮血色の蛇に姿を変えていく。
その数は無数で部屋一帯を覆い尽くすまでになった。
「何だこれは!深淵のジンか」
身体を起こそうとするが足が動かない。
「くそ動け!動け」
足にぬるっとした気持ちの悪い感覚が走る。
ぴちぴちと血の色をした蛇が魚のように跳ねている。
全身に悪寒が走る。
黒服が蛇達に命令を下すように手を払う。
ウラオスの周囲の蛇が活発化し彼の身体を這うようにのぼろうとしている。
「やめろ!来るな」
ウラオスは悲鳴を上げ尻餅をつき身体にくっついている蛇を手で振り払う。
「やめろ!やめろ!」
次々にウラオスに蛇が襲いかかる。
どれだけ振り払おうが蛇が無数に血から生み出され波のように押し寄せる。
「来るな、来るな」
感じた事のない死の恐怖が押し寄せる。
戦場を単騎でも駆けていても一度も感じた事などなかったのに。
死がすぐそこまでやって来ている。
「やめてくれ。来るな!来るなー」
その巨体から想像もつかない甲高い悲鳴が上がる。
「やめてくれ…死にたく…ない…」
蛇の大群がウラオスをのみこむ。
ウラオスの口から大量の蛇が体内に流れ込み、穴という穴から蛇が彼の体内に入り込んでいく。
「俺…が…王に…」
ウラオスの視界が鮮血の世界に覆われ、意識が混沌へと墜ちた。




