森の教会にて
「そういえば、名前は?」
「名前、みんなからはアンティゴネと。」
「…アンティゴネか。」
烙末に、少し奇妙な感覚がした。それはなんのこともないが、しかし、あの老婆のことを思い出して、苦笑する感覚であった。
アンティゴネはそこにあったバイクを起動させる。バイクには呪文が刻まれており、アンティゴネが触れるとそれが光出す。
「へぇすごいな。」
「最新モデルなの。」
そういう意味じゃなかったのだが、しかし面倒なのでほっぽいた。
「とにかく、街に向かいましょう。こんな人のいないところじゃなくてね。」
「パレードの連中は?」
「あいつらは献身的なの。きっと、貴方みたいな穢れは殺されちゃう。」
「あ そ。」
二人はバイクに乗り込み、三日月の夜を走り抜ける。
二人乗りのバイクは、風切音と共に悠々たる姿で、ただ朽ち果てた都市を駆け回る。都市には様々な情景がある。
中華屋の姿、交差点、信号機、歩道橋、それから高速道路に、線路、カフェや巨大なビル。それら全てが朽ち果て、しかし原型を止め、それがますます、淋しかった。
烙末はアンティゴネにしがみつく、「逆の方が良かったかな。」なんて思いをしながら、しかし運転できる自信もなかった烙末は、別に口にはしなかった。
アンティゴネが夜の都市を駆け巡り、歌い出す。その歌は聞いたことがあった。そう、あの老婆のいたところのレコード盤の音楽だ。それが、妙に懐かしい感覚がする。
「その曲なんてんだ?」
「Goodnight Ireneよ。」
肌寒くなってきた。手が震える。ちょっとくらい、強く抱きしめてもいいだろうか。しかし、それをしたら、何かが壊れてしまいそうな気がして、そっと、やめてしまった。
高速に入った。街灯はついていない。バイクの明かりだけを頼りに、とにかく一直線に進んでゆく。
走らせていると、遠くの方で灯が見えた。すごい明かりだ。街の明かりが眩く光、どこかクラクラするようだ。
その街は周りは森で囲まれていて、どこか悲哀の匂いがする。しかしその森に囲まれた街は人間の香りがして、烙末の心を踊らせた。
「もうすぐ着くわ。」
「どんな場所なんだ?」
「楽しいところよ。嫌なことを全て忘れさせてくれるようなね。」
「忘れちゃ困るんだが、」
「人が大勢いるわ…貴方みたいな穢れ人もね。」
高速から下町に入り、いつのまにか道路が途切れる。線路沿いを渡るバイクは、刻々森に入りゆく。
トンネルを抜けた先、そこに街はあった。
街は白が基調の建物で構成され、緻密な幾何学形を成していた。すべすべとした大理石の建物、しかしその幾何学の白色に広告や看板がくっつき、ネオンで色とりどりの街は、
もはや白を失っていた。
道路がまっすぐ進む。ぽつりぽつりと民家があり、農業をしているのか、田んぼで覆われている。
「この先に国境の検問所があるわ。」
「おいおい、パスポートなんてないぜ。」
「いらないわ。ただ質問に答えるだけでいい。」
「入国拒否されることはあるのか?」
「もちろん。その時は、別の街に行かなきゃね。」
烙末は少しの不安とを胸に、街の近づきを見つめていた。教会のようなところが見えた。白く、木造で小さな教会だ。
バイクを止め、教会に向かう。どうやらこの教会が検問らしい。訳が分からないが、烙末はもうこういうことに慣れてしまっていた。危険でないなら、別段かまわなかった。
軋む扉を開く。中には誰もいなかった。懺悔室から声がする。静寂を破る声だ。
「どうぞこちらへ、お嬢さんは構いません。この国の入国を許可します。以前、来られていますから。しかし、その青年は、初めての方ですね。どうぞこちらへ。」
烙末は懺悔室に近づく、アンティゴネは「待ってるね。」といって教会の長い椅子に座る。
ちいさく狭い懺悔室に、烙末は少し奇妙にも親近感がわく、ひょっとしたら、昔こういう場所に来たことがあったのかもしれない。烙末は扉を開き、小さな椅子にそっと腰掛ける。
「貴方はどこから来ましたか?」
「さあ、それがわからないんです。」
「なぜこの街に?」
「記憶が、ないもので、その、」
馬鹿正直に言ったが、そもそも本当のことを言う必要がないことに気が付いた。断られることもあるとアンティゴネが言っていた。それなら、できるだけ変なことを言うべきでなかったかもしれない。
「記憶が?では、記憶を探しに来たのですね?」
「…はい。」
「この街には…様々な人で入り組んでいます。様々な記憶が、様々な人間を彩っています。それは美しくも、淋しいものです。」
少しの静寂、懺悔室の男は少し感傷に浸っているようだった。烙末の心には奇妙が湧き出て、沸々と静寂に耐えられなくなる。
「では、私は記憶を、取り戻すことができるのでしょうか。」
「さあ、それは…貴方だけの問題です。」
烙末は少し落胆したような、当然のような、そんな思いがした。
「行ってもよろしい。ようこそ、名もなき森の街へ。ここでは、貴方の記憶が見つかるかはわかりませんが、少なくとも、自分を知ることはできるでしょう。」
烙末は懺悔室から出る。アンティゴネは備えてあったバイブルを置く。
「どうだった?」
「入っていいってさ。」
「そう、よかった。」
二人は教会を出る。出る寸前で、懺悔室からかすかに声が聞こえた。
「記憶を、取り戻さなければよかったという後悔が、訪れませんように。」
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