邂逅
◆ ◆ ◆
朝の空気はひんやりと冷たく、青白い筋のような陽光が通りに降り注いでいた。
歩を進めるたびに、白くかすんだ息が口元から昇り、静まり返ったアスファルトに足音が規則正しく響く。
学生たちが鞄を揺らし、テストや部活、好きな人の話などの他愛もない会話の断片を響かせながら、俺の脇を通り過ぎていく。彼らの笑い声はどこか遠く、こもって聞こえた。まるで昨夜の霧が、まだ俺の耳にしがみついているかのように。
マフラーをきつく締め直す。
ただの夢だ、と自分に言い聞かせた。ただの悪夢だ。
なのに、すべての影がいつもより濃く蠢いているように見えた。
すべての角が、こちらをじっと見つめているように思えた。
校門に着く頃には、朝のありふれた日常のリズムが俺を押し包んでいた。教師たちの挨拶、通りの向こうの店から漂うパンの匂い、そしてチャイムの金属質な響き。
教室に入り、自分の席に身体を沈める。教師の抑揚のない声が響き、黒板にチョークが擦れる音が聞こえる。俺のペンは、ノートの上で無意味に彷徨っていた。
窓の外を見上げれば、空はからりと晴れ渡っている。
それなのに――ほんの一瞬、確かに見えた気がしたんだ。
ガラスの縁を、白く這い回る霧の輪郭を。
『……キャズメ……』
記憶の中の囁き声が、脳裏をよぎる。
強く瞬きをして、頭を振った。
隣の席のやつが、肘で俺を小突いてきた。「おい、またボーっとしてんのか?」
「……猫」
思わず口の中で呟いてから、それがどれほど奇妙な言葉だったかに気づく。
クラス中に笑い声が広がった。無理に作り笑いを浮かべたが、胸の奥がキュッと締め付けられる。
◆ ◆ ◆
休憩を告げるチャイムが鳴ると、俺は逃げるように中庭へと抜け出した。
ここの空気はいくらか明るく、声と足音に満ちていた。
それなのに、俺の視線はあるもの――いや、門の近くに佇む「誰か」の姿に釘付けになった。
一人の少女だった。
彼女は物静かに、リラックスした様子で立っていたが、その存在感は不思議と俺を引き寄せた。
その瞳を見た瞬間、俺の身体は凍りついた。
冷静で、読めなくて、どこか見覚えのある。
――あの猫のような、瞳。
彼女の瞳が、俺の心の奥底にある何かを強く揺さぶった。
脚が勝手に動き出し、彼女にぶつかる寸前のところでようやく止まった。
静寂の中で、俺の靴の音が鋭く響く。
俺は思わず、息を呑んだ。
その音にわずかに反応し、彼女がゆっくりと振り返る――まるで、穏やかな風に羽を休める蝶のように。
(やべっ、こっち向いた。最悪だ、どうしよう。何て言えばいい?!)
俺の思考は激しく回転し、顔には完全にパニックが張り付いたままだった。
彼女は俺を見つめ、俺も彼女を見つめ返した。
一瞬、時間そのものが停止したかのように錯覚する。
張り詰めた神経のせいで、言葉が縺れて口から飛び出した。
「あ……う、うんと、こんにちは」
彼女は瞬きをし、少しだけ首を傾げた。「あ……こんにちは」
その声は柔らかく、どこか気だるげだった。「びっくりした。そんなに近くに人が立ってると思わなかったから」
彼女は髪をかき上げながら、小さく微笑んだ。「ここ、初めての人? それとも、迷子?」
俺は引きつった、ぎこちない笑い声を漏らす。
「はは……あはは。うん、ちょっと歩き回ってて。でも、そう……ここ、初めてなんだ」
彼女の沈黙が、重く、読めない塊となって俺を押し潰す。
光を浴びた彼女の髪が奇妙にきらめき、俺は何度も瞬きを繰り返した。
ある時は、陽光に漂う霧のように淡い灰色に見える。
またある時は、光そのものを飲み込む漆黒に見える。
どちらなのか判別がつかず、その不確かさが俺の胸をさらに締め付けた。
その瞳は――地平線の彼方に沈みゆく夕日のように、深い『深紅』。
長く伸びた睫毛が鋭いカーブを描き、繊細でありながら、どこか鋭い印象を与えた。
「……初めて?」
ようやく、彼女が口を開いた。
声は静かだったが、不思議な重みを帯びていた。まるで、俺の耳に届く前にどこかの霧の中を旅してきたかのように。
俺は何度も激しく頷き、言葉をまくしたてた。
「う、うん。ちょっと、周りを確認しようと思ってさ」
彼女は笑わなかった。正確には、唇の端をかすかに歪めただけだ。だが、その視線は微動だにせず、瞬き一つしない。
「あまり、遠くまで歩き回らない方がいいよ」と、彼女は言った。「ここ……一人になると、カタチを変えるから」
引き延ばされた二人の間の「間」が、あの霧のように濃くなっていく。
俺は唾を呑み込み、無理やり笑みを浮かべた。
「はは……何それ、変なこと言うんだな」
彼女の瞳がかすかに揺れ、深紅の輝きが残り火のようにパチパチと弾けた。
「そう?」と、彼女は囁いた。「それとも、あなた……もう、見ちゃったの?」
その言葉は、単なる音以上の重圧となって俺にのしかかった。喉が固く閉じる。
言い返したかったのに、声は一滴も出てこなかった。
彼女が先に背を向けた。光の中で、彼女の髪が灰色から黒へと移り変わる。
学生たちの人混みが二人の間に割り込み、俺が次に瞬きをしたときには、彼女の姿はもうどこにもなかった。
俺はただ、中庭の真ん中で立ち尽くしていた。彼女の声の残響が、耳の奥から離れない。
(見ちゃったの……って、何を?)
胸が苦しい。笑い飛ばそうとしたが、その笑いは中っぽく、冷たく響くだけだった。
あの深紅の眼差しが、記憶の中でもまだ俺を焦がし続けている。
自分が今本当に目覚めているのか……それとも、まだあの霧の夢の中にいるのか、分からなくなっていた。




