接近の断片
◆ ◆ ◆
放課後の太陽が中庭に斜めに差し込み、ベンチの間に長い影を落としていた。
俺はいつの間にか、彼女と並んで歩いていた。二人の間の距離がどうやって縮まったのか、その過程をどうしても思い出せなかった。
「その……さ、いつも門のところに立ってるの?」
できるだけ何でもない風を装って、俺は尋ねた。
彼女がこちらをちらりと見やる。光を浴びたその髪が、また灰から黒へ、黒から灰へと移り変わった。
「たまにね」
彼女は短く、それだけ言った。
冷徹で、あまりにも普通の声音。ほんの一瞬、ただのクラスメイトと会話しているような錯覚に陥る。
二人の足音のピッチは、不気味なほど完璧にシンクロしていた。生徒たちが笑い声を上げ、友人を呼びながら通り過ぎていくが、その声はひどく遠くにあるように感じられた。
俺はもう一度、言葉を絞り出す。
「何クラスのひとなの?」
彼女は首を傾げた。長い睫毛が、その深紅の瞳に影を落とする。
「あっちこっち」
彼女は呟くように言った。
俺は気まずさを隠すように鼻で笑う。「それ……全然答えになってないよ」
彼女の唇がかすかに歪んだが、それ以上の説明はなかった。
それでも、不思議と嫌な気はしなかった。彼女の沈黙は俺を突き放すのではなく、むしろ引き寄せるような引力を持っていた。
「じゃあ……友達とか、そういうのはいるの?」
変な奴だと思われないよう、慎重に声をかける。
彼女の視線が、横から俺を捉えた。彼女は小さく笑い、手で口元を隠す。
「いるよ」
彼女は静かに答えた。
俺は少しがっかりしたような、皮肉を交えた声をわざと作った。
「へえ? 何人くらい?」
だが、声のトーンが妙に上ずってしまい、俺は慌てて自分の口を片手で塞いだ。
「――っ、なんでもない!」
笑って誤魔化そうと、俺はさらに言葉を重ねる。「じゃあ、その人とはどれくらいの付き合いなんだ? 幼馴染? 前の学校の友達? それとも……まさか、恋人とか?」
少しからかうように、俺は彼女に笑いかけた。
「――あなたよ」
彼女は柔らかく、優しく、そう言った。
俺の身体が完全に凍りつく。
「え……? 今、なんて……」
衝撃で顔が熱くなるのが分かった。
「あ、いや、えっと……俺が、君の……初めての友達ってこと?」
俺は吃もりながら、自分の脇を通り過ぎてゆく彼女の背中を凝視した。
彼女は振り返り、悪戯っぽく笑う。
「来ないの? ――私の、お友達」
顔が真っ赤に染まるのを感じながら、俺は必死に正気を取り戻そうと声を張った。
「前の学校の連中はどうしたんだよ?」
「んー……一人もいない」
彼女の視線がふらふらと彷徨う。それを見つめる俺の感覚の中で、まるで時間が凍りついたかのように、時間の概念が消失していく。
「ねえ、キャズメ、キャズメ。聞いてる?」
彼女が俺の目の前で手をひらひらと振った。
狂い始めた時間軸の中で、俺の口から、勝手に言葉が滑り落ちた。
「――綺麗だ」
彼女が足を止めた。その表情から笑みが消え、無表情になった彼女は、俺から離れるように歩き去っていった。どんどん、遠くへ。二人の間にあったはずの『接近の断片』が、急速に霧散していく。
胸が痛むと同時に、どこか救われたような安怠感があった。立ち尽くす俺の視界の中で、彼女の背中が小さくなっていく。
「お、俺さ……君に友達だって思ってもらえて、嬉しいよ」
不器用な言葉が、口から溢れ出た。
彼女がピタリと足を止める。振り返ったその顔には、静かな笑みが浮かんでいた。俺は胸の中で吹き荒れる嵐を必死に沈めようと試みる。
彼女は言った。
「明日、一緒にどこか行かない? 私、暇だから」
心臓が跳ね上がり、歓喜のメロディを奏でる。
だが、俺が口を開きかけたその時――
「あ……明日は、ちょっと行けるか分かんなくて……」
彼女の顔に、かすかな失望の色がよぎるのが見えた。
◆ ◆ ◆
突如、視界に闇のフラッシュが走った。
白い霧が、俺を強引に包み込んでいく。空気が喉に引っかかり、肺へと通ることを拒絶した。
「キャズメ……! キャズメ! キャズメ!!」
激しく呼吸を乱す俺を見て、彼女の両手が俺の腕を掴み、強く揺さぶった。
はぁっ……はぁっ……はぁっ……!
「キャズメ!!」
彼女の声が耳の奥に残り、俺の意識をこちら側へと引き戻す。目の前に、彼女がいた。
「大丈夫?」
彼女は不思議そうな顔で俺を見つめている。
「ごめん、もう行かなきゃ……! あ、あの、また学校で!」
俺は引きつった笑いを浮かべながら、逃げるように走り出した。振り返る余裕すらなかった。
一体何が起きているんだ? なんであんな風にパニックになった? 俺の身体はどうしちまったんだ?!
耳の奥で、粘りつくような音が鳴り響いていた。
――ギィ……ギィ……ギィ……、ゴォオオ……。
公園。
ブランコ。
『あはははは!』
甲高い、幼い子供の声。鈴の音のように軽やかな笑い声が、空気中で踊っていた。
◆ ◆ ◆
玄関のドアを開け放したまま、俺は家の中に飛び込んだ。
「お袋、親父、ただいま!」
それだけ叫ぶと、自分の部屋へと猛烈な勢いで駆け込む。
「ちょっと、大丈夫?」
背後でお袋の心配そうな声が響くと同時に、俺は自分の部屋のドアを激しく叩きつけた。
「あなた、あの子大丈夫かしら?」とお袋の声が漏れ聞こえる。
「大丈夫だろ。高校生なんて、学校で嫌なことがあればあんな感じさ」
親父の声が答える。
俺の口から、浅く鋭い呼吸が引き裂かれるように漏れ出た。
――はぁっ、はぁっ、はぁっ。
一回ごとに、呼吸が鋭く尖っていく。胸の奥が空っぽになり、もう空気を留めておくことができないかのようだった。
だが、それ以上に――俺の「目」が、俺を裏切っていた。
視線が固定できない。瞳孔が小刻みに震え、かすかに螺旋を描くように歪んでいた。瞳の反射の中で、世界が歪曲していく。輪郭がねじれ、影が歪む。身体が強制リセットをかけようとしているのに、どうしても噛み合わないかのように、俺はあまりにも速く、浅く、瞬きを繰り返した。
焦点が合っては、また外れる。
黒い輪が押し寄せ、白目を飲み込んでゆく。自分の視界そのものが、内側から崩壊していくような恐怖。
息ができない。思考がまとまらない。
ただ、自分の両目の圧倒的な『重み』だけが、俺を底なしの深淵へと引きずり下ろしていく。
俺はそっと目を閉じ、自分を落ち着かせるために、ある旋律を口ずさんだ。
その鼻歌は微かで、いまにも周囲の静寂に溺れて消え去ってしまいそうだった。
深く、どこまでも深く、意識が漂流していく。
俺はその流れに身を任せた。
今日という一日の持つ、途方もない『重圧』が、俺を完全に意識の底へと引きずり沈めるまで。




