現実に滲む霧
◆ ◆ ◆
ベッドの中で目を覚ます。
霧も、あの猫の瞳も、記憶の彼方へと消え去るモヤのように薄れていった。
カーテンの隙間から、朝の光が優しく差し込んでいる――柔らかく、平凡で、どこか安心させるような光。
しばらくの間、俺はただそこに横たわっていた。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
囁き声もない。
霧もない。
ただ、静寂だけがあった。
「……本当に、ただの夢だったのか?」
目が痛くなるまで、天井をじっと見つめ続けた。
◆ ◆ ◆
「お前、今日はどれくらい自由な時間があるんだ?」
台所から、親父の低い声が響いた。
ゆっくりと身体を起こし、居間へと向かう。
親父は食卓に座り、まるで何年もその姿勢のまま生きているかのように新聞を広げて茶をすすっていた。お袋はコンロの前に立ち、油で何かを揚げている。ジュージューという小気味よい音が部屋を満たし、コーヒーの香りと混ざり合っていた。
温かい。
普通だ。
あまりにも、普通すぎる。
「おはよ、お袋。おはよ、親父」
二人は同時に、明るく返事をした。
「おはよう」
俺は髪をくしゃくしゃと掻き、あくびを噛み殺す。
「親父、せめて朝飯を食い終わるまで待ってくれよ。朝から学校の話とか、進路の話とか、夢の話とか、そういうのはちょっと――」
言葉が止まった。
俺の視線が、壁の何もない空白の部分へと泳ぐ。
なぜだか分からない。
ただ……そこを見つめることが、酷く重要なことのように思えたんだ。
一瞬、引き延ばされたような沈黙が流れる。
「――そういうのは、何だ?」と親父が可笑しそうに尋ねた。
「……何でもない」
俺は席についた。
コーヒーの香りと揚げ物の匂いが空気の中でぶつかり合っている。それと同じように、俺の思考も激しく衝突していた。
昨夜のこと。
霧。
俺の名前を呼ぶ声。
黒い影。
猫……だったのか?
それとも、最初から何もなかったのか?
頭の中で必死に答えを出そうとするが、結論に辿り着きそうになるたび、煙のように指の間からすり抜けていってしまう。
「お袋……親父……」
俺はためらった。
「……俺、昨日ちゃんとゴミ出し行った?」
お袋が少しだけこちらを振り返り、手を拭いた。
「あら? もちろん行ったわよ。端から見ても随分と顔色が悪かったわ。怖い夢でも見たの?」
怖い夢。
その言葉が、胸の奥に変な感覚を残して着地した。
親父が新聞から目を上げないまま、鼻で笑う。
「ああ、見たんだろうさ。幽霊でも見たみたいな面してたからな。ハハハ」
俺は半秒ほど、長く硬直してしまった。
「……そっか」
席を立ち上がる。
「ちょっと、風呂入ってくる」
◆ ◆ ◆
俺の部屋は、いつもより静まり返っているように感じられた。
指示された通りに動く機械のように、おもむろに歩を進める。
躊躇いはない。
立ち止まりもしない。
服を脱ぎ、浴室へと足を踏みいた。
熱い湯気が、またたく間に室内に充満していく。
鏡が曇っていく。ゆっくりと。まるで、存在の仕方を思い出すかのように。
蛇口をさらに捻る。
勢いよく流れる水の音が浴室を満たした。
うるさすぎる。絶え間なさすぎる。
シャワーの下へと足を踏み入れる。
最初はただの水だった。ただの熱、ただの湯気。
だけど――ほんの一瞬。
その湯気が、ただの湯気には思えなくなった。
それはまるで、あの霧のようだった。
濃く。白く。不自然な、霧。
『……キャズメ……』
身体が凍りつく。水は流れ続けている。
『キャズメ……』
息が詰まった。鋭く顔を跳ね上げる。
そこには何もない。タイルにぶつかる湯気と、ただの水、ただの浴室。
俺は目をきつく閉じ、水流の下へと頭を沈めた。
すべてを水で覆い尽くせ。音を掻き消せ。思考を溺れさせろ。
声は止まった。
ただ水だけが残った。ただの騒音。騒音のふりをした、ただの静寂。
荒い呼吸のままようやく立ち上がったとき、俺は自分に言い聞かせように無理やり思考を巡らせた。
「……ただの幻聴だ」
「……夢の残り香にすぎない」
そうだ。それ以外に、あるはずがない。
◆ ◆ ◆
風呂を出て服を着替えたあと、時間を確認した。
午後の講義にはまだ早すぎるが、後で塾もある。
部屋を出て、階段を下りた。
両親はまだそこにいた。相変わらず普通で、相変わらず彼らなりに騒がしい。
「お弁当忘れないでね! あんたの好きなもの入れたから」とお袋が温かく言った。
「おうおう」と親父が付け足す。「たまには店の手伝いにも来いよ」
「時間があれば……行くよ」
荷物を掴む。親父が少し意地悪そうにニヤリと笑った。
「まだ彼女はできないのか?」
俺の動きが止まった。間が空く。あまりにも、計算され尽くしたような正確な間が。
「……俺の記憶が確かなら、親父、結婚記念日忘れてるよね」
沈黙。そして――
「おや、ほぉ?」とお袋の声が、低く、ゆっくりと響いた。
親父の身体が瞬時に硬直する。
「ま、待て――違うんだ――」
「記念日、忘れてたんだ?」
空気が変わった。ほんの少しだけ。だが、それだけで十分だった。
親父が勢いよく立ち上がる。
「そ、そういう意味じゃなくてだな――」
お袋が、静かにフライパンへと手を伸ばした。
「……なら、しっかりと思い出させてあげないとね」
「待て――っ!」
その先を見るつもりはなかった。俺はすぐに家を飛び出した。
◆ ◆ ◆
外に出ると、空気はいくらか軽く感じられた。
だけど、完全に元通りというわけじゃない。ほんの少しだけ、重苦しさが引いたというだけだ。
背後からは、まだ微かに叫び声が聞こえていた。それから――重い金属が何かにぶつかる音。
振り返りはしなかった。口元から乾いた笑いが漏れる。短く。鋭く。どこか、不意を突かれたような笑い。
歩調を速める。目の前に広がる通りは、どこまでも平凡で、何一つ変わらない。
なのに、どういうわけか……。
物と物の隙間に、何かが潜んでこちらを見つめているような気がしてならなかった。
壁の隙間。空気の隙間。思考の隙間。
理由は分からない。だけど、酷く嫌な予感がした。
どうしようもないくらいに。




