—霧の絵画—
◆ ◆ ◆
部屋は静寂の中で待っていた。
木の床の上に、日の光が長く伸びている。空気の中には、雨と埃のほのかな匂いが残っていた。
涙が彼の顔を伝い落ちる。まるで、見えない器から溢れ出た霧のように。
彼の微笑みは残ったままだった。いまにも壊れてしまいそうなほど、脆く。
彼の両手が合わさる。
――パン! パン!
拍手の音が、静まり返った空間に鋭く響き渡った。そこには、喜びと感謝の双方がこもっていた。
彼は頭を下げた。まるで、風に煽られてしなる葦のように。
彼の前に立つ影は、微動だにしない。その瞳は何も語らず、ただ、他の誰かを待っているかのようだった。
◆ ◆ ◆
「夕飯の前にゴミ出しちゃってね」
台所から、お袋の声が飛んできた。
「はいはい、分かったよ」
俺はそう答えながら、ゴミ袋を引きずって玄関のドアへと向かった。
ドアを開けた瞬間、冷たい空気が一気に室内に流れ込んでくる。
「うわ……寒っ。もう冬が来るんだな」
そう呟きながら外に出て、背後のドアを閉めた。
アパートの階段を下りていくと、静まり返った廊下に自分の足音が反響する。
タッ……タッ……
「最悪だし。なんでこんな遅い時間にやってんだろ。もっと早く出しとけばよかったわ」
「ほら見ろ……凍え死にそうだ……全部、部屋にこもってマンガとライトノベルを読んでたせいだな」
階段の下に辿り着き、交差点へと足を踏み入れる。
「うーーん、どうだっけ? ゴミ箱ってどっちの方向だっけ?」
「この寒さのせいで、脳みそまで働かなくなってやがる」
しばらくうろついた後、ようやく見慣れた黒いゴミ箱を見つけ、臭う袋をその中に放り込んだ。
夜の空気が肌を刺す。
見上げれば、深いネイビーブルーの夜空が広がっていた。通り過ぎる風が、一吹きごとに少しずつ深く肌を切り裂いていく。
アパートの敷地を出て、静かな通りへと一歩を踏み出した。
白い霧の分厚い毛布が、道路の上に横たわっていた。重く、そして不自然なほどに、静まり返って。
それはまるで、俺を呼んでいるかのようだった。
車が通り過ぎていくが、そのエンジン音は霧にかき消されてこもって聞こえる。手すりから雨の雫が滴り落ち、一滴ごとに静寂の中へと消えていく前に、柔らかな残響を響かせた。
その時――
霧の向こうから……。
聞こえたんだ。
『……キャズメ……』
『キャズメ……』
『キャズメ……』
俺の、名前。
囁くような、声。
それが跳ね返り、戻ってくる。
何度も。
何度も。
その木霊が脳裏を巡るたび、俺の思考は周囲を囲む霧のように曖昧にブレていった。
「うわ……こんなの、滅多に見られるもんじゃないな」
「なんでこんなに霧が濃くなるんだ? 戻ったら絶対にネットで調べよう」
俺はさらにもう一歩、前へと進んだ。
「この霧……濃すぎて、何も見えな――」
俺の声は途切れ、白い闇の中へと溶けていった。
「……いや、もしかしたら……」
長い、沈黙。
「……もしかしたら、見たくないだけなのかもな」
一歩……。
一歩……。
一歩……。
歩みを進めるたびに、俺は霧の深みへと引きずり込まれていく。
頭上の街灯がチカチカと明滅し、まるで落ち着きのない目のように瞬いていた。
遠くへ歩けば歩くほど、世界が消失していく。
音。
人々。
光。
すべてが薄れていき、俺の名前を呼び続ける終わりのない白い靄の中に、ただ俺一人だけが取り残された。
最後の一歩を踏み出す。
現実が、パつんと弾けた。
霧が、俺を丸ごと飲み込んだ。
両手が小刻みに震える。
俺は、一体何をしているんだ?
呼吸がどんどん重くなり、息を吸い込むたびに喉に引っかかった。
(はぁっ、はぁっ、はぁっ)
「お袋……」
「……お袋……」
「お袋! お袋! お袋!!」
涙が顔を伝い落ちる。
必死に空気を求めようとするたびに胸が締め付けられ、息ができなくなっていく。
「誰かそこにいるの?!」
「助けて!」
「誰か助けてくれよ!!」
俺の声は、果てしない白の彼方へと消え去った。
返事はない。
ただ、静寂だけがあった。
俺はよろめきながら前へ進み、胸をきつくむしり取った。膝から崩れ落ち、冷たい霧の中を這いずる。
何かを探して、俺の目は激しく泳いだ。
誰でもいい、誰か。
その時……。
見えたんだ。
一対の、瞳が。
背筋に、ゾクリと冷たい悪寒が走った。
それはあまりにも不気味な、瞳――。
紫色の静寂を、鋭く貫いて。
物言わぬまま。影を帯びて。ギラギラと輝いて。
瞬き一つしない、幽霊のような眼差し。
じっと耐えて。観察して。待っている。
白の中に編み込まれた、無数の囁き声。
俺は硬直した。
濃い霧の奥深くに、黒い人影が立っていた。
真っ黒で。
輪郭がブレていて。
物言わぬ、影。
俺は瞬きをすることすら恐れた。
「な、何が起きてるんだ……?」
「何なんだよ……あれ……」
影の周囲の霧が、まるで目に見えない風に優しく払われるかのように、ゆっくりと漂い始めた。
その輪郭が、少しずつ鮮明になっていく。
俺は息を呑み、自分の口を手で覆った。
「え……?」
「あ……」
「なんだ……ただの黒猫か」
一気に安堵が押し寄せてきた。
視線を逸らし、長く溜め込んでいた息を吐き出す。
両目が閉じる。
バクバクと暴れる心臓を落ち着かせようと、胸に手を当てた。
「ただの、黒猫……」
「……は」
「……はは……」
「……はははは……!」
気づけば、俺の唇から笑い声が漏れ出ていた。
それは次第に大きくなっていく。
さらに、大きくなっていく。
全身がガタガタと震え出すほどに。
俺は脇腹を抱え、その状況のあまりの馬鹿馬鹿しさに笑い転げた。
自分自身の間抜けさに、笑った。
笑いが、どうしても止まらなかったんだ。
まだ笑い声を上げながら、俺は無理やり立ち上がり、目の前の小さな影を指差した。
「ただの黒猫じゃねえか!」
「ハハハハ!」
「ただの……猫だろッ!」
その時――。
笑い声が、喉の奥でピタリと引っかかった。
猫は、微動だにしない。
その爛々と輝く瞳は、じっと俺に固定されたままだ。
瞬き一つ、しない。
足元の影が、地面の上を不自然に這い伸びていった。
長く。
長く。
さらに、長く。
その身体が、グニャリとねじ切れる。
そのカタチはもう、到底猫と呼べるものではなかった。
俺の笑顔が、消え失せる。
全身の血の気が、一瞬で引いていく。
怪物が、その顎を開いた。
あまりにも、広すぎる幅で。
――俺の頭を、丸ごと飲み込めるほどの、裂け目。
俺の笑い声は、粉々に砕け散った。
「う、うわあああああああああああああッ!!」
俺は悲鳴を上げた。
何度も。
何度も。
その怪物が俺に向かって突進してくるのと同時に、絶叫が喉を引き裂く――。
まるで、死そのものが霧を割って突進してきたかのように。
そして――
すべてが、真っ暗になった。
◆ ◆ ◆
ガバッと身体を跳ね上げて、目を覚ました。
自分の悲鳴の残響が、まだ部屋の中に響いているような気がした。
俺は、自分のベッドの上にいた。
シャツが汗でびっしょりと張り付き、胸が激しく上下している。
喉が、焼けるように熱い。
部屋は、静まり返っていた。
静まり返り、すぎていた。
冷たく、青白い月光が、木の床の上にこぼれ落ちている。
カーテンがゆらりと揺れた。まるで、俺のものではない「誰かの息」に揺らされたかのように。
俺は震える手で、自分の胸を強く押さえた。
心臓のバクバクは、一向に収まる気配がない。
「……ただの、夢だ」
唾を呑み込む。
「ただの悪夢だったんだ」
自分の声のはずなのに、妙に余所余所しく聞こえた。
中っぽで、冷たい。
俺は、部屋の隅の暗がりに目を向けた。
そこに集まる影は、いつもより濃く、まるで黒いインクのようにドロリと固まっているように見えた。
ほんの一瞬……。
そこに一対の瞳が見えた気がしたんだ。
じっと耐えて。
幽霊のように。
こちらを、見つめている。
強く瞬きをする。
そこには何もない。
だけど、あの光景は脳裏に焼き付いて離れ難かった。
霧。
囁き声。
あの、猫。
俺は再び横になり、毛布を頭からすっぽりと被った。
やがて、呼吸はゆっくりと落ち着いていった。
だけど、あの異様な静寂だけは、いつまでもそこに居座り続けていた。
重く。
眠りは、容易には訪れてくれそうになかった。




