↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/4

—霧の絵画—

◆ ◆ ◆


部屋は静寂の中で待っていた。

木の床の上に、日の光が長く伸びている。空気の中には、雨と埃のほのかな匂いが残っていた。


涙が彼の顔を伝い落ちる。まるで、見えない器から溢れ出た霧のように。

彼の微笑みは残ったままだった。いまにも壊れてしまいそうなほど、脆く。


彼の両手が合わさる。


――パン! パン!


拍手の音が、静まり返った空間に鋭く響き渡った。そこには、喜びと感謝の双方がこもっていた。


彼は頭を下げた。まるで、風に煽られてしなる葦のように。


彼の前に立つ影は、微動だにしない。その瞳は何も語らず、ただ、他の誰かを待っているかのようだった。


◆ ◆ ◆


「夕飯の前にゴミ出しちゃってね」


台所から、お袋の声が飛んできた。


「はいはい、分かったよ」


俺はそう答えながら、ゴミ袋を引きずって玄関のドアへと向かった。

ドアを開けた瞬間、冷たい空気が一気に室内に流れ込んでくる。


「うわ……寒っ。もう冬が来るんだな」


そう呟きながら外に出て、背後のドアを閉めた。

アパートの階段を下りていくと、静まり返った廊下に自分の足音が反響する。


タッ……タッ……


「最悪だし。なんでこんな遅い時間にやってんだろ。もっと早く出しとけばよかったわ」


「ほら見ろ……凍え死にそうだ……全部、部屋にこもってマンガとライトノベルを読んでたせいだな」


階段の下に辿り着き、交差点へと足を踏み入れる。


「うーーん、どうだっけ? ゴミ箱ってどっちの方向だっけ?」


「この寒さのせいで、脳みそまで働かなくなってやがる」


しばらくうろついた後、ようやく見慣れた黒いゴミ箱を見つけ、臭う袋をその中に放り込んだ。


夜の空気が肌を刺す。

見上げれば、深いネイビーブルーの夜空が広がっていた。通り過ぎる風が、一吹きごとに少しずつ深く肌を切り裂いていく。


アパートの敷地を出て、静かな通りへと一歩を踏み出した。


白い霧の分厚い毛布が、道路の上に横たわっていた。重く、そして不自然なほどに、静まり返って。


それはまるで、俺を呼んでいるかのようだった。


車が通り過ぎていくが、そのエンジン音は霧にかき消されてこもって聞こえる。手すりから雨の雫が滴り落ち、一滴ごとに静寂の中へと消えていく前に、柔らかな残響を響かせた。


その時――


霧の向こうから……。


聞こえたんだ。


『……キャズメ……』


『キャズメ……』


『キャズメ……』


俺の、名前。


囁くような、声。


それが跳ね返り、戻ってくる。


何度も。


何度も。


その木霊が脳裏を巡るたび、俺の思考は周囲を囲む霧のように曖昧にブレていった。


「うわ……こんなの、滅多に見られるもんじゃないな」


「なんでこんなに霧が濃くなるんだ? 戻ったら絶対にネットで調べよう」


俺はさらにもう一歩、前へと進んだ。


「この霧……濃すぎて、何も見えな――」


俺の声は途切れ、白い闇の中へと溶けていった。


「……いや、もしかしたら……」


長い、沈黙。


「……もしかしたら、見たくないだけなのかもな」


一歩……。


一歩……。


一歩……。


歩みを進めるたびに、俺は霧の深みへと引きずり込まれていく。

頭上の街灯がチカチカと明滅し、まるで落ち着きのない目のように瞬いていた。


遠くへ歩けば歩くほど、世界が消失していく。


音。


人々。


光。


すべてが薄れていき、俺の名前を呼び続ける終わりのない白い靄の中に、ただ俺一人だけが取り残された。


最後の一歩を踏み出す。


現実が、パつんと弾けた。


霧が、俺を丸ごと飲み込んだ。


両手が小刻みに震える。

俺は、一体何をしているんだ?


呼吸がどんどん重くなり、息を吸い込むたびに喉に引っかかった。


(はぁっ、はぁっ、はぁっ)


「お袋……」


「……お袋……」


「お袋! お袋! お袋!!」


涙が顔を伝い落ちる。

必死に空気を求めようとするたびに胸が締め付けられ、息ができなくなっていく。


「誰かそこにいるの?!」


「助けて!」


「誰か助けてくれよ!!」


俺の声は、果てしない白の彼方へと消え去った。

返事はない。

ただ、静寂だけがあった。


俺はよろめきながら前へ進み、胸をきつくむしり取った。膝から崩れ落ち、冷たい霧の中を這いずる。

何かを探して、俺の目は激しく泳いだ。


誰でもいい、誰か。


その時……。


見えたんだ。


一対の、瞳が。


背筋に、ゾクリと冷たい悪寒が走った。


それはあまりにも不気味な、瞳――。

紫色の静寂を、鋭く貫いて。

物言わぬまま。影を帯びて。ギラギラと輝いて。

瞬き一つしない、幽霊のような眼差し。


じっと耐えて。観察して。待っている。

白の中に編み込まれた、無数の囁き声。


俺は硬直した。

濃い霧の奥深くに、黒い人影が立っていた。


真っ黒で。


輪郭がブレていて。


物言わぬ、影。


俺は瞬きをすることすら恐れた。


「な、何が起きてるんだ……?」


「何なんだよ……あれ……」


影の周囲の霧が、まるで目に見えない風に優しく払われるかのように、ゆっくりと漂い始めた。

その輪郭が、少しずつ鮮明になっていく。


俺は息を呑み、自分の口を手で覆った。


「え……?」


「あ……」


「なんだ……ただの黒猫か」


一気に安堵が押し寄せてきた。

視線を逸らし、長く溜め込んでいた息を吐き出す。

両目が閉じる。

バクバクと暴れる心臓を落ち着かせようと、胸に手を当てた。


「ただの、黒猫……」


「……は」


「……はは……」


「……はははは……!」


気づけば、俺の唇から笑い声が漏れ出ていた。

それは次第に大きくなっていく。


さらに、大きくなっていく。


全身がガタガタと震え出すほどに。

俺は脇腹を抱え、その状況のあまりの馬鹿馬鹿しさに笑い転げた。

自分自身の間抜けさに、笑った。

笑いが、どうしても止まらなかったんだ。


まだ笑い声を上げながら、俺は無理やり立ち上がり、目の前の小さな影を指差した。


「ただの黒猫じゃねえか!」


「ハハハハ!」


「ただの……猫だろッ!」


その時――。


笑い声が、喉の奥でピタリと引っかかった。


猫は、微動だにしない。

その爛々と輝く瞳は、じっと俺に固定されたままだ。

瞬き一つ、しない。


足元の影が、地面の上を不自然に這い伸びていった。


長く。


長く。


さらに、長く。


その身体が、グニャリとねじ切れる。

そのカタチはもう、到底猫と呼べるものではなかった。


俺の笑顔が、消え失せる。

全身の血の気が、一瞬で引いていく。


怪物が、その顎(あぎと)を開いた。

あまりにも、広すぎる幅で。


――俺の頭を、丸ごと飲み込めるほどの、裂け目。


俺の笑い声は、粉々に砕け散った。


「う、うわあああああああああああああッ!!」


俺は悲鳴を上げた。

何度も。

何度も。


その怪物が俺に向かって突進してくるのと同時に、絶叫が喉を引き裂く――。

まるで、死そのものが霧を割って突進してきたかのように。


そして――


すべてが、真っ暗になった。


◆ ◆ ◆


ガバッと身体を跳ね上げて、目を覚ました。

自分の悲鳴の残響が、まだ部屋の中に響いているような気がした。


俺は、自分のベッドの上にいた。

シャツが汗でびっしょりと張り付き、胸が激しく上下している。

喉が、焼けるように熱い。


部屋は、静まり返っていた。

静まり返り、すぎていた。


冷たく、青白い月光が、木の床の上にこぼれ落ちている。

カーテンがゆらりと揺れた。まるで、俺のものではない「誰かの息」に揺らされたかのように。


俺は震える手で、自分の胸を強く押さえた。

心臓のバクバクは、一向に収まる気配がない。


「……ただの、夢だ」


唾を呑み込む。


「ただの悪夢だったんだ」


自分の声のはずなのに、妙に余所余所しく聞こえた。

中っぽで、冷たい。


俺は、部屋の隅の暗がりに目を向けた。

そこに集まる影は、いつもより濃く、まるで黒いインクのようにドロリと固まっているように見えた。


ほんの一瞬……。


そこに一対の瞳が見えた気がしたんだ。


じっと耐えて。

幽霊のように。

こちらを、見つめている。


強く瞬きをする。

そこには何もない。


だけど、あの光景は脳裏に焼き付いて離れ難かった。


霧。


囁き声。


あの、猫。


俺は再び横になり、毛布を頭からすっぽりと被った。

やがて、呼吸はゆっくりと落ち着いていった。


だけど、あの異様な静寂だけは、いつまでもそこに居座り続けていた。

重く。


眠りは、容易には訪れてくれそうになかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。