坂井京子
坂井京子の部屋は、想像していたよりも片付いていた。
六本木の高層マンション。二十四階。窓から見える東京タワーが、夜の空に赤く光っている。
「とりあえず、座って」
彼女はそう言って、ソファを指した。革のソファは柔らかくて、座ると沈み込んだ。健太はまだ何も言っていない。いや、正確には言えなかった。
連絡をした後、京子からは30分ぐらいで連絡が来た。駅前のベンチに座る健太の写真を送ってほしいと言われて、送ったら「うん、来て」と返事が来て、タクシー代を払うから、すぐに来てと。
「お腹空いてない?」
健太は黙って頷いた。空いていた。空いていたけれど、食べる余裕がなかった。
京子はキッチンに立って、十 分ほどで雑炊を作ってきた。出汁の匂いが部屋に広がって、健太はそれを一口食べて、泣いた。
「——ごめん」
「いいよ」
京子は何も聞かなかった。隣に座って、健太が食べ終わるのを待っていた。
雑炊を食べ終えた健太は、ようやく口を開く。
「俺——いや、あの。信じられないかもしれないんですけど……昨日まで男だったんです」
「うん」
「TS病ってやつかもしれなくて」
「知ってる」
京子は驚く様子もなかった。健太が不思議に思って顔を上げると、京子は窓の外を見ていた。
「三年前にニュースで見たの。男の人が女になる病気。原因も治療法も分からないって」
「……はい」
「それで?」
「それで——お金がないんです。家賃も払えない。親にも言えない。バイトにも行けない。どうしようもなくて、アプリを見たら、あなたの投稿があって」
京子は健太をじっと見た。絵を描く人特有の、観察するような目だった。
「あの投稿ね、半分冗談だったの」
「……え」
「美少女を養いたいって。本当なんだけど。でもまさか本当に来るとは思ってなかった」
京子は笑った。三十二の歯を見せる笑い方ではなく、口角を少し上げるだけの、静かな笑い方だった。
「一ヶ月だけだとしても、私の美意識に合うかどうか分からないし」
「美意識?」
「私、イラストレーターなの。美少女を描く仕事をしてる。十年以上。だから、美少女にはうるさいの」
健太は少し引いた。この人は何を言っているんだろう。
「私、あなたの写真見て、来てほしいって思ったの。分かる?」
「……分からない」
「目が綺麗だったの。諦めてるのに、まだ何かを探してる目。あれを描きたかった」
健太は黙った。この人の言っていることは、まだ分からない。でも、少なくとも、悪い人ではなさそうだと思った。雑炊が温かかったから。
「一ヶ月だけ、ここにいていいよ」
「……本当ですか」
「条件がある」
京子は立ち上がった。窓際に歩いていき、東京タワーに背を向けた。逆光で表情が見えなかった。
「私の絵のモデルになって。生活費は全部私が出す。服も買う。でも、その間、私が描きたいポーズをしてほしい。変なことじゃないよ。座って、立って、寝転がって、それだけ」
「……それだけ?」
「それだけ」
健太は少し考えた。三秒くらい。実際はもっと短かったかもしれない。
「お願いします」
頭を下げたとき、長い髪が顔にかかった。まだ慣れない。この髪にも、この体にも、この声にも。




