180
こんなルカの姿を見るのは、二度目だ。
かつて泥酔したルカが、こんな状態になっていた。
表情のぬけ落ちたような顔で、視線もうつろに呆然としている。
それでいて、いまにも泣き出しそうな空気を纏っている。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」
気がついたら、ルカを抱き寄せ、抱きしめていた。
(そうだよね……ルカは、オルガが言った言葉を本気だと思ってるんだもん)
侮辱するような言葉の数々を放っていたオルガーに、理由はどうあれ怒りを覚える。
(次会ったら、何かしてやるんだから!)
ルカの背中をとんとんと叩きながら、そんなことを考える。
どのくらいそうしていただろう。幾分かすると、荒かったルカの呼吸が落ち着いてきた。
けれど、有希から離れる気配がないのでもう少し時間が必要なのだろう。
(それに、ルカのこんな姿、滅多に見られないし)
不謹慎だとはわかっているが、浮つく心は止められない。
他人には絶対こんな姿を晒すことはないだろうから、特別になった気分だ。――ほかの人に見せない姿を、自分に見せてくれるというのは純粋にうれしい。
背中を叩きながら、もう一方の手で、さらさらの髪の毛を梳く。
(こうやって、触り放題だし)
それに、少し春のにおいがしてきたとはいえ、まだまだ寒い。
こうして抱き合えば、暖かなルカのぬくもりが伝わる。
「――だいじょうぶだよ」
泣かなくて――涙を流していないけれど――大丈夫だよ。
何も不安に思わなくていいんだよ。不安なことなんてなんにもないよ。
かつて有希が裕子に貰った言葉を、同じように繰り出す。
――だいじょうぶ。有希ちゃんならだいじょうぶだよ。
「ルカなら大丈夫だよ」
――ママは、有希ちゃんが大好きだからね。だから安心して。
「あたしは、ルカが好きだからね。だから、安心して」
ルカの肩がぴくりと動いた。怪訝に思い、自分の放った言葉を反芻してハッとする。
「あ! す、好きって言っても、ライクだからね! ライク!」
そしてまたハッとする。
(ライクとラブってもしかして通じない!? 通じないよね!?)
「え、えぇと、ライクっていうのは、その……」
しどろもどろに喋っていると、ルカの身体が離れてゆく。
「る、ルカ?」
前髪が目にかかっているせいで、表情がまったく見えない。
「もうだいじょうぶなの? 落ち着いた?」
「…………」
「あ、手。痛いよね。今治すから」
ルカの腕に手を伸ばすと、負傷している右手に払われ、パシンと小気味良い音が鳴った。
「えっ?」
ぶつかった手の甲がジンと痺れる。ルカの血がこすれ、赤く色づいている。
「ねぇ…………どうしたの?」
ルカは黙ったまま動かない。
動かないどころか、やっとやわらいできていた雰囲気が、またぴりぴりと張りつめたものに戻っている。
(もしかして、オルガーの事が原因じゃ、ない……?)
では何が、ルカをこんな風にさせているのだろうか。
『悪い癖なんだ。あんなんなるのが』
かつて、ナゼットはそう言っていた。
――癖。
『僕が覚えてる限り、ここ数年はありませんでしたよ』
(ここ数年なくって、また出てきた……癖)
何がなんだかわからなくて、呆然とルカを見ていることしかできない。
「………え……もか」
「え?」
それからまた、ルカは黙った。
有希も黙って、ルカを見つめる。
黙って、黙って、黙って。
そうしてしばらくするとルカが、あぁ。と小さく呟き有希を見た。
その表情に、はっと息を飲む。――ルカが、微笑んでいた。
「お前も、兄様から何かされたのか?」
「えっ――――っ!?」
突然、顔面に向かって、ルカの手が伸びてきた。反射的に目を閉じてしまうと、こめかみに圧をがかかり、再び目を開けると視界は真っ暗になっていた。――ルカに、顔面を掴まれているのだ。
「え、ちょ」
顔が浮く。頭を掴まれ、引っ張り上げられ、膝立ちの状態から立ち上がる。
「手、いた……」
抗議するようにルカの手首を掴むと、逆にその手を取られ押された。
バランスを崩して転びそうになると、ルカの手が有希の手を引っ張る。無言で『立て』というように。
よろよろと後退していくと、背中に硬いものが当たる。次いで、後頭部がごちっとぶつかる。――城壁だ。
「や、だ! なに!?」
空いている方の手を振り回すと、ルカのどこかに当たった。何度もそこへ向かって手を振るっていると、やがてルカの舌打ちとともにその手も掴まれた。
両手をひとまとめにされ、頭の上の壁に押しつけられる。
「――っ!!」
視界は相変わらずルカの手で塞がれていて、両手もルカの片手にまとめられて捕まっている。
『お前も兄様から、何かされたのか』
「……! ルカ! あたし、オルガに何もされてなっ……」
途端、顔面を壁に押しつける手に力が込められる。
「――った」
こめかみと、後頭部が押しつぶされるように痛い。
(痛い、痛いってば!!)
「――――黙れ」
耳元で囁かれ、ぞわりと鳥肌が立つ。
冷徹な声音に、思わず身体がふるえた。。
何度も聞いたことのある声音――それはいつも、ルカが信用していない人達に向かって発せられるもの。
拒否と、拒絶の声音。
「……なんでよ……」
何が起こったのかわからない。
どうしてルカはこんな風になってしまったのだろう。
「ねぇ」
返事はない。
「言ってくれなきゃわかんないよ……」
ぎりぎりと腕を拘束する手も、顔面に押し当てられた手も、微動だにしない。
(なんでなの……)
なんで何も言ってくれないのだろう。
今だけじゃない。
いつだってルカは、何も言ってくれない。
「一人で抱え込んで、一人で苦しんで……」
悔しかった。
きっとルカにとって有希は、その程度の価値でしかないのだ。
抱えているものを、分かちあう必要のない程度。
それなのに、ルカの中へずかずかと足を踏み入れた。
その結果が――これだ。
「あたしはそんなに、ルカの力になれないの……?」
「…………」
返事はない。
やはり、ルカの苦しみの前には有希の存在なんて無意味なものなのだ。
(あたし……ばかだ)
ルカに近づけたと思っていたのは有希だけだった。
現に今、ルカの心は微塵も見えない。
それなのに、一人で勝手に舞い上がったりして。
(ばかだよ……ルカはこんなに苦しんでるのに)
「ごめんね」
力になってあげることができなくて。
「ごめん……」
いつも甘えているのは、有希だった。
今更ルカに頼って欲しいだなんて思うのは、有希のエゴでしかない。
「ごめんね、ルカ」
たとえ。
たとえルカの力になれないとしても。
たとえルカにとって、有希の価値なんてなくても。
「ごめんね……甘えてばっかで。――でも、それでもあたしは…………ルカのそばにいたいよ」
すぐ目の前にルカが居るはずなのに、触れているはずなのに、ルカがひどく遠い。
胸が苦しい。もう痛まないはずの傷がちりちりと焦げ付くように、熱い。
「…………ごめんね。好きだよ、ルカ」
「…………」
ぴくりとルカが動いた。
けれど、返事はない。
それが返事なのだろう。
わかっていた。
わかっていたはずなのに――――どうしてこんなにも苦しいのだろう。
くるしくて、くるしくて。
浅く短い呼吸を繰り返し、こみ上げてくる涙をやり過ごす。
ただでさえ、ルカに何かいやな思いをさせてしまったのだ。
――泣くなんて、これ以上見苦しい姿は見せられない。
(なのに、なんで)
泣くまいとするほど、涙が浮かぶ。
下唇をぐっとかみしめる。
それでも涙はじわじわ湧き出てくるのをやめないし、ルカの拘束もほどかれない。
ただただ、有希の鼻をすする音と、嗚咽があるだけだ。
「なんか、言ってよ」
あちこちが痛い。顔も、腕も、胸も、後頭部も、心も。
涙がルカの手の平の中に溶けてゆく。
「~~っなんとか言え! バカ! バカルカぁ!」
今身体が自由なら、ルカを叩けたのに。
いっぱい叩いて八つ当たりして、逃げ出してから大泣きできるのに。 口の中に鉄の味が広がる。どうやらかみしめすぎて切れたようだ。
涙もルカの手に余ったのか、有希の頬を伝って流れ始めた。
涙がたらたらと顎に流れ、はたと落ちた。
はたはたと四度落ちた後、すぐ傍で大きなため息を吐かれた。
「…………契約なんて、しなければ良かった」
「え?」
くちびるに吐息がかかる。
「――――お前、生まれた世界に帰れ」
いま、なんていったの。
そう有希が言う前に、やわらかいなにかが唇に触れ、傷口をぺろりと舐められた。
どこから香るのだろうか。
かすかに、薔薇の匂いがしている。
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