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目を覚ましてよ

 マザアに波紋が生じる。

 頭から落ちた少年を引きこむように波が立ち上がる。

「コタッ」

 地上からの声は届くのか、いや届くはずもなく立ちあがる波が次から次へと激しく落ちる。まるで嵐の日のように、餌に喰らい付く海獣のように。

「どうしよ、どどう、どうしたらいいんですかクロクシさあんっっ」

 連れてきた上司を振り返る。

「コタが、コタが落ちちゃいましたマザアにコタが」

 「落ち着け」

 上司の低い声に発言は止まっても、心配は止まらない。何の訓練も受けていない子どもがマザアに落ちた。

 先ほどの説明をコタはどこまで理解していたかは分からないが、マザアはただの湖ではない。落ちた記憶が集まり包括されている場所。

 在るべき場所である主を無くした記憶は常に空いた器を探し、そこに入り込んでは己の返るべき場所かを確認しようとする。マザアに落ちるということは、砂漠の真ん中に落とされこの砂を全て飲み込めといわれているようなもの。明らかに不可能で明らかにするべきではない作業。

 飲み込まないためにはそれなりの訓練が必要となるそこに、ただの少年が落ちた。

「手が出せんな」

 上は晴天なのに下は嵐のような荒れ模様。これではいくらマザアに慣れた者といえど飛び込めない。

 この状態がいつまで続くのか、少年は無事なのか。危険だが仕方がないとクロクシが強行突破しようとした時。

「凪いだ…」

 先ほどまでがまるで嘘のように波紋一つない凪が水面を支配する。

 狼はその機会を逃さない。大きな体躯が空に浮く一拍とほんの少しのスプラッシュ音を残し、その姿は水中へと消えた。






「目を覚ましてよ、コタ」

 兎はベッドに横たえられている少年を見ながら呟く。

 太陽は傾き、長くのびる影はあとしばらくすれば陽が落ちることを教えている。

「目を覚ましてよ、コタ。もうすぐ夜だよ、寝過ぎだよ」

 少年が横になっても大人が十分横になれるベッドの余りスペースにリクリは座り込んでいた。

 いつ目を覚ますか分からない落とし者に付き添っていられるのは見習いのリクリぐらいで、

 もちろん彼はそれを喜んで受け入れたけれど、昼になってもこうして夕方になっても指先一つ動かない少年をみるのは兎に恐怖を抱かせ始めていた。

マザアから引きあげられたあの時。救護室に運ばれていく少年の顔は青白く、クロクシのがっしりした腕からこぼれる細い腕は力なく下に落ち、歩みに合わせて揺れていた。その腕も血の気がないように見えて、少年の藍色に近い黒髪を余計に際立たせる。

 今朝、至近距離で見たはずの艶やかな瞳は未だ閉じられたまま開く気配はない。

 落プロ見習いがマザアに呑まれること自体は珍しくない。ただし症状の深刻さは誰にも分からない。

 訓練を受けていない一般人、しかも幼い少年が、落プロのコントロールが一切ない状態のマザアに呑みこまれるなんて事態はこれまで起こったことがないのだから。


 リクリは落とし者プロフェッショナルという職業に憧れてこのセンターに押しかけた。

 兎は一年で家を出て二年で群れを出る。三年で仕事に就くのが普通だから、リクリが就職を希望したのは何らおかしいことではない。

 だが落プロの門はリクリにとって、見上げても見上げきれないほど高いものだった。

 まず身体が小さい。リクリは寝ている少年を見る。狼が片手で抱えても問題ないほどの体重、立つと背は彼の腹あたりか。

 リクリは少年とそう変わらないか一回り小さい。兎の身体はこんなものだが、この大きさでマザアに対峙するなど無謀だと判断された。それどころかディタをコントロールできるかどうかさえあやしいと。

 落プロを職業としている者はみな身体が大きい。それはつまり力が強く、最も重要なことに受け入れる器が大きいということ。器が小さければディタを受け止めきれない。

 荒れ狂う水面。襲いかかる波。落プロでさえ簡単にコントロールできなかった状況。そこに呑みこまれた少年。

 コタの目はこのまま一生開かないのだろうか、ふとリクリの脳裏にそんな言葉が浮かぶ。いや、そんなことはあるはずがない、あってはならない。

 どんな人かは分からないが、少年を待つ家族がいるはずだ。

 会って間もないが、クロクシも心配している。そして自分も…。


 そこまで考えて、兎は眉根を寄せた。

 自分のは純粋な心配なのだろうか。

 思うと同時にそうだと肯定する自分と、いいや違うと否定する自分がいる。

 しばらく葛藤した後、兎は長い溜息をついた。

 ああそうだ、確かに心配はしているけれど、自分の感情は純粋な心配だけではないのだ。

 兎は知りたい。自分と同じ大きさの少年がマザアに落ちてどれほどの衝撃が発生するのか。少年が目を覚ませば詳細が聞けるだろう。危険の大きさを知り、少年に大したダメージがなければ自分が落プロになれる道が開かれるかもしれない。

 しかし少年が目を覚まさなければその道は断たれてしまう、きっと永遠に。だから必ず目を覚ましてもらわなければならない。

 そう考えている自分の浅ましさを、兎は認めた。

 なりたいのだ、落プロに。

 兎の情熱は認められ、部門【湖】での見習いとしての存在は認可された。だがリクリが向かうのはマザアではなくデスク。処理するのはディタではなく書類。

 違うのだ、これではないのだ。

 もちろんオフィスワークも重要な仕事であるとの自覚はある。与えられた仕事に手を抜いたこともない。

 それでも。

 それでもやっぱりマザアに、ディタをコントロールする落プロに、リクリは憧れ続けていた。



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