じゃ、おれ、コタです
リクリが少年を見つけたのは偶然だった。
毎朝の日課である散歩の途中、ふと気まぐれにいつもは入らない林の中に足を踏み入れた。
「おおう、朝露たっぷりですねぇ」
ふふふ、と機嫌良く手足のみならず全身を濡らしながら朝露を堪能していると、ふと視界に何かが入った。
「?…きょわぁつ!!」
後ろ向きに足を数歩戻すと、そこにあったのは足。と手。と胴体と頭と…つまりは仰向けになった人間の少年だった。
「な、の、え、ええ?」
どうすればどうすればどうすればいいのこんな時!?
プチならぬけっこうなパニック状態に陥りかけたリクリだったが、そうだ!と気付く。
「名前!名前聞かなきゃ。ね、ねねねえ君なんて名前っ?……って反応なし!」
それもそうだ、寝っ転がっている少年は気楽に睡眠をとっているわけではなかったのだから。
「生き、生ききき生きてるよ、ね?」
生きてなかったら返事は確実に返ってこないだろう、なんて言葉は脳裏に浮かばなかったことにする。するったら、する。
生きてないのも嫌だけど、ここでいきなり起き上がられても恐い。起きてほしいような欲しくないような、そうだせめて伸びをしてから起きてください、その方が絶対平和。とあらぬ方向へ思考を逸らしながら恐る恐る近付く。
「おき、起きてくださぁぃ」
気持ち小さくなってしまった発声。反応は無し。
「名前、教えてくださぁぃ」
もう泣きそうである。
青色通り越して土気色になっている顔色の人間が呑気に名前を聞かれて自己紹介なぞするものか。そんな事実に気付く余裕すらない。
「コ…た…」
「きょ――――っっっ!!」
文字通り飛び上がる兎。種族的に跳躍はそこそこある。
「ここここた、コタですか?コタですかぁっ」
返事した、返事した、返事した、リクリの心臓はバクバクである。
もうなんていうか脱兎のごとく逃げ出したい。だって兎なのだもの。今度こそ思考は大パニック。
「コ…タ」
「にぎゃ――――っっっ!!」
そして今度こそ逃げ出した。まさに脱兎のごとく、ていうかもう脱兎体現中実現中うぅっ。
逃げたリクリが飛び込んだ先は上司の元だった。こんな時間に起きていそう、または起こしても大丈夫そうなのは彼だけだ。
いや、実際はとにかくもう誰でもよかったのだけれど生きている存在であれば。
「クロクシさぁぁっぁぁんっっ」
上司は自分の足にひっついてギャン泣きする見習いを引っぺがし、何をしゃべっているのか分からなかったからちょっと落ち着かせようと一吠えし、瞬間冷凍されたように固まった見習いを溶かすために首根っこ掴んで数回ぐらんぐらん振り、復活したかに思えた兎が口走る理解できない言葉の羅列を正しいものにさせようと「頭の毛ひっこ抜くぞ」というセリフをちょっと口走ってみた結果、ようやく物事を把握した。
少年を回収する間も救護室に運ぶ間もその後部屋に運ぶ間もずっと両手で頭をガードしている兎が出来あがったが、まあこれはどうでもいい余談だろう。
「落とし者、か」
何を聞いても答えが出てこない少年はどうやら落とし者らしい。
「落としもの?」
「記憶をこの世界のどっかで落としてきた者を、落とし者と呼ぶんだ。聞いたことないか」
狼に言われて考えてはみるが、はてさて見事に記憶に引っかからない。そもそも記憶自体まるっと落っことしたらしいので、引っかかるも何もないのであろうが。
「自分の名前は言えるか」
「コタ」
「それは兎が呼んでいた名前だろう。自分で思う自分の名前は」
名前。と首を傾げてみるものの、傾げたからといって記憶が転げ落ちてくることもなく。
「うん、コタしか思いつかん」
頭を真直ぐな位置に戻してからきっぱり言い切った。
「ぅわわわ、どうどどどうしましょうクロクシさあん」
涙目でおろおろし出すリクリ。
それもそのはず、落とし者に対して一番やっちゃいけないことは『名前を聞く前に名前を呼ぶこと』なのだから。
「す、すすり替わっちゃったんでしょうかあっ」
上司の腕に両手をかけた兎の大きな瞳は決壊寸前だ。
落とし者に出会った場合、個人の情報に関してこちら側から発信してはならない。間違った記憶が正しい記憶としてすり替わるのを防ぐためだ。
すり替わったことが原因で愛する家族を憎悪する結果になった例もあるとリクリは知っていた。
「落ち着け。少年は自分で名乗ったと言っていただろう」
「そう、はい、そうなんですけどおぉぅ」
今になって不安になる。あれは名乗りと言っていいのか、質問に反応が返ってきたからそれが答えだと思っていたけれど、たまたま声を発した瞬間が質問と重なっていただけだったとしたら。コタというのは名でも何でもなくもしかして星の名前とかだったりして。
思考を銀河に飛ばしている間に物事は進む。
「じゃ、おれ、コタです」
少年はあっさり、それ自分の名前にすると言い。
「そうか」
それでいいんですかクロクシさああんっ、と同じくあっさり物事を受け入れた上司に見習いは焦る。
「本人が受け入れたんだ。本名か偽名か知らないが呼び名がないのは不便だろう」
ああ、まあ確かに不便。って違う、なんかずれてる。名前って大事、とっても大事、偽名とかダメ、絶対、ダメ。
上司の情熱と興味がただひとつに絞られていることはリクリもよく知っているが、今回のこれってその興味に関連してることじゃないんですか違うんですか違うんですねはい分かりました。
見習いを放置しさくさく会話を進める上司に諦めの感情を抱いて、しがない見習いは朝食最後の一口を噛み締めた。




