第九話 「久美子、立ち尽くす」
村上誠一の休日の昼食は、たいてい自分で作る。
といっても「作る」というほどのことはしない。
冷蔵庫を開け、昨夜の残りを見つけ、それをラップのかかったまま電子レンジに入れる。
ボタンを押す。
チンと鳴る。
食べる。
これが誠一の「作る」の全容だ。
久美子の台所には、久美子だけが分かるルールがある。
ラップがピタッと密着しているのは「今日中に食べて」で、少し浮かせてあるのは「明日でいい」・・らしい。
「らしい」というのは、誠一がそれを毎回間違えるからだ。
間違えて「それ明日のやつ」と帰宅した久美子に言われたことが、三回ある。
今日は慎重に選んだ。
一番ラップが密着しているやつを選んだ。
煮物だった。
温めて、白飯と一緒に食べた。
美味しかった。
食器を洗い、ダイニングに戻り、テレビをつけた。
土曜の午後は、どのチャンネルも似たような内容だ。
四周した。
消した。
静かだった。
家族がいない時の静寂と、家族がいるのに誰も話しかけてこない時の静寂は、少し違う。
前者は空虚だが、後者は・・存在するのに見えない、という感覚だ。
今日は前者だ。
それはそれで、悪くない。
誠一は立ち上がり、ジャケットを羽織った。
玄関で鏡を見た。ジャケットにチノパン。
悪くない。
誠一は「行ってきます」と誰もいない部屋に言って、玄関を出た。
駅ビルのコンコースに着いたのは、午後一時過ぎだった。
今日もピアノはある。
土曜の昼間だから人通りは多い。
誠一は少し離れた場所から鍵盤を確認した。
誰も座っていない。
この一週間で、三回来た。
火曜の帰り道、木曜の夜、そして今日で三回目だ。
どの回も弾いた。
音階から始めて、ワルツの一節、そして少しずつ次の小節へと進んでいった。
震えは木曜から来なくなった。
手が怖くなくなった、というより・・鍵盤が「そこにある」ことに、体が慣れ始めた。
ほんの少しずつ、指が戻っている。
三十三年間どこかで待っていたものが、一日ずつ、一小節ずつ、出てきている。
椅子に座った。
高さを合わせる動作が、今日は一瞬だった。
両手を鍵盤に置き、音階を一通り弾いてから、ショパンのワルツに入った。
先週まで四小節で止まっていたのが、今日は十六小節まで進んだ。
完璧ではない。
何か所か詰まった。
でも止まらなかった。
十六小節目が終わったところで、誠一は一度手を止めた。
深呼吸をした。
また弾き始めた。
今度は頭から通してみた。
二十小節。
二十四小節。
途中で少し迷ったが、指が思い出した。
三十小節。
その時、誠一は気づいていなかった。
三メートル後ろで、久美子が立ち尽くしていることを。
久美子が駅ビルに寄ったのは、偶然だった。
友人とのランチの後、帰り道に「そういえば醤油が切れてた」と思い出してスーパーへ寄るつもりが、いつもと違う入り口から入ったら駅ビルのコンコースに出てしまった。
「どこで出ればよかったっけ」と思いながら地下通路を歩いていると、ピアノの音が聞こえてきた。
聞き覚えのある音ではなかった。
知っている曲だった。
でも知っている弾き手の音ではなかった。
コンコースに流れる音楽としては・・深すぎた。
重すぎた。
通り過ぎる人々の足音に、溶け込まない音楽だった。
久美子は足を止めた。
コンコースの人の流れの中、久美子だけが止まっていた。
ピアノを弾いているのは、後ろ姿だけが見える男性だ。
スーツではなく、ジャケットとチノパン。
その背中に、久美子は既視感を覚えた。
三十年間見てきた背中だ。
それが誠一だと気づくまで、五秒かかった。
五秒間、久美子は自分の目を信じていなかった。
あの人は誠一ではない、と思っていた。
誠一があんなふうにピアノを弾くはずがない・・あの指の動き、あの姿勢、鍵盤との距離のとり方。
自分が三十年間知っていた夫は、会社に行って、ご飯を食べて、電子レンジのボタンを押す人だ。
あのピアノの前に座っている人ではない。
でも、後ろ姿は、どう見ても誠一だった。
久美子は声をかけることができなかった。
なぜかは分からない。
「あなた」と一声かければよかった。
でも、かけられなかった。
もし声をかけて振り返られたら、この音が止まるような気がした。
止めてはいけないような気がした。
そういう確信めいた気持ちが、どこから来たのかは自分でも分からなかった。
ただ・・あの音を、今だけは、止めてはいけない。
久美子は動けなかった。
ショパンだ、と久美子は思った。
クラシックの曲名はほとんど知らないが、ショパンだとは分かった。
それだけは分かった。
三十年間、誠一がかつてピアノを弾いていたことは「知っていた」。
新聞の切り抜きを見た時も、それがピアニストとしての誠一の話だと理解していた。
ショパン国際コンクールで三位を取った人物が、今自分の隣で眠っているのだということも、「知識」として持っていた。
でも「知識」は「音楽」ではなかった。
三十年間ずっと、誠一のピアノを音として聴いたことがなかった。
それが今・・コンコースの蛍光灯の下、行き交う人々の足音を縫って、誠一の弾くショパンが、久美子の体の中に入ってきた。
知識ではなく、音として。
夫として知っている人間ではなく、音楽を弾く誰かとして。
久美子は、自分の目が潤んでいることに気づいていなかった。
気づかないまま、立ち尽くしていた。
コンコースを通り過ぎる人々が、気にもとめずに横を歩いていく。
久美子は動けなかった。
あの背中が、三十年間知っていたはずの背中が、今夜は少し遠くに見えた。
遠く、という意味が、どういう意味なのか、久美子自身には分からなかった。
ただ、遠かった。
演奏が止んだ。誠一が手を膝の上に置いた。
久美子は反射的に、一歩後ろに下がった。
誠一が振り返る前に、そっとその場を離れた。
足早に歩きながら、久美子は手の甲で目尻を拭った。
スーパーへ向かいながら、醤油を買いながら、帰り道を歩きながら・・久美子はずっと、さっきの音楽のことを考えていた。
夕方六時過ぎ、久美子が帰ってきた。
「ただいま」と久美子が言った。
「おかえり」と誠一は言った。
ここまでは通常の手順だ。
この後、久美子はエコバッグを台所に置き、冷蔵庫を確認し、夕飯の段取りを始める。
誠一はリビングで邪魔にならないようにしている。
それが村上家の帰宅ルーティンだ。
しかし今夜は少し違った。
「お風呂、先入る?」と久美子が聞いた。
誠一は一瞬、固まった。
「先? 俺が?」
「そう。どうする?」
「・・いや、あとでいいよ。久美子が先に入って」
「私は夕飯準備してからでいいから。先入りなよ」
誠一には分からなかった。
なぜ久美子が「先入りなよ」と言っているのか。
普段は夕飯が終わってから、久美子と翔と麻央が順番に入った後、誠一は最後に入る。
ルール化されたわけではないが、自然とそうなっていた。
誠一は「最後の人」だった。
その最後の人が、今夜いきなり「先入りなよ」と言われた。
「入りなさいよ」と久美子は言った。
語尾が、ほんの少しだけ、いつもより柔らかかった。
誠一は結局、先に風呂に入った。
三十年で初めてかもしれない、と思いながら湯船に浸かった。
同じ湯なのに、なぜか少し温かく感じた。
夕飯はカレーだった。
「カレーか」と誠一は言った。
「昨日の残り。まだあったから」と久美子は言った。
「好きだよ、カレー」
「知ってる」
久美子が「知ってる」と言った。
それだけの一言だ。
それだけの一言なのに、誠一はしばらく箸を止めた。
「知ってる」・・久美子が誠一の好き嫌いを知っている。
当たり前のことだ。
三十年一緒にいれば知る。
でも「知ってる」と、あの声の温度で言葉にされたのは・・いつぶりか、誠一には思い出せなかった。
「美味しいな」と誠一は言った。
「昨日より煮込んだから」と久美子は言った。
「残り物だから」ではなかった。
「煮込んだから」だった。
誠一はそれに気づいたが、何も言わなかった。
言うと崩れそうな気がした。
何が崩れるのかは分からないが、今夜この食卓には、黙っているのが正しいものがある、と誠一は思った。
翔が「父さん、今日どこ行ってたの」と聞いた。
「散歩」
「何時間も?」
「そんなに長くなかったよ」
「ふーん。母さん、今日帰り遅かったな」と翔は今度は久美子に言った。
「友達と会ってたんでしょ」
「そう」と久美子は言い、カレーのルーをよそった。
誠一と久美子の目が一瞬合った。
久美子はすぐ目を逸らした。
何か知っているのかもしれない、と誠一は思った。
でも確かめなかった。
確かめると、何かが変わる気がした。
「先に入りなよ」も「煮込んだから」も・・その言葉たちが今夜だけ持っている意味を、言葉にしてしまうと、別のものになる気がした。
誠一は黙って、カレーを食べた。
美味しかった。
その夜、布団に入った後、久美子はスマートフォンを見ていなかった。
珍しいことだ。
久美子は寝る前にたいていスマートフォンでニュースを見るか、友人とのやり取りをする。
でも今夜は画面が暗いまま、天井を見ていた。
誠一が電気を消しかけて、止まった。
「今日、どこ行ったんだ?」と誠一は聞いた。
「友達とランチ。そのあと寄り道して帰ってきた」
「そうか」
「寄り道」という言葉が少し引っかかったが、誠一はそれ以上聞かなかった。
電気を消した。
暗闇の中で、二人は並んで天井を見た。
誠一は天井を見ながら、今日弾いたワルツのことを思っていた。
三十小節。止まらなかった。
震えは来なかった。
指が戻っている。
少しずつ、でも確かに。
久美子は天井を見ながら、コンコースで聞いた音楽のことを思っていた。
あの背中。
あの指の動き。
自分の目が潤んでいたことを、誠一はまだ知らない。
二人とも、それを口にしなかった。
ただ、並んで、天井を見ていた。
三十年間、この部屋で同じように眠ってきた。
同じ天井を見てきた。
でも今夜だけは、同じ天井が、少し違うものに見えた・・かもしれない。
確かめることはしなかった。
確かめなくても、今夜はそれで十分だった。
久美子が先に目を閉じた。
誠一は少しだけ遅れて、目を閉じた。
村上家の夜は、静かに更けた。




