第八話 「ベンチの老人」
土曜の朝、村上家では誰もが思い思いの時間を過ごしていた。
久美子はパートが休みで、午前中から台所でなにかを煮ている。
翔はソファでスマートフォンを操作し続けている。
就活のウェブテスト対策をすると言ってから、もう三時間になる。
麻央はドライヤーの音がしているから、昼頃に友人と出かける準備をしているのだろう。
誠一は、邪魔にならないようにリビングにいた。
「邪魔にならないようにいる」というのが休日の誠一のスタンスだ。
存在はする。
ただし目立たない。
声をかけられたら答える。
かけられなければかけない。
リビングという共有空間にいながら、できるだけ「いない感じ」を維持する・・それが長年の経験から得た最適解だった。
これが透明人間の戦略だ、と誠一は思った。
家でも透明。
会社でも透明。
駅のコンコースでは、蓋の閉じたピアノの前に立ち尽くす存在。
三重に透明な人間だ、と気づいたのは最近のことだ。
気づいて、少し笑えた。
笑えるくらいには、今週は気持ちが違う。
誠一は新聞を読んだ。
スポーツ欄、経済欄、社会欄と読み終えて、折り畳んでテーブルに置いた。
やることがなくなった。
翔が「父さん、今日どっか行かないの」と言った。
誘っているのではなく、「リビングを占領しないでくれ」のニュアンスに近いことは、長年の経験で分かる。
「散歩でもしてくるか」と誠一は言った。
「行ってらっしゃい」と久美子が台所から言った。
外は穏やかな晴れだった。
九月の下旬にさしかかり、暑さが抜けて空気が少し澄んでいる。
街路の銀杏はまだ緑だが、葉の端がわずかに色づき始めている。
誠一は特に行き先を決めずに歩き始めた。
ジャケットにチノパン、スニーカー。
休日の誠一は職場の誠一より少し若く見える、と久美子が言ったことがある。
以前のことだ。
最近は言わない。
気がつくと、駅の方角に歩いていた。
駅ビルのコンコース。
土曜の昼間は人が多い。
家族連れ、カップル、買い物途中の人々。
昨夜の静けさとは全く違う空間だ。
ピアノの前にも、数人が足を止めていた。
今日は誰も弾いていなかった。
誠一は人混みの端に立ち、しばらくピアノを見ていた。
昨夜、あそこで四小節弾いた。
あそこで手が震えた。
あそこで老人に「失礼ですが」と声をかけられた。
昼間の光の中で見ると、昨夜よりも普通のピアノに見える。
怖くもなく、神聖でもなく、ただのグランドピアノだ。
誠一はゆっくりとピアノ椅子に近づき、座った。
土曜の昼間だ。
人目がある。
昨夜のような静けさはない。
でも、だからこそ・・と誠一は思った。
逃げる理由がなくなる。
人がいるなら弾けばいい。
両手を鍵盤に置いた。
今日は震えなかった。
最初の音が出た。
昨夜弾いたワルツの続きからではなく、音階から始めた。
ドレミファソラシド、と指を動かす。
一オクターブ。
両手で。
子どもの練習みたいだが、それでいい。
今の誠一には、まずこれが必要だった。
指に鍵盤を思い出させること。
音を出すことを、怖くないと体に教えること。
音階が終わったところで、誠一はそのまま続けた。
手探りの旋律が出てきた。
どこかで聞いた曲ではない。
楽譜もない。
その場で指が選ぶ音の流れだ。
それがコンコースの空気の中に、静かに溶けていった。
「おじさん、うまいね」
声がした。
見ると、五、六歳くらいの男の子が、ピアノの横にいた。
買い物袋を持った母親が後ろで「ごめんなさい、急に声かけちゃって」と言った。
「いや、いいですよ」と誠一は言った。
「ほんとにうまいの?」と男の子は言った。
疑っている顔だ。
「どうかな。昔はもう少しうまかったかな」
「いつ弾けるようになったの」
「十歳の頃から」
「何年やってんの」
「んー、四十五年くらい」
「よんじゅうご!」と男の子が叫んだ。
お母さんが「静かに」と言った。
「でも、しばらくやってなかったから、錆びてるんだよ」と誠一は言った。
「さびって何」
「錆びる、ってのは・・うまく動かない、ってこと」
「ふーん」と男の子は言って、「じゃあもっと弾けばさびが取れるじゃん」と言った。
返す言葉がなかった。
五歳児の理屈の方が、五十五歳の言い訳より、ずっと正しかった。
男の子と母親が立ち去った後も、誠一はしばらく弾き続けた。
さっきより少し踏み込んで、ショパンのワルツの最初の部分を弾いた。
昨夜途中で止まったところまで、今日は辿り着けた。
それ以上は弾かなかった。
弾けるかもしれないが、今日はここまでにしようと思った。
急がない方がいい気がした。
鍵盤から手を離した時、背後に誰かの気配があった。
「また来られたんですね」
低く、穏やかな声だった。
誠一は振り返った。
昨夜の老人だった。
紺色のジャケット。
白髪。
深い皺。
飄々とした顔立ちは昨夜と変わらない。
ただ今日は手に缶コーヒーを持っていて、ピアノの傍のベンチに腰を下ろした。
「あ・・昨夜も」と誠一は言った。
「ここでよく休憩するんです」と老人は言った。
「このベンチが居心地いいもので」
老人は缶コーヒーを一口飲んだ。
誠一はまだ椅子に座ったまま、なんとなく立ち去りにくかった。
「お上手ですね」と老人が言った。
「いや、全然」
「いいえ」と老人は静かに言った。
「ずいぶん懐かしい弾き方をされますね」
懐かしい、という言葉が引っかかった。
「懐かしい弾き方、というのは」
「昔の奏法といいますか」
老人はほんの少し考えてから、「ロマン派の、昔ながらの解釈の弾き方です」と言った。
「最近の若い方はテンポが整然としていますが、あなたの弾き方にはルバートが入っている。呼吸がある」
ルバートという言葉を誠一が聞いたのは、何十年ぶりかだった。
テンポを自由に揺らすこと。
楽譜通りではなく、音楽に呼吸させること。
古賀教授が繰り返し教えてくれた技法だ。
「先生に、そう教わりました」と誠一は言った。
「どちらの先生に?」
「古賀、という人に」
老人は缶コーヒーを持ったまま、少し間を置いた。
コンコースの人波が流れている。
足音が重なっている。
それなのに、その間だけが、妙に静かだった。
「そうですか」と老人は言った。
その一言の置き方が、普通ではなかった。
驚いているのではない。
動揺しているのでもない。
ただ・・何かを静かに受け取ったような、言葉の奥に引力がある言い方だった。
「ご存知ですか、古賀という人を」と誠一は聞いた。
「さあ」と老人は言った。
「ピアノを弾く方は多いですから」
それ以上の答えはなかった。
老人は缶コーヒーを飲み終え、ゆっくりと立ち上がった。
「また弾きに来てください」と老人は言った。
「ここのピアノ、いい音がしますよ。ちゃんとした職人が調律していますから」
それだけ言って、老人はゆっくりと歩き去った。
昨夜と同じように、人混みの向こうへ、静かに消えていった。
誠一はしばらく、老人の消えた方向を見ていた。
懐かしい弾き方。
ルバート。
古賀という名前を出した時の、あの一瞬の間。
ちゃんとした職人が調律している・・と言った。
ということはあの老人は、このピアノのことを知っている。
ここに通っている。
あるいは、ここに関わっている。
調律師、と誠一は思った。
分からない。
でも「ちゃんとした職人が調律している」という言い方は、内側を知っている人間の言い方だった。
誠一はゆっくりとピアノ椅子から立ち上がり、鍵盤を見た。
昼間の光の中で、白い鍵盤がくっきりと光っている。
誰かがこの音を、ずっと整えてきた。
帰り道、誠一はコンビニに寄った。
肉まんを一つ買った。
少し高いが、今日は気分がよかった。
外で一人で食べながら歩くのは久しぶりだった。
子どもみたいで恥ずかしい気もしたが、誰も見ていなかった。
五歳の男の子の言葉が、また頭に浮かんだ。
・・もっと弾けばさびが取れるじゃん。
そうだな、と誠一は思った。
三十三年間、開けなかった箱がある。
でも段ボール箱は開いた。
ピアノの前に座れた。
四小節、弾けた。
今日は音階と、ワルツの一節まで弾けた。
少しずつ、さびが取れているかもしれない。
手の震えは今日は来なかった。
それで十分だ。
今日のところは。
帰宅すると、翔が「あ、父さんお帰り」と言った。
「おう」
「どこ行ってたの」
「駅の方」
「なんか買ってきた?」
「肉まん食べながら歩いてた」
翔が「え、恥ずかしくないの」と笑った。
笑われた。
でも、笑いかけてきたということでもある。
父親が笑われることと、父親と笑いを共有することは、ほんの少しだけ、違う。
「恥ずかしいよ」と誠一は言った。
翔がまた笑った。
今日は、それだけで十分だった。




