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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第八話 「ベンチの老人」

 土曜の朝、村上家では誰もが思い思いの時間を過ごしていた。

 久美子はパートが休みで、午前中から台所でなにかを煮ている。

 翔はソファでスマートフォンを操作し続けている。

 就活のウェブテスト対策をすると言ってから、もう三時間になる。

 麻央はドライヤーの音がしているから、昼頃に友人と出かける準備をしているのだろう。


 誠一は、邪魔にならないようにリビングにいた。

「邪魔にならないようにいる」というのが休日の誠一のスタンスだ。

 存在はする。

 ただし目立たない。

 声をかけられたら答える。

 かけられなければかけない。

 リビングという共有空間にいながら、できるだけ「いない感じ」を維持する・・それが長年の経験から得た最適解だった。


 これが透明人間の戦略だ、と誠一は思った。

 家でも透明。

 会社でも透明。

 駅のコンコースでは、蓋の閉じたピアノの前に立ち尽くす存在。

 三重に透明な人間だ、と気づいたのは最近のことだ。

 気づいて、少し笑えた。

 笑えるくらいには、今週は気持ちが違う。


 誠一は新聞を読んだ。

 スポーツ欄、経済欄、社会欄と読み終えて、折り畳んでテーブルに置いた。

 やることがなくなった。

 翔が「父さん、今日どっか行かないの」と言った。

 誘っているのではなく、「リビングを占領しないでくれ」のニュアンスに近いことは、長年の経験で分かる。

「散歩でもしてくるか」と誠一は言った。

「行ってらっしゃい」と久美子が台所から言った。


 外は穏やかな晴れだった。

 九月の下旬にさしかかり、暑さが抜けて空気が少し澄んでいる。

 街路の銀杏はまだ緑だが、葉の端がわずかに色づき始めている。

 誠一は特に行き先を決めずに歩き始めた。

 ジャケットにチノパン、スニーカー。

 休日の誠一は職場の誠一より少し若く見える、と久美子が言ったことがある。

 以前のことだ。

 最近は言わない。


 気がつくと、駅の方角に歩いていた。

 駅ビルのコンコース。

 土曜の昼間は人が多い。

 家族連れ、カップル、買い物途中の人々。

 昨夜の静けさとは全く違う空間だ。

 ピアノの前にも、数人が足を止めていた。


 今日は誰も弾いていなかった。

 誠一は人混みの端に立ち、しばらくピアノを見ていた。

 昨夜、あそこで四小節弾いた。

 あそこで手が震えた。

 あそこで老人に「失礼ですが」と声をかけられた。

 昼間の光の中で見ると、昨夜よりも普通のピアノに見える。

 怖くもなく、神聖でもなく、ただのグランドピアノだ。


 誠一はゆっくりとピアノ椅子に近づき、座った。

 土曜の昼間だ。

 人目がある。

 昨夜のような静けさはない。

 でも、だからこそ・・と誠一は思った。

 逃げる理由がなくなる。

 人がいるなら弾けばいい。


 両手を鍵盤に置いた。

 今日は震えなかった。

 最初の音が出た。

 昨夜弾いたワルツの続きからではなく、音階から始めた。

 ドレミファソラシド、と指を動かす。

 一オクターブ。

 両手で。

 子どもの練習みたいだが、それでいい。

 今の誠一には、まずこれが必要だった。

 指に鍵盤を思い出させること。

 音を出すことを、怖くないと体に教えること。


 音階が終わったところで、誠一はそのまま続けた。

 手探りの旋律が出てきた。

 どこかで聞いた曲ではない。

 楽譜もない。

 その場で指が選ぶ音の流れだ。

 それがコンコースの空気の中に、静かに溶けていった。


「おじさん、うまいね」

 声がした。

 見ると、五、六歳くらいの男の子が、ピアノの横にいた。

 買い物袋を持った母親が後ろで「ごめんなさい、急に声かけちゃって」と言った。

「いや、いいですよ」と誠一は言った。

「ほんとにうまいの?」と男の子は言った。

 疑っている顔だ。

「どうかな。昔はもう少しうまかったかな」

「いつ弾けるようになったの」

「十歳の頃から」

「何年やってんの」

「んー、四十五年くらい」

「よんじゅうご!」と男の子が叫んだ。

 お母さんが「静かに」と言った。

「でも、しばらくやってなかったから、錆びてるんだよ」と誠一は言った。

「さびって何」

「錆びる、ってのは・・うまく動かない、ってこと」

「ふーん」と男の子は言って、「じゃあもっと弾けばさびが取れるじゃん」と言った。


 返す言葉がなかった。

 五歳児の理屈の方が、五十五歳の言い訳より、ずっと正しかった。

 男の子と母親が立ち去った後も、誠一はしばらく弾き続けた。

 さっきより少し踏み込んで、ショパンのワルツの最初の部分を弾いた。

 昨夜途中で止まったところまで、今日は辿り着けた。

 それ以上は弾かなかった。

 弾けるかもしれないが、今日はここまでにしようと思った。

 急がない方がいい気がした。


 鍵盤から手を離した時、背後に誰かの気配があった。

「また来られたんですね」

 低く、穏やかな声だった。

 誠一は振り返った。

 昨夜の老人だった。

 紺色のジャケット。

 白髪。

 深い皺。

 飄々とした顔立ちは昨夜と変わらない。

 ただ今日は手に缶コーヒーを持っていて、ピアノの傍のベンチに腰を下ろした。


「あ・・昨夜も」と誠一は言った。

「ここでよく休憩するんです」と老人は言った。

「このベンチが居心地いいもので」

 老人は缶コーヒーを一口飲んだ。

 誠一はまだ椅子に座ったまま、なんとなく立ち去りにくかった。

「お上手ですね」と老人が言った。

「いや、全然」

「いいえ」と老人は静かに言った。

「ずいぶん懐かしい弾き方をされますね」

 懐かしい、という言葉が引っかかった。

「懐かしい弾き方、というのは」

「昔の奏法といいますか」


 老人はほんの少し考えてから、「ロマン派の、昔ながらの解釈の弾き方です」と言った。

「最近の若い方はテンポが整然としていますが、あなたの弾き方にはルバートが入っている。呼吸がある」

 ルバートという言葉を誠一が聞いたのは、何十年ぶりかだった。

 テンポを自由に揺らすこと。

 楽譜通りではなく、音楽に呼吸させること。

 古賀教授が繰り返し教えてくれた技法だ。


「先生に、そう教わりました」と誠一は言った。

「どちらの先生に?」

「古賀、という人に」

 老人は缶コーヒーを持ったまま、少し間を置いた。

 コンコースの人波が流れている。

 足音が重なっている。

 それなのに、その間だけが、妙に静かだった。


「そうですか」と老人は言った。

 その一言の置き方が、普通ではなかった。

 驚いているのではない。

 動揺しているのでもない。

 ただ・・何かを静かに受け取ったような、言葉の奥に引力がある言い方だった。

「ご存知ですか、古賀という人を」と誠一は聞いた。

「さあ」と老人は言った。

「ピアノを弾く方は多いですから」

 それ以上の答えはなかった。

 老人は缶コーヒーを飲み終え、ゆっくりと立ち上がった。

「また弾きに来てください」と老人は言った。

「ここのピアノ、いい音がしますよ。ちゃんとした職人が調律していますから」

 それだけ言って、老人はゆっくりと歩き去った。

 昨夜と同じように、人混みの向こうへ、静かに消えていった。

 誠一はしばらく、老人の消えた方向を見ていた。


 懐かしい弾き方。

 ルバート。

 古賀という名前を出した時の、あの一瞬の間。

 ちゃんとした職人が調律している・・と言った。

 ということはあの老人は、このピアノのことを知っている。

 ここに通っている。

 あるいは、ここに関わっている。


 調律師、と誠一は思った。

 分からない。

 でも「ちゃんとした職人が調律している」という言い方は、内側を知っている人間の言い方だった。

 誠一はゆっくりとピアノ椅子から立ち上がり、鍵盤を見た。

 昼間の光の中で、白い鍵盤がくっきりと光っている。

 誰かがこの音を、ずっと整えてきた。


 帰り道、誠一はコンビニに寄った。

 肉まんを一つ買った。

 少し高いが、今日は気分がよかった。

 外で一人で食べながら歩くのは久しぶりだった。

 子どもみたいで恥ずかしい気もしたが、誰も見ていなかった。

 五歳の男の子の言葉が、また頭に浮かんだ。

 ・・もっと弾けばさびが取れるじゃん。

 そうだな、と誠一は思った。


 三十三年間、開けなかった箱がある。

 でも段ボール箱は開いた。

 ピアノの前に座れた。

 四小節、弾けた。

 今日は音階と、ワルツの一節まで弾けた。

 少しずつ、さびが取れているかもしれない。

 手の震えは今日は来なかった。

 それで十分だ。

 今日のところは。


 帰宅すると、翔が「あ、父さんお帰り」と言った。

「おう」

「どこ行ってたの」

「駅の方」

「なんか買ってきた?」

「肉まん食べながら歩いてた」

 翔が「え、恥ずかしくないの」と笑った。

 笑われた。

 でも、笑いかけてきたということでもある。

 父親が笑われることと、父親と笑いを共有することは、ほんの少しだけ、違う。

「恥ずかしいよ」と誠一は言った。

 翔がまた笑った。

 今日は、それだけで十分だった。

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