第七話 「1993年の楽屋」
翌朝、誠一は普段より三十分早く目が覚めた。
五時五十九分。
目覚まし時計が鳴る一分前。
こういうことが時々ある。
体内時計というのは、意外と几帳面にできている。
昨夜、何かが動いた。
だから今朝、体がそれを確認しに来た、ということかもしれない。
誠一は布団の中で天井を見ながら、昨夜のことを思った。
四小節。
右手の震え。
老人の声。
そして・・「もっと聴きたかった」と言った、あの男の子の背中。
隣で久美子はまだ眠っている。
静かな呼吸が聞こえる。
三十年近く同じ部屋で眠っているのに、久美子の寝顔を見る機会は少ない。
誠一が起きる頃には大抵先に起きているし、誠一が眠る頃にはすでに先に寝ている。
平行線だ。
それを「冷え切っている」と呼ぶ人もいるかもしれないが、誠一はそうは思わない。
同じ部屋で眠っているから。
それだけは、確かだ。
目覚まし時計が鳴る前に布団を出た。
洗面台で顔を洗いながら、今日が何曜日かを確認した。
金曜日。
週の最後。
月末まであと一週間ちょっと。
いつもの朝だ。
ただ、指先に、まだあの感触が残っている気がした。
その日の会議で、誠一は珍しく発言した。
田中の新規顧客プレゼンに、数字の根拠が薄い箇所があった。
先週の会議では部長に先を越されて口を閉じたが、今週は少し違った。
昨夜、何かが動いた。
指が動いたように・・口も、少しだけ動いた。
「田中くん、三ページ目の市場規模の数字なんだけど、これ去年のデータだよね。今年の第三四半期のリポートが先週出たから、それを参照した方がいい。数字が少し変わってる」
田中が止まった。
部長も止まった。
「あ、村上さん、そのリポート、どこで出てたんですか」
「業界団体のウェブサイト。先週の木曜に更新された。見てなかった?」
「見てなかった、です・・」
「一応送っておく」
会議はその後、修正方針で進み直した。
部長が「助かった、村上さん」と言った。
田中が「すみませんでした」と頭を下げた。
たったそれだけのことだが、コーヒーカップを持ちながら、誠一はほんの少し気分が違った。
何週間ぶりに、会議で声を出しただろうか。
「どうせ聞かれない」「どうせ部長が先に動く」と思って閉じていた口の、蝶番が昨夜からほんの少し緩んでいる。
昼食は今日も幕の内弁当だった。
三百九十八円。
ひじきは相変わらず甘い。
田中が「隣いいですか」と言ってきた。
誠一は「どうぞ」と言った。
田中は自分の唐揚げ弁当を広げ、「さっきの資料、ありがとうございました」と言った。
「業界リポートって、ああいうの毎回チェックしてるんですか」
「一応ね」
「どこで見るんですか」
「さっき言ったサイト。ブックマークしておくといい」
「登録いりますか」
「いらない。無料で見られる」
「じゃあ教えてください」
誠一はURLを教えた。
田中が「なんで今まで教えてくれなかったんですか」と笑いながら言った。
「聞かれなかったから」と誠一は答えた。
田中が「それはそうだ」と笑った。
誠一も、少し笑った。
昼休みを終え、午後の仕事を片付けて退勤した時、誠一の頭の中は三十三年前にあった。
帰りの電車の中で、誠一はずっと窓の外を見ていた。
車窓の向こうを街が流れていく。
それを見ているようで、見ていなかった。
一九九三年。
十月。
あの夜のことを、誠一は普段から思い出さないようにしていた。
楽譜と一緒に、段ボール箱にしまっていた。
蓋を閉じる技術は、楽譜より先に身についていた。
でも昨夜、指が震えた瞬間に、扉が少し開いてしまった。
一九九三年十月、誠一は二十二歳だった。
ショパン国際ピアノコンクールで三位を取ってから、一年が経っていた。
三位、という結果について、世間は「惜しかった」と言い、恩師の古賀教授は「上出来だ」と言い、誠一自身は「もう一度必ず一位を取る」と思っていた。
世界が自分の前に開けていた。
才能を証明したかった。
二十二歳の誠一は、まだ怖いものを知らなかった。
古賀教授のリサイタルは、毎年秋に開かれる演奏会だった。
教授自身の演奏と、弟子たちの演奏で構成される。
その年、誠一はプログラムの最後に置かれていた。
「メインアクト」ということだ。
教授が「お前をトリにする」と言った時、誠一は誇らしかった。
本番当日。
誠一は楽屋で準備をしていた。
タキシードに着替え、手を温め、鏡の前でネクタイを直す。
緊張はしていなかった。
その頃の誠一はまだ、舞台に立つことを怖いと思ったことがなかった。
鍵盤の前に座れば、音楽が出てくる。
出てくるものを出すだけだ、と思っていた。
七時十五分、本番四十五分前。
楽屋のドアがノックされた。
スタッフが入ってきた。
顔が青かった。
「古賀先生が・・」
誠一は振り返った。
「古賀先生が、本日午後五時、ご自宅で・・心不全で、お亡くなりになりました」
誠一は、その言葉を三回繰り返して聞いた。
心不全。
お亡くなり。
部屋の中が静かになった。
他にも弟子が数人いたが、誰も声を出さなかった。
「演奏会は、中止にします」とスタッフが言った。
「皆さん、本当に申し訳・・」
「弾きます」
誠一は自分でも驚くほど、はっきりした声で言っていた。
全員が誠一を見た。
「弾きます。先生が作ったプログラムだから、最後まで通します」
スタッフが止めようとした。
他の弟子が「誠一、でも」と言った。
誠一は聞かなかった。
先生が言っていた言葉が、頭の中にあった。
・・「誠一。お前はステージを逃げてはいけない。どんな時でも」
それが先生の口癖だった。
どんな本番前でも、どんな状況でも、舞台に立つことから逃げてはいけない、と先生は言い続けた。
だから誠一は逃げなかった。
ステージに出た。
スポットライトが当たった。
客席が、しんと静まり返っていた。
何かが起きたことは、空気で伝わっていたはずだ。
誠一は椅子に座り、鍵盤を見た。
弾き始めた。
最初の数小節は、弾けた。
音楽が出てきた。
指が動いた。
先生の言葉の通り、ステージから逃げなかった。
しかし・・十小節目で、涙が出た。
止められなかった。
鍵盤が滲んだ。
視界が歪んだ。
次の音が・・分からなくなったのではなく、指が動かなくなった。
震えていた。
あの震えだ。
昨夜と同じ震え。
先週の深夜のコンコースと、同じ震え。
誠一はステージの上で、演奏を止めた。
客席が完全に静まり返った。
一秒、二秒。
誰も何も言わない。
誠一は鍵盤から手を離し、椅子から立ち上がり、お辞儀をした。
深く、ゆっくりと。
それだけしかできなかった。
ステージを歩いて退場した。
袖に入った瞬間、膝が折れた。
その場にしゃがみ込んだ。
後ろから誰かが支えた。
誰だったか覚えていない。
その夜から、誠一はピアノを弾かなかった。
先生は「逃げるな」と言った。
誠一はステージに立った。
でも演奏を止めた。
途中で止まった。
止まってしまったのだから・・守れなかった。
守れなかった自分に、弾く資格はない。
そう思った夜から、三十三年が過ぎた。
電車が駅に着いた。
誠一は窓の外を見たまま、しばらく座っていた。
乗り過ごしていた。
一駅分。
慌てて立ち上がり、次の駅で降り、反対方向の電車に乗った。
少し遠回りになる。
十五分ほど時間が余計にかかる。
電車の中で、誠一は右手を見た。
握ったり開いたりした。
普通の手だ。
震えていない。
三十三年前のあの夜に、ステージで止まってしまった手は、今日はちゃんと動いている。
田中にURLを教えた手。
幕の内弁当の箸を持った手。
今夜この電車のつり革をつかんでいる手だ。
あの夜から、この手で何千回キーボードを叩いただろうか。
何百回電話をかけただろうか。
何枚判子を押しただろうか。
コピー機の紙詰まりを何十回直しただろうか。
その全部の間、ピアノには触れなかった。
触れなかった理由は・・先生の言葉を守れなかったから。
でも、今夜になって少し違う考えが浮かんだ。
先生は「逃げるな」と言った。
誠一はステージに立った。
それ自体は「逃げなかった」ことではなかったか。
途中で止まったことは・・二十二歳で、師が死んで、その当日に舞台に立って、涙が出てしまった。
それは弱さかもしれない。
でも、立ったことは・・。
答えはまだ出ない。
三十三年かかっても出なかった問いが、一駅分で解けるほど簡単なはずがない。
でも、考えられたこと自体が、昨日と今日の違いだった。
いつもより遅く帰宅した。
「今日は遅いね」と久美子が言った。
「乗り過ごした」
「珍しい」
「まあ」と誠一は言った。
説明するつもりはなかった。
「電車の中で三十三年前のことを考えていたら乗り過ごした」と言えば、久美子は「三十三年前?」と聞くかもしれない。
聞いてくれたら答えたかもしれない。
でも今夜は、そこまでの気力がまだなかった。
台所を覗くと、今夜の夕飯は豚汁だった。
大根と豆腐と豚肉。
体が温まる匂いがした。
久美子が作る豚汁は、誠一が知る限り、世界で一番美味しい豚汁だ。
三十年間変わっていない。
久美子自身はそれを知らないかもしれないが、誠一は知っている。
「美味しいね」と誠一は言った。
「豚肉、特売だったから」と久美子は答えた。
今日は「残り物だから」ではなく「特売だったから」だった。
美味しいことを、少し認めた。
確信はない。
でもそう受け取った。
翔が自室から出てきて冷蔵庫を開けた。
誠一が「豚汁あるぞ」と言うと、「ほんと?」と言って器に注いだ。
父親と息子が同じ豚汁を食べている、というだけのことだが、誠一には少し温かかった。
「父さん、今日なんかあった?」と翔が言った。
「何が」
「なんか、ぼーっとしてる」
「乗り過ごしたから」
「それだけ?」
「それだけ」
翔は「ふーん」と言って豚汁を飲んだ。
誠一も豚汁を飲んだ。
久美子が台所で何かを片付けている音がする。
麻央は今日アルバイトで、まだ帰っていない。
それだけの、普通の夜だった。
でも今夜の誠一には、その「普通」が少しだけ違って見えた。
夜、誠一は押し入れを開けた。
段ボール箱から楽譜を取り出した。
ショパンのワルツ集。
あの夜弾こうとした曲・・ではなく、もっと若い頃、最初に古賀教授に弾いて聴かせた曲が入っている楽譜だ。
イ短調のワルツ。
遺作。
楽譜を開いた。
先生の書き込みが、そこにあった。
鉛筆の細い字で「もっとルバートを」「ここは歌うように」「呼吸」と書いてある。
三十三年前の字だ。
紙が少し黄ばんでいる。
でも字は鮮明だった。
誠一はしばらくその楽譜を眺めた。
もっとルバートを。
呼吸。
あの夜、先生は午後五時に亡くなっていた。
誠一が楽屋で手を温め、ネクタイを直していた時間、先生はもういなかった。
誠一が鏡の前に立っていた時間、先生は・・。
誠一は楽譜を閉じた。
閉じてから、また開いた。
「もっとルバートを」という字を、指でなぞった。
先生の字だ。
三十三年前、この楽譜のそばに先生がいた。
誠一の手首を持って「こう弾くんだ」と教えてくれた先生が。
明日、また弾こう。
段ボール箱に楽譜を戻し、押し入れを閉めた。
今夜はここまでだ。




