第十話 「醤油と、その先」
朝、久美子が目を覚ますと、誠一はすでに起きていた。
いつものことだ。
誠一の方が早起きで、久美子が目を覚ます頃には洗面台の前にいるか、もうリビングでコーヒーを飲んでいる。
それが村上家の朝の順番だ。
三十年間、変わっていない。
ただ今朝は、久美子は布団の中でしばらく動けなかった。
昨日のことが、まだ体の中にある。
コンコースの、あの音。
久美子は天井を見た。
寝室の天井は、何年経っても同じ天井だ。
シミも、クロスの継ぎ目も、三十年前から変わっていない。
でも今朝は、その天井を見ながら、昨日の夕方からずっと同じことを考えていた。
誠一が、ピアノを弾いていた。
・・そんなことは知っていた。
久美子は布団の中でそう思った。
知っていた。
三十年間知っていた。
誠一のことは、誠一自身よりよく知っている、と思う時がある。
毎朝コーヒーを必ずブラックで飲むこと。
テレビのリモコンをテーブルの端に揃えて置くこと。
疲れた時に右手で首の後ろを触ること。
好きな食べ物はカレーで、甘い豚汁が好きで、コンビニではたいてい幕の内弁当を買うこと。
そして・・若い頃、ショパン国際ピアノコンクールで三位を取ったこと。
それも知っていた。
結婚する前に、一度だけ誠一が話してくれた。
サラリーマンとして就職した後、久美子と知り合って、少し打ち解けた頃に。
「昔ピアノを弾いていた」
「コンクールで三位になったことがある」
「今はもう弾いていない」・・それだけだった。
詳しい理由は聞かなかった。
聞ける雰囲気ではなかったし、聞いたとしても誠一が答えないだろうことは、会って間もない頃でも察せた。
だから久美子はそれを「知識」として持ち続けた。
三十年間、「誠一はかつてピアノが弾けた」という事実だけを、引き出しの奥にしまっておいた。
引き出しは開けない。
開ける必要もなかった。
誠一が弾かないのだから、そこに触れることはない。
触れない方が良い、と久美子は判断していた。
判断、というより・・感じていた。
あの人には、触れない方がいい場所がある、と。
それが昨日、音になった。
久美子は布団を抜け出し、洗面台に向かった。
顔を洗いながら、鏡の中の自分を見た。
五十三歳の、ごく普通の主婦の顔がある。
昨日あんなものを見てしまった顔だとは、誰も思わないだろう。
リビングに行くと、誠一はもうコーヒーを飲み終えていて、新聞を読んでいた。
「おはよう」と久美子は言った。
「おはよう」と誠一は言った。
新聞から目を上げた。
目が合った。
久美子はそのまま台所に入り、電気を点け、やかんに水を入れた。
何も言わなかった。
誠一も何も言わなかった。
それでよかった。
今日は、それでよかった。
久美子にはまだ、昨日見たものを言葉にする準備ができていなかった。
言葉にした瞬間に、何かが変わる気がした。
変わることが怖いのではなく・・まだ自分の中で整理がついていないのに、言葉にしてしまうと嘘になる気がした。
今日は日曜だった。
翔と麻央は昼頃まで起きてこない。
誠一は散歩に行くか、リビングで新聞を読んでいるかのどちらかだ。
久美子はパートが休みで、特に予定もない。
こういう日は、家の掃除をする。
部屋の隅に溜まった埃を払い、棚を拭き、洗濯物を干す。
それが日曜の久美子の、自然な時間の使い方だ。
コーヒーを一杯飲んでから、久美子は掃除を始めた。
誠一は散歩に出た。
「行ってくる」と言って玄関を出る誠一の背中を、久美子は台所から見た。
ジャケットにチノパン。
今日もそのかっこうだ。
どこに行くかは言わなかった。
久美子も聞かなかった。
知っている、と久美子は思った。
どこに行くか、知っている。
一人になると、久美子は掃除機をかけながら考え続けた。
三十年間「知識」として持っていたものが、昨日初めて「音楽」として体に入ってきた。
その感覚が、まだ体のどこかに残っている。
どこかというと・・胸の、少し下のあたりだ。
みぞおちより少し上。
そこに何かが詰まっているような、詰まっているのではなく、広がりかけているような感覚がある。
上手かった、というより・・本物だった。
久美子はクロスを洗面台に持って行きながら、そう思った。
上手い下手が分かるほど、久美子はピアノに詳しくない。
でも「本物」かどうかは分かる。
コンコースを歩く人間が自然と足を止めるかどうかで、分かる。
昨日のあの音は、足を止めさせる音だった。
久美子自身が止まった。
棚を拭きながら、久美子は三十年分のことを考えた。
三十年間、誠一のそばにいた。
同じ家で眠り、同じ食卓でご飯を食べ、子どもを産んで育てて、送り出して、また少し静かになった。
その三十年間の中に、あの音が・・ずっとあったのだ。
出てこなかっただけで、ずっとあった。
引き出しの奥に、しまったまま。
久美子は洗面台の鏡を拭きながら、自分自身のことを考えた。
私にも、あった。
やりかけてやめたもの。
引き出しにしまったもの。
久美子が短大を卒業したのは、三十五年前のことだ。
服飾の専門科目を選んだのは、洋服が好きだったからで・・正確には、洋服を作ることが好きだったからだ。
型紙を引いて、布を裁断して、ミシンを踏んで、縫い合わせると、何もないところから形が生まれる。
その過程が、久美子は好きだった。
卒業後、アパレルの会社に就職した。
販売職だった。
デザイナーや縫製の仕事をしたかったが、そちらに回れる枠がなかった。
販売の仕事は嫌いではなかった。
でも、作ることではなかった。
誠一と結婚して、子どもが生まれて、パートを始めた。
ミシンは押し入れに入れた。
久美子の押し入れには、ミシンが入っている。
誠一の押し入れに段ボール箱があるように、久美子の押し入れには、ミシンがある。
久美子はそのことを、これまであまり意識したことがなかった。
ただ、今日は、掃除機をかけながら、気づいてしまった。
同じだ、と。
引き出しの奥に何かをしまっている、という意味では、自分も誠一と同じだ。
久美子は廊下の押し入れを開けた。
ミシンは、段ボール箱に入って、奥の方にある。
最後に使ったのはいつだったか・・翔が小学生の頃、運動会の衣装を縫ったことがあった。
あれが最後かもしれない。
それから十数年、ミシンは段ボール箱の中にいる。
久美子はその段ボール箱をじっと見た。
開けなかった。
今日は開けなかった。
ただ、あることを確認して、押し入れを閉めた。
でも・・今日の久美子には、押し入れを開けたこと自体が、少しだけ違う気がした。
あそこにあることを、確認した。
それだけだ。
それだけだが、今日はそれができた。
昨日、コンコースで誠一のピアノを聴くまでは、押し入れを確認しようとも思わなかった。
誠一のピアノが、久美子の押し入れを開けた。
そういうことかもしれない、と久美子は思いながら、掃除機を棚に戻した。
昼前、翔が起きてきた。
「母さん、昼何がある」
「昨日の残りのカレーと、冷奴くらいか」
「カレーでいい」
翔は冷蔵庫から麦茶を出して飲みながら、スマートフォンを見ていた。
久美子はカレーを温めながら、翔の横顔を見た。
いつの間にか大きくなった息子。
就活が続いていて、最近少し表情が固い。
「調子どう、就活」
「まあまあ」
「まあまあってどっちの方向の」
「んー、どっちでもないくらいの」
久美子は「そう」と言って、カレーをよそった。
昼過ぎ、麻央が起きてきた。
「遅い」と久美子は言った。
「休みだから」と麻央は言って、冷蔵庫を開けた。
麻央はカレーを自分でよそって食べながら、スマートフォンを見ていた。
何か動画を見ているのか、時々口元が動く。
久美子は麻央の横顔を見ながら、昨日の夜のことを思い出した。
誠一が帰ってきた後、麻央は普通にしていた。
コンコースのことは誰も知らない。
誰も知らない、と久美子は思って・・本当にそうだろうか、と思い直した。
誰も知らないのは、久美子が昨日コンコースにいたことだ。
誠一のピアノを聴いたことだ。
立ち尽くして、目が潤んでいたことだ。
それは誰も知らない。
でも誠一がピアノを弾いていること自体は・・麻央は知っているのかもしれない。
翔は気づいているのかもしれない。
誠一が「散歩」と言って出かけて行く場所のことを、薄々感じている可能性がある。
家族というのは、分かっているようで分かっていない部分がある。
分かっていないようで、ちゃんと見ている部分もある。
夕方、誠一が帰ってきた。
「おかえり」と久美子は言った。
「ただいま」と誠一は言った。
いつも通りの言葉だ。
でも今日の久美子には、「ただいま」の声がいつもより少しだけ、軽く聞こえた。
気のせいかもしれない。
気のせいでないかもしれない。
どちらでもいい、と久美子は思った。
夕飯の準備をしながら、醤油が少ないことに気づいた。
昨日、スーパーに寄ろうとしたのに買い忘れた。
コンコースで足を止めてしまったから。
あの音が聞こえたから。
醤油を買いに行くつもりが、帰ってきた時には手提げの中に醤油はなかった。
今日、誠一が帰ってきた後に買いに行けばよかった。
でも思い出したのが今だ。
久美子は冷蔵庫を開けてみた。
醤油のボトルを振ってみる。
底に少しだけ残っている。
今日の夕飯には足りるかもしれない。
足りないかもしれない。
「ちょっと醤油買ってくる」と久美子は言いかけて・・やめた。
やめて、あるだけで作ることにした。
今日は足りるかどうかより、今日のことを考えたかった。
昨日のことと、今日のことを。
掃除をしながら考えたことを、夕飯を食べながら、夜になってから、もう少し考えたかった。
醤油はまあ、明日買えばいい。
夕飯の食卓に、今日も四人が座った。
翔が「今日父さんどこ行ってたの」と聞いた。
「散歩」と誠一は言った。
「毎週末散歩してるね、最近」
「まあ」と誠一は言った。
「健康的じゃん」と麻央が言った。
久美子は黙って箸を動かした。
翔と麻央は何も知らないし、知ろうとしていない。
誠一もそれを知っていて、「散歩」と言っている。
久美子は知っていて、何も言わない。
この食卓には、言われていないことがある。
三十年間そうやってきた食卓だ。
ただ今夜は・・その「言われていないこと」の形が、少し変わった気がした。
重さが、少し違う。
夜、久美子は布団に入ってから、スマートフォンをいつものように開いた。
友人からのメッセージに返事をして、ニュースを少し見た。
それから、スマートフォンを置いた。
電気を消すと、部屋が暗くなった。
誠一の寝息が聞こえる。
今日は久美子より先に眠った。
珍しい。
久美子は天井を見た。
朝と同じ天井だ。
三十年間と同じ天井だ。
でも今夜の天井は、少しだけ違う。
あの音が、まだ体のどこかにある。
みぞおちの少し上、あのあたりに。
じわじわと、じんわりと、まだそこにある。
醤油を買い忘れた、と気づいた。
明日買おう、と久美子は思った。
それから、押し入れのミシンのことを考えた。
段ボール箱の中に、ある。
確認した。
今日、確認した。
久美子はゆっくりと目を閉じた。
何かを決めたわけではない。
何かを始めるつもりもない。
ただ、今日、押し入れを開けた。
昨日のあの音が、久美子の押し入れを開けた。
それだけのことだ。
それだけのことだが、今夜は、それで十分だった。
村上家の夜が、静かに更けた。




