第十一話 「動画、拡散」
翔は自分が父親のことをよく知らないと思っていた。
名前は村上誠一。
年齢は五十五。
会社員で、部署は営業らしい。
詳しくは知らない。
帰りがよく遅い。
帰ってきても「ただいま」と言って飯を温めて食べて風呂に入って寝る、という工程をほぼ毎日繰り返す。
バリエーションがない。
たまに幕の内弁当の空き容器をリビングのゴミ箱に捨てているので、今日弁当だったんだな、と分かる。
会社の場所すら翔はよく知らない。
最寄り駅も、路線も。
一度「父さん、会社どこ?」と聞いたら「神田の方」と言ったが、それで終わった。
神田の方、広い。
休日はリビングで新聞を読んでいるか、「散歩してくる」と言って出かけている。
最近は特に散歩の頻度が上がった気がする。
土曜も日曜も、午後になると「ちょっと出てくる」と言って、数時間帰ってこない。
どこを散歩しているのかも知らない。
聞いたことがなかった。
コピー機の直し方を知っている(本人談)。
それ以外のことは、本当によく知らない。
父親のことを詳しく知っている息子の方が少ないだろう、と翔は思っていた。
多分そうだ。
でも、こんなに知らないのが普通なのかどうかは、比較しようがない。
その認識が、月曜の夜に崩れた。
きっかけはSNSだった。
翔が就活の情報収集のためにタイムラインを流していると、フォロー外のアカウントからリポストされた動画が流れてきた。
サムネイルは、グランドピアノの後ろ姿。
テキストには「駅ビルのコンコースで突然弾き出したおじさん、レベルが違いすぎる」と書いてあった。
翔は特に深い理由もなく、タップした。
動画の画質は少し荒い。
誰かがスマートフォンで撮ったものだ。
最初は後ろ姿だけ映っていたが、撮影者が少し位置を変えて、横顔が見えるようになった。
再生数は、その時点で一万八千を超えていた。
ショパンだ、と翔には分かった。
クラシックの知識は乏しいが、テレビでよく聴く旋律だと思った。
弾いている男性の指が、信じられないくらい滑らかに動いている。
素人がふらっと弾く感じではない。
明らかに、長年弾いてきた人間の弾き方だ。
横顔がはっきり映った瞬間、翔の手が止まった。
十秒ほど、画面を見つめた。
・・これ、父さんじゃないか?
翔は動画を最初から再生し直した。
後ろ姿。
体格。
ジャケットの色。
それから横顔。
似ている。
似ているが、信じがたかった。
なぜなら翔は、父親がピアノを弾けることを、知らなかったからだ。
一度たりとも聴いたことがなかった。
父親の趣味がスポーツ観戦でも映画鑑賞でもなく「ピアノ」であることを・・しかも動画に撮られて一晩で一万八千再生されるレベルの「ピアノ」であることを、翔は今夜初めて知ろうとしていた。
翔はスクリーンショットを撮り、「村上家」グループに送った。
「これ父さん?」
三秒で久美子から「・」が来た。
五秒で麻央から「え!?」が来た。
久美子は「・」のまま止まった。
麻央が「これ絶対父さんだ!!」と続けた。
「どこで撮ったの」「どういうこと」「父さん弾けるの?」とメッセージが連続した。
翔は「知らん。でも似すぎてる」と返した。
久美子は「・」から動かなかった。
翔はしばらくそのグループを眺めていた。
久美子の「・」が、なんとなく引っかかった。
驚いているはずなのに、それだけだ。
「まさか」とも「ありえない」とも来ない。
ただ「・」だ。
知っている人間の沈黙に見えた、と翔は後から思った。
その日の深夜、麻央はベッドの中でスマートフォンを見ていた。
友人からもメッセージが来ていた。
「ねえこれ見た? すごくない?」とリンクが貼られている。
同じ動画だった。
「もしかしてうちの父さんかも」と麻央は返信した。
「え!?」「まじで?」「あの人お父さん!?」と友人たちが騒ぎ出した。
「ちょっと待って確認する」と送って、麻央は動画をもう一度見た。
父さんのあの背中は、休日に「散歩行ってくる」と言って出ていく背中だ。
ジャケットの色も合う。
体型も合う。
なにより横顔が・・。
麻央は部屋の窓から廊下を見た。
誠一の部屋のドアは閉まっていた。
電気が消えている。
もう寝ているのかもしれない。
こんな時間に起こすことも、翌朝急に「昨日の動画、父さんだよね?」と聞くことも、どちらもうまく思い浮かばなかった。
麻央は再び動画を再生した。
ショパンのワルツが流れた。
父さん、こんなに弾けたのか。
麻央は知らなかった。
二十二年間、一緒に暮らしていて、知らなかった。
父親に「趣味は何ですか」と聞いたことが一度もないことに、今この瞬間初めて気づいた。
知らなかった、という感覚が、麻央の中でしばらくぐるぐるした。
驚き、というのとも少し違う。
悲しい、というのとも違う。
でも何か、胸のあたりに引っかかるものがある。
二十二年間同じ家で暮らして、同じ食卓でご飯を食べて、それなのにこんなに知らなかった。
父さんが「散歩」と言って出かけていた場所が・・駅ビルのコンコースで、あんなふうに弾いていた場所だったなんて。
麻央はイヤホンをつけ直して、動画をもう一度見た。
横顔が映る瞬間、麻央は画面に顔を近づけた。
やっぱり父さんだ。
コメント欄を見てみた。
「お父さんの腕、震えた」
「何があったんだろうこの人」
「こういう大人になりたい」
「バックストーリーが気になりすぎる」
「おじさんって言い方が失礼すぎる、この人絶対本物」・・そういう言葉が並んでいる。
知らない人たちが、父さんのことを語っている。
麻央は、ちょっと泣きそうになった。
なぜかは自分でも分からなかった。
コメントが良かったから、というより・・知らない人たちが、自分より父さんのことを分かっているかもしれない、という感覚が、どこかに刺さった気がした。
「バックストーリーが気になりすぎる」・・麻央だって気になる。
でも麻央は二十二年間、気にしなかった。
気にしようとしなかった。
ちょっとだけ、泣いた。
友人には「やっぱりうちの父さんだと思う」とだけ返した。
翌朝、誠一は何も知らなかった。
いつも通りに目覚め、いつも通りに洗面台で顔を洗い、いつも通りにダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲んだ。
家族の雰囲気が、少しだけ違った。
久美子の視線が、なんとなく誠一に向いている気がする。
翔がスマートフォンを見ながらも、時々誠一を横目で見ている。
麻央はまだ部屋から出てきていないが、「お父さん、今日何時に帰る?」とドア越しに声をかけてきた。
これは珍しかった。
「帰りは七時か八時かな。なんだ」
「別に」と麻央は言った。
「別に」にしてはわざわざ声をかけてきた、という事実が引っかかったが、誠一は追及しなかった。
翔が「父さん、昨日どこか寄ってきた?」と聞いた。
「どこにも」
「駅ビルとか?」
「・・ちょっと通りかかったな」
「ふーん」と翔は言い、スマートフォンを見た。
その「ふーん」の言い方が、いつもの「ふーん」と少し違った。
知っている「ふーん」と、知ろうとしている「ふーん」がある。
今日の翔は後者だった。
誠一は少し不安を覚えたが、理由が分からなかったので「行ってきます」と言って立ち上がった。
「行ってらっしゃい」と久美子が言った。
「行ってらっしゃい」と翔が言った。
廊下から、麻央の「行ってらっしゃい」も聞こえた。
誠一は玄関で一瞬止まった。
三人から、だった。
同時に、だった。
村上家でそういうことが起きた記憶が、誠一にはすぐには浮かばなかった。
なんとなく、玄関のドアを閉める手が、いつもより一拍遅れた。
帰宅した時、リビングに三人が揃っていた。
それ自体は珍しいことではない。
三人が揃っていて、なおかつ全員が誠一の方を向いたのが、珍しかった。
普段は誰かがスマートフォンを見ていたり、テレビに向いていたりする。
今日は違った。三人とも、誠一の方を向いていた。
「お帰り」と久美子が言った。
翔が「おかえり」と言った。
麻央が「お父さん、ちょっと聞いていい?」と言った。
誠一は鞄を下ろしながら「なんだ」と言った。
麻央がスマートフォンを持ってきた。
画面に動画が映っている。
「これ、お父さん?」
動画が再生された。
グランドピアノの前に座っている男性の後ろ姿。
それから横顔。
ショパンのワルツ。
誠一は十秒ほど、画面を見た。
見ながら、内側でいろいろなものが動いた。
驚き。
恥ずかしさ。
そしてそれ以上に・・なぜか、少しだけ、誇らしい気持ちが顔を出した。
すぐに押し込んだ。
「・・似てる人かもな」と誠一は言った。
「父さん」と翔が言った。
「似てる人だよ」
「父さん」と麻央が言った。
「年配の人は似てくるんだよ、がっはっは」
久美子が、音を立てずに鼻で笑った。
誠一はその音を聞いた。
久美子が鼻で笑う時は、笑いを堪えている時だ。
三十年で分かった。
「お母さん」と麻央が言った。
「笑わないで、追及してよ」
「そうよね」と久美子は言い、誠一を見た。
「似てる人なの?」
「そうね、似てる人だと思うよ、うん」
「へえ」と久美子は言った。
その「へえ」の声の温度が、誠一にはよく分からなかった。
知っていて聞いているのか。
知らないふりをして聞いているのか。
三十年一緒にいても、分からない時がある。
「再生数、一万八千超えてた」と翔が言った。
「へえ」と誠一は言った。
「コメント欄、すごいよ」と麻央が言った。
「『こういう大人になりたい』とか、『バックストーリーが気になる』とか」
「後ろ姿だからね。誰か分からないね」と誠一は言った。
「似てる人の話ね」と翔が言った。
「そう、似てる人の」
久美子が立ち上がり、台所に行った。
しばらくして「ご飯できてるから、座って」と言った。
いつもの声だった。
でもいつもより少しだけ、柔らかかった。
誠一は座った。
翔と麻央が向かいに座った。
スマートフォンはしまわれていた。
でも空気は変わっていなかった。
「ショパンって言うんでしょ、あれ」と麻央が言った。
「そうね」と誠一は言った。
「弾けるの、お父さん」
誠一は米を一口食べた。
「昔ね。少しだけ」
「少しだけ、で一万八千再生は無理じゃん」と翔が言った。
「再生数で技術は測れないよ」
「測れるでしょ」と麻央が言った。
「コメント欄の人たちがそう言ってる」
「コメント欄は参考情報だ」
「父さん」と翔が言った。
「コンクールとか出たことある?」
誠一は箸を止めた。
一拍あった。
「まあ、昔・・」
「どのくらいのやつ」
「国際的なやつ」
「国際!?」と麻央が言った。
「なにそれ」
「昔の話だから」
「それ、もう少し詳しく聞いていい?」と翔が言った。
久美子が豚汁を運んできた。
「もう食べなさい」と久美子は言った。
その一言のタイミングが、絶妙だった。
誠一は内心で少し助かった、と思いながら、豚汁に口をつけた。
今夜はここまでだ、という感触があった。
「国際的なやつ」という言葉は出てしまったが、それ以上は今夜は話さなくていい。
そういう予感があった。
食べながら、翔が「父さん、ピアノっていつ始めたの」と聞いた。
「十歳の頃から」
「十歳」と麻央が繰り返した。
「何十年よ」
「四十五年くらい」
「よんじゅうごねん!」と麻央が叫んだ。
久美子が「静かに食べなさい」と言った。
翔は笑った。
久美子も笑った。
誠一も、少し笑った。
テーブルに、笑いがあった。
このテーブルに、こういう笑いが来る、ということを、誠一はしばらく忘れていた気がした。
夜、翔が誠一の部屋に来た。
珍しかった。
翔が誠一の部屋に来ることは、年に数回あるかないかだ。
用事がある時だけ来る。
今日は用事があるのかどうか、顔を見ても分からなかった。
「あの動画、父さんだろ」と翔は言った。
立ったまま、部屋の入り口のあたりにいた。
「似てる人だよ」
「絶対そうじゃん」
「そうかもな」
「なんで弾けるの。知らなかった」
誠一はしばらく翔を見た。
就活中の、少し眉間に皺の寄った息子の顔。
子どもの頃から眉間に力が入りやすい子だった。
感情を顔に出さないようにしている時、その眉間に力が入る。
今夜はそういう顔だった。
「昔やってたんだよ。若い頃に少し」
「少しで一万八千再生は無理じゃん」
「夕飯でも同じこと言ってたな」
「だって」と翔は言った。
「びっくりするじゃん」
びっくりするじゃん、という言い方が、翔らしかった。
翔は感情を言語化するのがあまり得意ではない。
「驚いた」ではなく「びっくりするじゃん」という、少し他人事みたいな言い方をする。
でも誠一には、その言葉の中に、久しぶりに会った気持ちのようなものが聞こえた。
「今でも弾けるんだ」と翔は言った。
「どうかな。錆びてるかもな」
「錆びてたら一万八千回再生されないと思うけど」
「参考情報だよ、再生数は」
「さっきもそれ言ってた」と翔は笑った。
珍しく笑った。
「なんで隠してたの」
誠一はしばらく考えた。
「隠してたわけじゃないけど、話す機会がなかった」
「作ればよかったじゃん」
「そうだな」と誠一は言った。
翔は「そうか」と言って、部屋から出ていった。
会話としては短い。
でも翔が誠一の部屋に来ることは滅多にない。
来ただけで・・「なんで隠してたの」と聞いただけで・・十分だった。
誠一はそれでいい、と思った。
部屋に一人になってから、誠一は押し入れを開けた。
段ボール箱から新聞の切り抜きを取り出した。
「日本の若き天才、ショパン国際ピアノコンクール第三位」
三十三年前の自分が、笑っている。
タキシード姿の、二十二歳の自分が。
動画の再生数は、今夜どこまで増えているだろうか。
関係ない話だが、少し気になった。
一万八千、という数字は、誠一の人生で自分に向けられた数字としては、桁違いに大きい。
翔は「なんで隠してたの」と言った。
隠していたわけじゃない、と誠一は思った。
ただ、話す機会がなかっただけだ。
話す機会がなかっただけ・・いや、作らなかっただけかもしれない、とも思った。
どちらが正しいかは、分からない。
でも今夜、翔は部屋に来た。
久美子は「へえ」と言いながら笑いを堪えた。
麻央は「よんじゅうごねん!」と叫んだ。
そしてテーブルに、笑いがあった。
誠一は新聞を折り畳み、段ボール箱に戻した。
明日また弾こう、と思った。
それから・・翔に、少し話してもいいかもしれない、とも思った。
全部じゃなくていい。
少しだけ。
話せる分だけ。
そういう夜だった。




