第十二話 「四分の三拍子」
動画が拡散してから、三日経った。
再生数がどこまで伸びたかを、誠一は知らなかった。
知ろうとしなかった。
麻央が「まだ伸びてる」と言っていたが、それ以上の情報は要らなかった。
後ろ姿だから分からない、という主張を誠一は堅持していた。
堅持しているうちに、家の中では「にてるひとの話」が一種のコードになりかけていた。
職場では、田中が来た。
水曜の昼前、コピー機の前で誠一がインクカートリッジを交換していると、田中がそっと近づいてきた。
用件でもあるかと思って振り返ると、田中はスマートフォンを持っていた。
「村上さん」
「なんだ」
「あの、昨日SNSで見たんですけど」
誠一は交換作業を続けた。
「ストリートピアノ弾いてる動画、すごく話題になってるじゃないですか」
「そうらしいな」
「村上さんですよね、あれ」
「後ろ姿だから分からないな」
「横顔も映ってましたよ」
「よく似た人だろう」
「いや、絶対村上さんです」
「カートリッジ頼む、この箱持って」
田中は箱を受け取りながら、「やっぱり村上さんだ」とつぶやいた。
誠一は「どうぞ」と言った。
「弾けるんですね、ピアノ」
「昔少し」
「少しって言いながら再生数えぐいんですけど」
「参考情報だよ、再生数は」
「昨日も誰かに同じこと言いましたか」
誠一は黙ってコピー機の扉を閉めた。
「教えてくださいよ、ちゃんと。昔からやってたんですか」
「若い頃にね」
「どのくらいのレベルですか」
「コピー機の修理と同じくらいのレベルだ」
「それ謙遜なのか正直なのか分からないじゃないですか」と田中は言った。
「コメント欄見ましたか。すごいですよ、みんな感動してる」
「後ろ姿の話は感動しなくていい」
「村上さん」
「昼、行くか。コンビニ」
「行きます。でも続き聞かせてください」
「歩きながら聞け」と誠一は言って、席に戻った。
田中は、コンビニまでの道の間に「コンクールとかも出たんですか」と聞いた。
「昔ね」と誠一は答えた。
「どのくらいのやつですか」と聞いた。
「国際的なやつ」と誠一は答えた。
田中が「え」と言って止まった。
誠一は「カラシ多めのおにぎり、一番辛いのどれか知ってるか」と話題を変えた。
田中は「え、いや、そっちじゃなくて」と言いながらも棚を確認してしまった。
「これです、これが一番辛い」と田中は言った。
「じゃあこれにしよう」と誠一は言った。
田中は「国際ってどの国際ですか」と諦めずに聞いた。
「おにぎりの話しよう」と誠一は言った。
その日の昼は、おにぎりの話だけで終わった。
田中は不満そうだったが、誠一は幕の内弁当よりカラシ多めのおにぎりが美味しいことに気づいた。
これは収穫だった。
夜、誠一が自室で楽譜を眺めていると、ドアがノックされた。
「父さん、ちょっといい?」
翔の声だった。
「どうぞ」
ドアが開いて、翔が入ってきた。
部屋に翔が入ってくるのは、昨日に続いて二日連続だ。
珍しい。
翔はいつも通り、部屋の入り口あたりに立って、少し手持ち無沙汰な様子だった。
「楽譜、見てもいいですか」
敬語になっていた。
翔が誠一に敬語を使うのは、改まった時だ。
あるいは少し緊張している時だ。
「いいよ」と誠一は言った。
「邪魔じゃないですか」
「ちょうど眺めてたところだから」
翔が入ってきて、デスクのそばに立った。
誠一は楽譜をテーブルの上に置いた。
ショパンのワルツ集だった。
黄ばんだ表紙。
背表紙のタイトルが少し薄くなっている。
三十三年前の楽譜。
「古いんですね」と翔が言った。
「大学の頃に買ったやつだから」
「三十年以上前」
「そうなるな」
翔はそっと表紙に触れた。
触れてから、誠一の方を見た。
「開けていいですか」と目で聞いていた。
誠一は「どうぞ」と言った。
翔が楽譜を開いた。
ページに、書き込みがある。
鉛筆の細い文字で、「もっとルバートを」「ここは歌うように」「呼吸」と書いてある。
「これ、父さんが書いたんですか」
「先生が書いた」
「先生」
「ピアノを教えてもらってた先生が、ここに書き込んだんだ。三十三年前に」
翔はそのページをじっと見た。
「呼吸」という字を指でなぞりかけて、やめた。
触れてはいけないと思ったのかもしれない。
「先生って、もう亡くなった人ですか」
「そうだ」
「いつ」
「三十三年前に」
翔は顔を上げた。
「だからやめたんですか、ピアノ」
誠一はしばらく答えなかった。
「それだけじゃないけど」と誠一は言った。
「それが一番大きかった」
翔は「そうか」と言った。
それ以上聞かなかった。
聞かないことで答えを受け取った、という感じがした。
しばらく、二人で楽譜を眺めた。
誠一が次のページをめくった。
楽譜の最初の段が現れる。
五線譜の上に、音符が並んでいる。
冒頭の記号、テンポの指示、強弱記号。
「これ、全部読めるんですか」と翔が聞いた。
「読める。楽譜は文字みたいなものだから、読み方を覚えれば分かる」
「難しそう」
「最初は難しいけど、慣れる。翔は楽器やったことないか」
「小学校でリコーダーくらい」
「リコーダーも楽譜を読むだろう」
「あれは読み方というより、穴の場所を覚えた気がします」
「まあそれも一つのやり方だな」
翔はページの下の方を見ていた。
音符が細かく並んでいる段に、視線が止まっている。
「ここの音符、細かいですね」と翔が言った。
「速いところだから。音が多い」
「速く弾くのは大変ですか」
「速さより、均等に弾く方が難しい。一つ一つの音の粒を揃えるのが」
「粒を揃える」
「音楽を聴いていると、なんとなく聴きやすい演奏と、粗く感じる演奏があるだろう。粒が揃っていると、聴きやすい」
「言われてみれば」と翔は言った。
「あんまり考えたことなかったけど」
誠一は楽譜の左上の隅を指した。
「3/4」という数字が書いてある。
「これが何か分かるか」
「・・三分の四?」
「四分の三だ。下が音符の長さ、上が拍数を表す」
「四分の三」
「ワルツはたいてい四分の三拍子だ。一小節に三つの拍がある。タン、タン、タンって」
誠一は指でデスクを叩いた。
タン、タン、タン。
三回。
「タンが三つ」
「それが一小節。それが繰り返される」
「タン、タン、タン、タン、タン、タン、って」
「そう。ただワルツの場合、最初のタンが少し強くなる。タン、タン、タン・・最初だけ強い。それがワルツのリズムだ」
「なんかそれ、どこかで聴いたことあります。テレビとかで流れてくる感じ」
「流れてくる感じ、それが合ってる」
翔はデスクを三回叩いた。
タン、タン、タン。
少し最初を強く。
それを何度か繰り返した。
「こんな感じですか」
「そう。それがワルツだ」
「体が動く感じがしますね」と翔は言った。
「リズムって、自然に体に入ってくるんですね」
「音楽はそういうものだ。理屈より先に、体に来る」
翔はまた楽譜を見た。
「四分の三拍子って、他の音楽と何が違うんですか。なんでワルツはこれなんですか」
誠一は少し考えた。
「踊るためのリズムだから、という話が一つある。ワルツはもともと踊りのための音楽で、三拍子は体を動かすのに合ってる。二拍子は行進みたいになる。四拍子は落ち着く。三拍子は・・揺れる感じがする」
「揺れる感じ」
「三歩歩いて一回振り向くような感じだ」
翔が手を止めた。
三歩歩いて一回振り向く。
「それ、どういう意味ですか」
「三つの拍があって、三つ目で次の一拍目に向かう。一回転する感じ、というか・・説明が難しいが、タン、タン、タン、のタン、タン、タン、が来る前の瞬間に、少しだけ揺り戻しがある。振り向きかけて、また前に行く。それがワルツのリズムの感触だ」
翔はしばらく黙っていた。
「三歩歩いて一回振り向く」と翔は繰り返した。
「就活みたいですね」
「就活?」
「三社受けて一回振り返る感じ。うまくいったかどうか確認して、また歩く」
誠一は翔を見た。
冗談を言っているのか、本気なのか。
翔は楽譜を見ていた。
「うまくいってるか」と誠一は聞いた。
「まあまあです。さっき話した通り」
「まあまあってどっちの方向か、と久美子が聞いてたな」
「どっちでもない方向です」と翔は言った。
「でも最近、ちょっと違う感じがしてて」
「違う感じ」
「なんか、ちゃんと書けるようになってきたというか。エントリーシートとか、面接の答えとか」
「何か変わったか」
翔は少し考えた。
「父さんがなんか変わったから、かもしれないです」
誠一は何も言わなかった。
「散歩に行くようになって。なんか、ちょっと違って見えた。どこに行ってるのかは聞いてなかったけど。なんか、変わる前と変わった後で、人って見え方が違うんだと思って」
「それがエントリーシートに出たか」
「出たかもしれないです」と翔は言った。
「確認する方法はないけど」
「なるほどな」と誠一は言った。
また沈黙があった。
今夜の沈黙は、居心地が悪くなかった。
部屋に二人でいて、楽譜を前にして、それぞれが少し違うことを考えている。
そういう時間だった。
翔が楽譜を一ページめくった。
次のワルツが始まるページだ。
また「3/4」の記号がある。
「全部三拍子ですか」
「ワルツ集だからな。全部ワルツだ」
「ショパンって、ワルツを何曲くらい書いたんですか」
「遺作を含めると二十曲前後じゃないか」
「二十曲。たくさん書いたんですね」
「好きだったんだろう、ワルツが。三拍子が」
「先生もですか、ショパンが好きで」
「古賀先生は・・」と誠一は言ってから、少し止まった。
「先生はショパンを、ピアノの心臓だと言ってた。ピアノがどういう楽器かを一番よく知っていた作曲家だ、と」
「父さんはどう思いますか」
「同じだと思う。ショパンの音楽には、ピアノじゃないと出ない音がある。オーケストラに編曲しても、ヴァイオリンで弾いても、ショパンはショパンじゃなくなる」
「ピアノじゃないと出ない音」
「ピアノは弦を叩く楽器だ。叩いた音はすぐ消える。消えることが前提の音楽がショパンにはある。その消え方が、ショパンだ」
翔はしばらく考えていた。
「消えることが前提の音楽」と翔はつぶやいた。
誠一は翔が何を考えているか、分からなかった。
ただ翔が、音楽のことを考えているのか、別の何かを考えているのか・・若い頃の自分も、音楽の話から全然違うところに飛んでいくことがあった。
そういう時間が、好きだった。
「おやすみなさい」と翔が言った。
思ったより早いな、と誠一は思ったが、言わなかった。
「おやすみ」
翔が楽譜をそっと閉じた。
元の位置に戻した。
「また見てもいいですか」
「いつでも」と誠一は言った。
ドアが閉まった。
誠一は一人になってから、楽譜をまた手に取った。
翔が触れたページを開く。
「3/4」の記号が、いつもと同じようにそこにある。
三歩歩いて一回振り向く。
翔は就活みたいだと言った。
誠一は三十三年間で何度、振り向いただろうか。
振り向かずに歩いてきた三十三年だったかもしれない。
ピアノを置いてきた場所を振り向かずに、ただ前に歩いた。
でも今夜、翔と楽譜を眺めた。
それが何かの振り向きだったとすれば・・どこに向かって、どこから振り向いたのかは、まだ分からない。
誠一は楽譜を閉じ、デスクに置いた。
窓の外が静かだった。
三拍子が、頭の中で、ゆっくりと鳴っていた。




