第十三話 「なぜ黙っていたの」
翌朝の村上家は、いつもより会話が多かった。
といっても、誠一への会話が増えたわけではない。
久美子と翔と麻央の間で「村上家」グループが活発になっているらしく、誠一の知らないところで朝から情報共有が進んでいた。
翔が「あの動画、今朝で十六万になってた」と言い、久美子が「そんなに」と言い、麻央が「私の友達も知ってる子いた」と言っていた。
誠一はダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲んでいた。
今朝は、三人が話している内容の当事者が自分だ。
自分の話を自分抜きでしている会話が聞こえている。
本人がいる前でなのに、なぜか本人に聞こえていない体で話が進んでいる。
誠一はコーヒーを飲み続けた。
おかしい、と誠一は思った。
おかしいが、これが村上家だ。
誠一はコーヒーを飲み終え、「行ってきます」と言った。
今日は三人から「行ってらっしゃい」が返ってきた。
昨日と同じだ。
三人から、というのは・・まだ慣れない。
いい意味で慣れない。
会社では、誠一はいつも通り仕事をした。
フォーマットを直し、電話をかけ、田中の見積もりを静かに確認した。
「村上さん、なんか今日顔色悪くないですか」と田中が言った。
「昨夜あまり寝てないから」と誠一は言った。
嘘ではなかった。
昨夜は久美子に「話す」と言ってしまったので、何を話すかを考えながら寝たら三時になっていた。
「家の話で眠れなかったんですか」と田中は言った。
「それは眠れないですよね」という顔をして、自席に戻っていった。
それ以上何も聞かなかった。
そういうことができるようになったのは、田中も少し成長したということかもしれない。
昼休み、誠一は珍しくコンビニではなく、会社近くのそば屋に一人で入った。
かけそばを頼んだ。
六百五十円。
一人でそばを食べながら、今夜何を話すかを整理した。
一九九三年の話。
古賀教授の訃報。
楽屋で「弾きます」と言ったこと。
ステージで止まったこと。
それからピアノを封印した理由。
三十三年間黙っていたことを、今夜話す。
話すと何かが変わるだろうか、と誠一は考えた。
変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
でも久美子が「聞く」と言ったわけではまだない。
ただ、翔が部屋に来た。
麻央がドア越しに声をかけてきた。
それは何かを聞こうとしている、ということだ。
聞いてくれる人がいる、ということは、話せるということだ。
そばは美味しかった。
だしが利いていた。
コンビニでは食べられない味だ、と思いながら、誠一は全部食べた。
七時ちょうどに退勤した。
帰り道、コンコースのピアノが見えた。
今日は弾かなかった。
今夜は話す夜だ、という予感があった。
ピアノの前を素通りしながら、誠一はちらりとだけ鍵盤を見た。
明日また来る。
今夜は、別の場所で別の音を出す。
その夜、家族会議が開かれた。
誠一は事前に知らされていなかった。
「家族会議を開く」という通知が「村上家」グループに流れたとしたら、誠一には届かない。
実際に何があったかというと・・誠一が七時に帰宅すると、リビングに三人が座っていて、テーブルの上にスマートフォンが一台置かれていた。
もう一つ、テーブルの上には封筒があった。
茶色い封筒。
中から、古い紙が少し覗いている。
誠一は鞄を持ったまま、立ち止まった。
あの封筒だ、と分かった。
押し入れの段ボール箱の中に入れていた、新聞の切り抜きの封筒だ。
誠一が最後に手を触れたのは数日前だ。
それがなぜここにあるかというと・・久美子が見つけたのだろう。
「お父さん、座って」と麻央が言った。
麻央が「座って」と言う時の顔は、いつもの麻央ではなかった。
泣きそうな顔ではなく、何かを決めた顔をしていた。
誠一は座った。
「これ」と翔がスマートフォンを差し出した。
画面には例の動画が表示されている。
「父さんだよな」
「・・まあ」
「まあじゃなくて」
「そうだよ」と誠一は言った。
「俺だよ」
麻央が「やっぱり」と言った。
久美子は黙っていた。
「で、これ」と翔は今度は封筒の方を指した。
「押し入れにあったやつ」
誠一は封筒を見た。
久美子を見た。
「久美子、押し入れ開けたのか」
「掃除してたら出てきた」と久美子は言った。
「段ボールが破れかけてたから、中を確認した」
「見てもよかったか?」と久美子は言った。
最後に「か?」をつけたが、語尾に揺らぎはなかった。
「・・まあ」
「まあ、じゃなくて」
親子で同じ返しをする。
誠一は少し苦笑いをしたが、空気はそれを笑って流してくれなかった。
「ショパン国際ピアノコンクール、第三位」と翔が読み上げた。
「一九九二年。二十一歳。村上誠一・・父さんじゃん」
「そうだよ」
「なんで言わなかったの」
「昔の話だから」
翔が「昔の話」と繰り返した。
「昔の話だから黙ってた?」
「まあ、そうだな」
「なんで」
「必要ない話だと思ってたから」
翔が口を開きかけた時、久美子が言った。
「必要ないって、誰が決めたの」
久美子の声は、怒っていなかった。
怒っていない声だったが、それがかえって、誠一には重かった。
感情を抑えた声というのは、感情をぶつけてくる声より、時として深く刺さる。
「三十年間、一度も話さなかった」と久美子は言った。
「私に。一度も」
「・・」
「私はそんなに、信用できない人間だったの?」
誠一は答えられなかった。
信用できなかったわけではない。
信用とは別の話だ。
あの夜のことを話せなかった。
話すということは、あの夜を言葉にすることで、言葉にしたら・・崩れる気がした。
自分の中で辛うじて形を保っていた何かが、言葉にした瞬間に崩れる気がしていた。
三十三年間、その怖さと一緒に生きてきた。
でも久美子にはそれが伝わらない。
伝えようとしてこなかったから。
「信用してなかったわけじゃない」と誠一は言った。
「じゃあなんで」
「うまく話せなかったから」
「三十年間」と久美子は言った。
静かに、だが確かに。
「三十年間、うまく話せなかった。それが答えなの」
翔が「俺にも話してくれなかった」と言った。
声のトーンが、怒っているとも悲しんでいるともつかない。
「父さんがコンクールで三位になってたなんて、知らなかった。父さんのこと、何も知らなかった」
麻央が「私も」と言った。
今度は本当に泣きそうだった。
「二十二年間、一緒にいたのに。父さんのことで、知ってることって何があるかなって考えたら・・」
麻央は少し止まった。
「コピー機の直し方が早い、くらいしか思い浮かばなかった」
誠一は、その言葉で笑っていいのか泣いていいのか分からなかった。
コピー機の直し方。
それが家族の中での自分の認識だ。
営業部次長。
透明人間。
コピー機の神様。
三十三年前のショパンコンクール三位のことは、家族の誰も知らなかった。
誠一が言わなかったから。
三十三年間、言わなかったから。
「ごめん」と誠一は言った。
「話さなかった。理由はあるんだが・・」
「聞きたい」と麻央が言った。
「今、聞きたい」
誠一はリビングの三人を見渡した。
久美子。
翔。
麻央。
三十年間と二十六年間と二十二年間、それぞれに誠一のそばにいた人間たちが、今夜初めて、同じ方向から誠一を見ていた。
怒りでも、責めでもなく・・知りたい、という顔で。
「一九九三年のことを」と誠一は言った。
「話す。それが全部の理由だから」
麻央が静かにうなずいた。
翔が少し姿勢を正した。
誠一は話した。
古賀教授のリサイタルのこと。
プログラムの最後に置かれた誇らしさ。
七時十五分、楽屋のドアがノックされたこと。
スタッフの青い顔。
心不全。
お亡くなり。
「弾きます、と言ったんだ」と誠一は言った。
「先生が作ったプログラムだから、と」
誰も何も言わなかった。
「ステージに出た。最初の数小節は弾けた。でも・・十小節目で、涙が出た。止められなかった。指が動かなくなった。震えた。そのまま、演奏を止めた」
麻央が「止まったんだ」とつぶやいた。
「お辞儀をして、退場した。袖に入った瞬間、膝が折れた」
翔が顔を伏せた。
「先生は『逃げるな』と言い続けた人だった。どんな時でもステージから逃げてはいけない、と。俺は逃げなかった。ステージには立った。でも演奏を止めた。・・守れなかった、と思った。守れなかった自分に、弾く資格はないと思った。それからピアノを弾かなかった」
リビングが静かだった。
久美子が「三十三年間」とだけ言った。
問いでも、責めでもなく、確認するように。
「三十三年間、そう思ってた」
「今は?」と麻央が聞いた。
誠一は少し考えた。
「今は・・分からなくなってきた。ステージに立ったことは、逃げなかったことじゃないか、と。三十三年かかっても答えが出なかった問いが、少しだけ形を変えてきた」
「だからピアノを弾き始めたんですか」と翔が言った。
「そうだな。始めた、というより・・また鍵盤の前に行けるようになった、という感じかな」
久美子は何も言わなかった。
でも、誠一の方を見ていた。
三十年間ずっとそこにいた人間の目で、見ていた。
「お父さんは逃げなかったと思う」と麻央が言った。
唐突に、でも確かに。
誠一は麻央を見た。
「ステージに立ったじゃないですか。先生が亡くなった日に。それって逃げてないでしょ」
「まあ」
「まあじゃなくて」
「そうだな」と誠一は言った。
翔が「そうだよ」と言った。
珍しく断言するように。
「立ったことと止まったことは、別のことでしょ」
誠一は息を吐いた。
三十三年間、誰にも言えなかったことを、今夜言った。
崩れなかった。
崩れる気がして言えなかったのに、言っても崩れなかった。
むしろ・・少し、軽くなった気がした。
夕飯は、その日は各自で食べることになった。
家族会議の後、久美子が「今日はそれぞれで食べましょう」と言った。
責めているわけではなく、整理の時間を取ろう、という声だった。
誠一はラップのかかった昨日の煮物を温めて食べた。
翔はカップ麺を作った。
麻央はチーズトーストを焼いた。
久美子は食べなかった。
バラバラな夕飯だった。
でも今夜だけは、それが正しい気がした。
誠一が食器を洗っていると、久美子が台所に入ってきた。
「お風呂は?」
「最後でいいよ」と誠一は言った。
久美子はしばらく黙っていた。
台所の明かりが、白く落ちている。
換気扇の低い音がする。
「先入りなさい」と久美子は言った。
誠一は蛇口を止めた。
振り返ると、久美子は流しに向かって立っていた。
後ろ姿だった。
「昨日と同じこと言うな」と誠一は言った。
久美子はしばらく黙っていた。
それから・・
「あなたの弾くの、聴いた」と久美子は言った。
後ろ向きのまま。
「土曜、駅ビルで」
誠一は固まった。
「醤油を買いに行くつもりで、迷い込んだら・・ピアノの音がして。後ろ姿が見えて。あなただって気づくまで五秒かかった」
「・・」
「知らなかった。あんなふうに弾けるって。三十年間、知らなかった」
誠一はなんと言えばいいか分からなかった。
「なんで言わなかったの、ずっと」と久美子は言った。
「弾けること。弾いてたこと。・・先生が亡くなったこと」
「うまく話せなかった」
「三十年間」
「三十年間、うまく話せなかった」と誠一は言った。
「さっきリビングでも同じことを言った。同じことしか言えないが・・本当にそうだとしか言いようがない」
久美子は振り返った。
怒っているのではなかった。
泣いているのでもなかった。
ただ、真剣だった。
三十年間ずっとそこにいた人間の、真剣な顔をしていた。
「話すつもりがなかったわけじゃないんだろう」と久美子は言った。
問いではなく、確認するように。
「そうだ」
「じゃあ、これからは話せる?」
「話すつもりだ」と誠一は言った。
「今夜、少し話せた」
久美子は「そう」と言った。
それだけだった。
でもその「そう」が、三十年間一緒にいた人間の「そう」だった。
「先入りなさい」と、また言った。
語尾が、いつもより少し柔らかかった。
誠一は先に風呂に入った。
湯船の中で、これから久美子に何を話すかを考えた。
もう少し詳しく。
古賀教授のことを。
あの夜の楽屋のことを。
ショパンのワルツが四小節弾けた夜のことを。
うまく話せるかは分からない。
でも、久美子が「話せる?」と聞いてくれた。
翔が「立ったことと止まったことは別のことでしょ」と言った。
麻央が「お父さんは逃げなかったと思う」と言った。
三人が、今夜、同じ方向から誠一を見た。
誠一は湯船から出た。
タオルで手を拭きながら、右手を見た。
震えていない。
普通の手だ。
今夜この手で、三十三年間黙っていたことを、少しだけ言葉にした。
言葉にしても、崩れなかった。
それだけで、今夜は十分だった。




