↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/28

第十三話 「なぜ黙っていたの」

 翌朝の村上家は、いつもより会話が多かった。

 といっても、誠一への会話が増えたわけではない。

 久美子と翔と麻央の間で「村上家」グループが活発になっているらしく、誠一の知らないところで朝から情報共有が進んでいた。

 翔が「あの動画、今朝で十六万になってた」と言い、久美子が「そんなに」と言い、麻央が「私の友達も知ってる子いた」と言っていた。


 誠一はダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲んでいた。

 今朝は、三人が話している内容の当事者が自分だ。

 自分の話を自分抜きでしている会話が聞こえている。

 本人がいる前でなのに、なぜか本人に聞こえていない体で話が進んでいる。

 誠一はコーヒーを飲み続けた。

 おかしい、と誠一は思った。

 おかしいが、これが村上家だ。


 誠一はコーヒーを飲み終え、「行ってきます」と言った。

 今日は三人から「行ってらっしゃい」が返ってきた。

 昨日と同じだ。

 三人から、というのは・・まだ慣れない。

 いい意味で慣れない。


 会社では、誠一はいつも通り仕事をした。

 フォーマットを直し、電話をかけ、田中の見積もりを静かに確認した。

「村上さん、なんか今日顔色悪くないですか」と田中が言った。

「昨夜あまり寝てないから」と誠一は言った。

 嘘ではなかった。

 昨夜は久美子に「話す」と言ってしまったので、何を話すかを考えながら寝たら三時になっていた。

「家の話で眠れなかったんですか」と田中は言った。

「それは眠れないですよね」という顔をして、自席に戻っていった。

 それ以上何も聞かなかった。

 そういうことができるようになったのは、田中も少し成長したということかもしれない。


 昼休み、誠一は珍しくコンビニではなく、会社近くのそば屋に一人で入った。

 かけそばを頼んだ。

 六百五十円。

 一人でそばを食べながら、今夜何を話すかを整理した。

 一九九三年の話。

 古賀教授の訃報。

 楽屋で「弾きます」と言ったこと。

 ステージで止まったこと。

 それからピアノを封印した理由。

 三十三年間黙っていたことを、今夜話す。


 話すと何かが変わるだろうか、と誠一は考えた。

 変わるかもしれない。

 変わらないかもしれない。

 でも久美子が「聞く」と言ったわけではまだない。

 ただ、翔が部屋に来た。

 麻央がドア越しに声をかけてきた。

 それは何かを聞こうとしている、ということだ。

 聞いてくれる人がいる、ということは、話せるということだ。

 そばは美味しかった。

 だしが利いていた。

 コンビニでは食べられない味だ、と思いながら、誠一は全部食べた。


 七時ちょうどに退勤した。

 帰り道、コンコースのピアノが見えた。

 今日は弾かなかった。

 今夜は話す夜だ、という予感があった。

 ピアノの前を素通りしながら、誠一はちらりとだけ鍵盤を見た。

 明日また来る。

 今夜は、別の場所で別の音を出す。


 その夜、家族会議が開かれた。

 誠一は事前に知らされていなかった。

「家族会議を開く」という通知が「村上家」グループに流れたとしたら、誠一には届かない。

 実際に何があったかというと・・誠一が七時に帰宅すると、リビングに三人が座っていて、テーブルの上にスマートフォンが一台置かれていた。

 もう一つ、テーブルの上には封筒があった。

 茶色い封筒。

 中から、古い紙が少し覗いている。

 誠一は鞄を持ったまま、立ち止まった。

 あの封筒だ、と分かった。

 押し入れの段ボール箱の中に入れていた、新聞の切り抜きの封筒だ。

 誠一が最後に手を触れたのは数日前だ。

 それがなぜここにあるかというと・・久美子が見つけたのだろう。


「お父さん、座って」と麻央が言った。

 麻央が「座って」と言う時の顔は、いつもの麻央ではなかった。

 泣きそうな顔ではなく、何かを決めた顔をしていた。

 誠一は座った。

「これ」と翔がスマートフォンを差し出した。

 画面には例の動画が表示されている。

「父さんだよな」

「・・まあ」

「まあじゃなくて」

「そうだよ」と誠一は言った。

「俺だよ」

 麻央が「やっぱり」と言った。

 久美子は黙っていた。


「で、これ」と翔は今度は封筒の方を指した。

「押し入れにあったやつ」

 誠一は封筒を見た。

 久美子を見た。

「久美子、押し入れ開けたのか」

「掃除してたら出てきた」と久美子は言った。

「段ボールが破れかけてたから、中を確認した」

「見てもよかったか?」と久美子は言った。

 最後に「か?」をつけたが、語尾に揺らぎはなかった。

「・・まあ」

「まあ、じゃなくて」

 親子で同じ返しをする。

 誠一は少し苦笑いをしたが、空気はそれを笑って流してくれなかった。


「ショパン国際ピアノコンクール、第三位」と翔が読み上げた。

「一九九二年。二十一歳。村上誠一・・父さんじゃん」

「そうだよ」

「なんで言わなかったの」

「昔の話だから」

 翔が「昔の話」と繰り返した。

「昔の話だから黙ってた?」

「まあ、そうだな」

「なんで」

「必要ない話だと思ってたから」

 翔が口を開きかけた時、久美子が言った。

「必要ないって、誰が決めたの」

 久美子の声は、怒っていなかった。

 怒っていない声だったが、それがかえって、誠一には重かった。

 感情を抑えた声というのは、感情をぶつけてくる声より、時として深く刺さる。

「三十年間、一度も話さなかった」と久美子は言った。

「私に。一度も」

「・・」

「私はそんなに、信用できない人間だったの?」

 誠一は答えられなかった。


 信用できなかったわけではない。

 信用とは別の話だ。

 あの夜のことを話せなかった。

 話すということは、あの夜を言葉にすることで、言葉にしたら・・崩れる気がした。

 自分の中で辛うじて形を保っていた何かが、言葉にした瞬間に崩れる気がしていた。

 三十三年間、その怖さと一緒に生きてきた。

 でも久美子にはそれが伝わらない。

 伝えようとしてこなかったから。


「信用してなかったわけじゃない」と誠一は言った。

「じゃあなんで」

「うまく話せなかったから」

「三十年間」と久美子は言った。

 静かに、だが確かに。

「三十年間、うまく話せなかった。それが答えなの」

 翔が「俺にも話してくれなかった」と言った。

 声のトーンが、怒っているとも悲しんでいるともつかない。

「父さんがコンクールで三位になってたなんて、知らなかった。父さんのこと、何も知らなかった」

 麻央が「私も」と言った。

 今度は本当に泣きそうだった。

「二十二年間、一緒にいたのに。父さんのことで、知ってることって何があるかなって考えたら・・」

 麻央は少し止まった。

「コピー機の直し方が早い、くらいしか思い浮かばなかった」

 誠一は、その言葉で笑っていいのか泣いていいのか分からなかった。


 コピー機の直し方。

 それが家族の中での自分の認識だ。

 営業部次長。

 透明人間。

 コピー機の神様。

 三十三年前のショパンコンクール三位のことは、家族の誰も知らなかった。

 誠一が言わなかったから。

 三十三年間、言わなかったから。


「ごめん」と誠一は言った。

「話さなかった。理由はあるんだが・・」

「聞きたい」と麻央が言った。

「今、聞きたい」

 誠一はリビングの三人を見渡した。

 久美子。

 翔。

 麻央。

 三十年間と二十六年間と二十二年間、それぞれに誠一のそばにいた人間たちが、今夜初めて、同じ方向から誠一を見ていた。

 怒りでも、責めでもなく・・知りたい、という顔で。


「一九九三年のことを」と誠一は言った。

「話す。それが全部の理由だから」

 麻央が静かにうなずいた。

 翔が少し姿勢を正した。

 誠一は話した。

 古賀教授のリサイタルのこと。

 プログラムの最後に置かれた誇らしさ。

 七時十五分、楽屋のドアがノックされたこと。

 スタッフの青い顔。

 心不全。

 お亡くなり。


「弾きます、と言ったんだ」と誠一は言った。

「先生が作ったプログラムだから、と」

 誰も何も言わなかった。

「ステージに出た。最初の数小節は弾けた。でも・・十小節目で、涙が出た。止められなかった。指が動かなくなった。震えた。そのまま、演奏を止めた」

 麻央が「止まったんだ」とつぶやいた。

「お辞儀をして、退場した。袖に入った瞬間、膝が折れた」

 翔が顔を伏せた。

「先生は『逃げるな』と言い続けた人だった。どんな時でもステージから逃げてはいけない、と。俺は逃げなかった。ステージには立った。でも演奏を止めた。・・守れなかった、と思った。守れなかった自分に、弾く資格はないと思った。それからピアノを弾かなかった」


 リビングが静かだった。

 久美子が「三十三年間」とだけ言った。

 問いでも、責めでもなく、確認するように。

「三十三年間、そう思ってた」

「今は?」と麻央が聞いた。

 誠一は少し考えた。

「今は・・分からなくなってきた。ステージに立ったことは、逃げなかったことじゃないか、と。三十三年かかっても答えが出なかった問いが、少しだけ形を変えてきた」

「だからピアノを弾き始めたんですか」と翔が言った。

「そうだな。始めた、というより・・また鍵盤の前に行けるようになった、という感じかな」

 久美子は何も言わなかった。

 でも、誠一の方を見ていた。

 三十年間ずっとそこにいた人間の目で、見ていた。


「お父さんは逃げなかったと思う」と麻央が言った。

 唐突に、でも確かに。

 誠一は麻央を見た。

「ステージに立ったじゃないですか。先生が亡くなった日に。それって逃げてないでしょ」

「まあ」

「まあじゃなくて」

「そうだな」と誠一は言った。

 翔が「そうだよ」と言った。

 珍しく断言するように。

「立ったことと止まったことは、別のことでしょ」

 誠一は息を吐いた。

 三十三年間、誰にも言えなかったことを、今夜言った。

 崩れなかった。

 崩れる気がして言えなかったのに、言っても崩れなかった。

 むしろ・・少し、軽くなった気がした。


 夕飯は、その日は各自で食べることになった。

 家族会議の後、久美子が「今日はそれぞれで食べましょう」と言った。

 責めているわけではなく、整理の時間を取ろう、という声だった。

 誠一はラップのかかった昨日の煮物を温めて食べた。

 翔はカップ麺を作った。

 麻央はチーズトーストを焼いた。

 久美子は食べなかった。

 バラバラな夕飯だった。

 でも今夜だけは、それが正しい気がした。


 誠一が食器を洗っていると、久美子が台所に入ってきた。

「お風呂は?」

「最後でいいよ」と誠一は言った。

 久美子はしばらく黙っていた。

 台所の明かりが、白く落ちている。

 換気扇の低い音がする。

「先入りなさい」と久美子は言った。

 誠一は蛇口を止めた。

 振り返ると、久美子は流しに向かって立っていた。

 後ろ姿だった。


「昨日と同じこと言うな」と誠一は言った。

 久美子はしばらく黙っていた。

 それから・・

「あなたの弾くの、聴いた」と久美子は言った。

 後ろ向きのまま。

「土曜、駅ビルで」

 誠一は固まった。

「醤油を買いに行くつもりで、迷い込んだら・・ピアノの音がして。後ろ姿が見えて。あなただって気づくまで五秒かかった」

「・・」

「知らなかった。あんなふうに弾けるって。三十年間、知らなかった」

 誠一はなんと言えばいいか分からなかった。


「なんで言わなかったの、ずっと」と久美子は言った。

「弾けること。弾いてたこと。・・先生が亡くなったこと」

「うまく話せなかった」

「三十年間」

「三十年間、うまく話せなかった」と誠一は言った。

「さっきリビングでも同じことを言った。同じことしか言えないが・・本当にそうだとしか言いようがない」

 久美子は振り返った。

 怒っているのではなかった。

 泣いているのでもなかった。

 ただ、真剣だった。

 三十年間ずっとそこにいた人間の、真剣な顔をしていた。


「話すつもりがなかったわけじゃないんだろう」と久美子は言った。

 問いではなく、確認するように。

「そうだ」

「じゃあ、これからは話せる?」

「話すつもりだ」と誠一は言った。

「今夜、少し話せた」

 久美子は「そう」と言った。

 それだけだった。

 でもその「そう」が、三十年間一緒にいた人間の「そう」だった。


「先入りなさい」と、また言った。

 語尾が、いつもより少し柔らかかった。

 誠一は先に風呂に入った。

 湯船の中で、これから久美子に何を話すかを考えた。

 もう少し詳しく。

 古賀教授のことを。

 あの夜の楽屋のことを。

 ショパンのワルツが四小節弾けた夜のことを。

 うまく話せるかは分からない。

 でも、久美子が「話せる?」と聞いてくれた。

 翔が「立ったことと止まったことは別のことでしょ」と言った。

 麻央が「お父さんは逃げなかったと思う」と言った。

 三人が、今夜、同じ方向から誠一を見た。


 誠一は湯船から出た。

 タオルで手を拭きながら、右手を見た。

 震えていない。

 普通の手だ。

 今夜この手で、三十三年間黙っていたことを、少しだけ言葉にした。

 言葉にしても、崩れなかった。

 それだけで、今夜は十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。