第二十七話 「久美子、二度目」 ・・久美子の視点
シャッターが切れたあとも、久美子の耳の奥では、まだ最初の和音が鳴っていた。
ホワイエでは、先生の生徒たちが誠一を囲んでいる。
久美子は輪の少し外で、一口も減っていない紙コップのお茶を持って立っていた。
演奏が終わって、もう三十分は経つ。
なのに久美子の中では、演奏がまだ終わっていなかった。
あの瞬間を、最初の和音から、順番にもう一度なぞっていた。
最初の和音が鳴った瞬間に、久美子は気づいた。
ああ、この音だ・・と思った。
駅のコンコースで聴いた音と、同じ音だった。
買い物の途中で偶然あの背中を見つけて、人の流れの中で立ち止まって、動けなくなってしまった、あの午後の音。
あの日は、行き交う人々の足音の向こうから聞こえた。
今日は、同じホールの中で、空気が直接震えていた。
久美子の手が、ひざの上で静かに握られた。
誠一がピアノを弾いていることを、久美子は一ヶ月ほど前に知った。
正確には、あの家族全員が揃った夜に全部を聞いた。
ショパンのコンクールで三位を取ったこと。
一九九三年の夜に先生が亡くなったこと。
ステージで止まったこと。
それから三十三年間、鍵盤に触れなかったこと。
久美子はその話を聞きながら、怒りより先に、悲しかった。
怒りは後から来た。
三十年間言えなかったの?
言えなかったとして、三十年間気づかなかった私は何だったの?
そういう感情が、後から、少しずつ来た。
でも一番最初に来たのは・・悲しかった。
この人は、三十年間ずっと、一人でその夜を抱えていた。
その隣で寝て、毎朝起きて、ご飯を食べて、三十年が経った。
久美子には、気づけなかった。
気づこうとしていたかどうか、今でもよく分からない。
していなかったかもしれない。
誠一が「透明な人」になっていく過程を、久美子も止めなかった。
止め方が分からなかったとも言えるが・・止めようとしていたかどうかを問われると、正直には答えられない。
だから久美子は、「止めないけど」と言った。
「止めない」は、賛成ではない。
でも反対でもない。
「あなたが弾くことを、私は妨げない」という意味だった。
それが久美子にできる、精一杯だった。
でも今日・・精一杯の先が、来た気がした。
音楽は進んでいった。
久美子はショパンのことを、そんなに詳しくない。
大学の頃にCDを何枚か買ったことがある。
夜に一人で聴くのが好きだった。
誠一と付き合い始める前のことだ。
ショパンの音は冬の夜に似ている、と思っていた。
綺麗で、少し寂しい。
寂しいが、どこかあたたかい。
その音が、誠一の手から出ていた。
「急ぐな」と書いてあった、と誠一が昨夜言っていた。
先生の楽譜の書き込みのことを、昨夜久美子に話した。
「急ぐな。歌え。ここが核心。誠一へ。もう一度」・・と。
久美子は弾いている誠一の背中を見た。
三十年間、この人の背中を見てきた。
会社に行く時の背中。
帰ってくる時の背中。
テレビを見ている時の背中。
夜中にひとりでリビングにいる時の背中・・あの夜の背中が、今になって思い出された。
深夜にリビングに出たら、誠一が一人でいた。
ピアノのことを考えていたのかもしれない。
でも久美子には分からなかった。
分からないまま、「寝たら?」と言って、自分も戻った。
今日の背中は・・違う。
あの三十年間の背中ではなかった。
音楽の中にいる人の背中だ。
久美子は、自分の手に気づいた。
ひざの上で、左手が、小さく震えていた。
気づいていなかった。
いつから震えていたのか、分からない。
でも気づいた時には、小刻みに震えていた。
久美子はその手を右手で包んだ。
包んでも、震えはしばらく続いた。
泣いていた。
頬を涙が伝っていた。
拭おうとしたが、次が来た。
翔と麻央にはなるべく見せたくなかった。
でも、こらえられなかった。
久美子が涙を流すのは、三十年の結婚生活でほとんどなかった。
お葬式でも、目が潤む程度だった。
泣くのは恥ずかしい、と思っていたわけではない。
ただ、こらえるのが普通だった。
でも今日は・・こらえられなかった。
この音を、三十年間聴けなかったから。
この人の隣で三十年間生きて、この音を知らなかったから。
知らないまま過ごした三十年と、今日のこの音が、久美子の中で一時に押し寄せてきた。
曲が中間部に入った時、久美子はあることを思い出した。
誠一と付き合い始めた頃のこと。
まだ大学生で、誠一が「ピアノをやっていた」と話した時のこと・・正確には、そういう話をしたかどうか、今となっては思い出せない。
誠一はピアノのことを話していたのか。
それとも久美子が聴かなかったのか。
聴いたような気もする。
でも「やっていた、昔」という話として受け取って、それ以上聴かなかったかもしれない。
誠一が「もう弾いていない」と言えば、久美子も「そうなんだ」と言って終わった。
深く掘り返すことを、久美子はしなかった。
そのことを、今日初めて、少し後悔した。
あの頃に掘り返していたら・・何かが変わっていたかもしれない。
変わらなかったかもしれない。
でも聴いていたかった。
あの頃の誠一に、一度でいいから「なぜ弾かなくなったの」と聴きたかった。
でも・・もう今は、聴かなくていい。
聴いた。
ここに、答えが来た。
今日、この音が来た。
最後の音が、ホールに消えていった。
消えて・・静かになった。
久美子は、何も言えなかった。
拍手が来た。
久美子も手を叩いた。
でも自分が叩いているのか、隣の人が叩いているのか、よく分からなかった。
視界が滲んでいた。
誠一がステージから顔を上げた。
客席を見た。
久美子の方を見た。
久美子は、頷いた。
一度だけ。
言葉は出なかった。
出せなかった。
「よかった」も「感動した」も「ありがとう」も、今夜はどれも違う気がした。
全部、今夜の重さには足りない気がした。
だから、頷いた。
それだけ言った。
誠一が、少し笑った・・。
「お母さん」と麻央に袖を引かれて、久美子は我に返った。
紙コップのお茶は、すっかりぬるくなっていた。
「そろそろ帰ろうって、お父さん」と麻央が言った。
久美子は「そう」と言って、お茶を一口だけ飲んだ。
こんなに長い間、心の中でピアノを聴いていたのは、初めてだった。
ホワイエでの歓談が終わって、帰り支度になった。
宮本さんや先生の生徒たちに挨拶をして、コートを着た。
誠一が先生の封筒をカバンに大切にしまっているのを、久美子は見ていた。
「お母さん、目赤いよ」と麻央が言った。
「そう」と久美子は言った。
「泣いたから」
「泣いてたんだ」と麻央は言い、少し嬉しそうな顔をした。
「私も泣いた」
「知ってるよ」と久美子は言った。
「緑のワンピースに、マスカラが少し付いてたから」
「えっ、本当?」と麻央はスマートフォンを出してカメラで自分の顔を確認した。
「どこ?」
「もう落ちた」と久美子は言い、先に歩き出した。
外に出ると、夕方の空気が冷たかった。
十月の下旬。
日が落ちるのが早い。
ホールを出た時にはもう、空が暗くなりかけていた。
誠一が隣にいた。
久美子は、自然に隣を歩いていた。
それが・・ふと、気になった。
自然に、隣を歩いている。
この三十年間も、家族で外出すれば隣を歩いていた。
でも「隣を歩いている」という意識がなかった。
並んでいるのが習慣だから、隣にいるのが当たり前だから、そこにいる・・という感じだった。
今夜は、違う。
意識して、隣にいる。
選んで、隣にいる。
三十年ぶりに、そういう感じがした。
付き合っていた頃、デートで並んで歩いた時の感じ。
「この人の隣を歩いている」という意識が、あの頃はあった。
それがいつか習慣になって、消えた。
今夜・・戻ってきた。
久美子は、少し照れた。
五十三歳が照れる。
三十年連れ添った夫の隣を歩いて照れる。
おかしい、と自分でも思った。
でも照れた。
それがどうにも止められなかった。
「寒いね」と久美子は言った。
「そうだな」と誠一は言った。
「コート、着てきてよかった」
「ああ」
会話はそれだけだった。
でもそれだけで、十分だった。
後ろから翔と麻央の声が聞こえた。
麻央が何か言って、翔が「そうだね」と返した。
二人の距離は、親の二人より少し後ろ。
翔は、前を歩く両親を見ていた。
父と母が、並んで歩いている。
それだけのこと。
でもなぜか今夜は、その光景が違って見えた。
いつもと違う。
並んでいる距離が、少し近い気がした。
二人の間に、いつもより空気が少ない気がした。
翔には、うまく説明できなかった。
「なんか」と麻央が小声で言った。
「お父さんとお母さん、付き合い始めたカップルみたい」
「言い方」と翔は言ったが、否定はしなかった。
「見て、お母さんの歩き方がいつもと違う」と麻央は言った。
「なんか、少し、ふわっとしてる」
翔は見た。
確かに、何かが違った。
「そういうのは言わなくていい」と翔は言った。
「なんで? いいことじゃん」と麻央は言い、少し声を上げた。
「お父さん」
誠一が振り返った。
「演奏、よかったよ。本当に」
誠一が少し困ったような顔をした。
「・・ありがとう」と誠一は言った。
「お母さん、泣いてたよ」と麻央は続けた。
「それは言わなくていい」と久美子は前を向いたまま言った。
「お父さんも知ってるでしょ」
「知ってても言わなくていい」
翔がこらえるように笑った。
麻央が「なんで〜」と言いながら笑った。
久美子は前を向いたまま、少し笑った。
誠一も、笑っていた。
駅の改札を抜けて、ホームで電車を待った。
誠一の隣に、久美子は立っていた。
「疲れた?」と久美子は聞いた。
「少し」と誠一は言った。
「でも・・悪くない疲れだ」
「そうね」と久美子は言った。
「悪くない疲れ、ね」
電車が来た。
乗り込む時に、混んでいるわけでもないのに、誠一の腕の近くを久美子は歩いた。
ぶつかりはしなかったが、近かった。
誠一は気づいているのかいないのか、分からなかった。
気づいていないとしたら、少し損だ、と久美子は思った。
気づいているとしたら、照れているのだろう。
どちらでも、今夜の久美子にはどうでもよかった。
電車が動き出した。
窓の外に、夜の街が流れた。
久美子はその景色を見ながら、今夜の音をもう一度思い出した。
最初の和音。
右手が旋律を歌い始めた瞬間。
中間部の、感情が前に出てくる場所。
最後の音が消えた後の、あの静かな空気・・。
全部、今夜の、一度きりのもの。
明日からは、また「ただいま」と「おかえり」の毎日に戻る。
夕飯を作って、洗い物をして、テレビを見て、寝る。
変わらない毎日が待っている。
でも・・今夜の音は、久美子の中に残る。
誠一の手が弾いた音が、久美子の手を震わせた。
震えた手のことを、久美子はたぶん、これからも覚えている。
「お母さん」と隣で麻央が言った。
「何ニヤニヤしてんの」
「ニヤニヤしてない」
「してるよ」
「してない」
「翔、お母さんニヤニヤしてるよね」
「見てない」と翔は言った。
「そういうのは見ない」
「賢い」と久美子は言った。
麻央が笑った。
翔も、少し笑った。
誠一が、窓の外を見ていた。
久美子はその横顔を、一秒だけ見た。
それから、また窓の外の夜の景色に視線を戻した。
電車が、家に向かって走った。




