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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第二十七話 「久美子、二度目」 ・・久美子の視点

 シャッターが切れたあとも、久美子の耳の奥では、まだ最初の和音が鳴っていた。

 ホワイエでは、先生の生徒たちが誠一を囲んでいる。

 久美子は輪の少し外で、一口も減っていない紙コップのお茶を持って立っていた。

 演奏が終わって、もう三十分は経つ。

 なのに久美子の中では、演奏がまだ終わっていなかった。

 あの瞬間を、最初の和音から、順番にもう一度なぞっていた。


 最初の和音が鳴った瞬間に、久美子は気づいた。

 ああ、この音だ・・と思った。

 駅のコンコースで聴いた音と、同じ音だった。

 買い物の途中で偶然あの背中を見つけて、人の流れの中で立ち止まって、動けなくなってしまった、あの午後の音。

 あの日は、行き交う人々の足音の向こうから聞こえた。

 今日は、同じホールの中で、空気が直接震えていた。

 久美子の手が、ひざの上で静かに握られた。


 誠一がピアノを弾いていることを、久美子は一ヶ月ほど前に知った。

 正確には、あの家族全員が揃った夜に全部を聞いた。

 ショパンのコンクールで三位を取ったこと。

 一九九三年の夜に先生が亡くなったこと。

 ステージで止まったこと。

 それから三十三年間、鍵盤に触れなかったこと。

 久美子はその話を聞きながら、怒りより先に、悲しかった。

 怒りは後から来た。


 三十年間言えなかったの?

 言えなかったとして、三十年間気づかなかった私は何だったの?

 そういう感情が、後から、少しずつ来た。

 でも一番最初に来たのは・・悲しかった。

 この人は、三十年間ずっと、一人でその夜を抱えていた。

 その隣で寝て、毎朝起きて、ご飯を食べて、三十年が経った。

 久美子には、気づけなかった。

 気づこうとしていたかどうか、今でもよく分からない。

 していなかったかもしれない。

 誠一が「透明な人」になっていく過程を、久美子も止めなかった。

 止め方が分からなかったとも言えるが・・止めようとしていたかどうかを問われると、正直には答えられない。

 だから久美子は、「止めないけど」と言った。

「止めない」は、賛成ではない。

 でも反対でもない。

「あなたが弾くことを、私は妨げない」という意味だった。

 それが久美子にできる、精一杯だった。

 でも今日・・精一杯の先が、来た気がした。


 音楽は進んでいった。

 久美子はショパンのことを、そんなに詳しくない。

 大学の頃にCDを何枚か買ったことがある。

 夜に一人で聴くのが好きだった。

 誠一と付き合い始める前のことだ。

 ショパンの音は冬の夜に似ている、と思っていた。

 綺麗で、少し寂しい。

 寂しいが、どこかあたたかい。

 その音が、誠一の手から出ていた。


「急ぐな」と書いてあった、と誠一が昨夜言っていた。

 先生の楽譜の書き込みのことを、昨夜久美子に話した。

「急ぐな。歌え。ここが核心。誠一へ。もう一度」・・と。

 久美子は弾いている誠一の背中を見た。

 三十年間、この人の背中を見てきた。

 会社に行く時の背中。

 帰ってくる時の背中。

 テレビを見ている時の背中。

 夜中にひとりでリビングにいる時の背中・・あの夜の背中が、今になって思い出された。

 深夜にリビングに出たら、誠一が一人でいた。

 ピアノのことを考えていたのかもしれない。

 でも久美子には分からなかった。

 分からないまま、「寝たら?」と言って、自分も戻った。

 今日の背中は・・違う。

 あの三十年間の背中ではなかった。

 音楽の中にいる人の背中だ。


 久美子は、自分の手に気づいた。

 ひざの上で、左手が、小さく震えていた。

 気づいていなかった。

 いつから震えていたのか、分からない。

 でも気づいた時には、小刻みに震えていた。

 久美子はその手を右手で包んだ。

 包んでも、震えはしばらく続いた。


 泣いていた。

 頬を涙が伝っていた。

 拭おうとしたが、次が来た。

 翔と麻央にはなるべく見せたくなかった。

 でも、こらえられなかった。

 久美子が涙を流すのは、三十年の結婚生活でほとんどなかった。

 お葬式でも、目が潤む程度だった。

 泣くのは恥ずかしい、と思っていたわけではない。

 ただ、こらえるのが普通だった。

 でも今日は・・こらえられなかった。

 この音を、三十年間聴けなかったから。

 この人の隣で三十年間生きて、この音を知らなかったから。

 知らないまま過ごした三十年と、今日のこの音が、久美子の中で一時に押し寄せてきた。


 曲が中間部に入った時、久美子はあることを思い出した。

 誠一と付き合い始めた頃のこと。

 まだ大学生で、誠一が「ピアノをやっていた」と話した時のこと・・正確には、そういう話をしたかどうか、今となっては思い出せない。

 誠一はピアノのことを話していたのか。

 それとも久美子が聴かなかったのか。

 聴いたような気もする。

 でも「やっていた、昔」という話として受け取って、それ以上聴かなかったかもしれない。

 誠一が「もう弾いていない」と言えば、久美子も「そうなんだ」と言って終わった。

 深く掘り返すことを、久美子はしなかった。

 そのことを、今日初めて、少し後悔した。

 あの頃に掘り返していたら・・何かが変わっていたかもしれない。

 変わらなかったかもしれない。

 でも聴いていたかった。

 あの頃の誠一に、一度でいいから「なぜ弾かなくなったの」と聴きたかった。

 でも・・もう今は、聴かなくていい。

 聴いた。

 ここに、答えが来た。

 今日、この音が来た。


 最後の音が、ホールに消えていった。

 消えて・・静かになった。

 久美子は、何も言えなかった。

 拍手が来た。

 久美子も手を叩いた。

 でも自分が叩いているのか、隣の人が叩いているのか、よく分からなかった。

 視界が滲んでいた。

 誠一がステージから顔を上げた。

 客席を見た。

 久美子の方を見た。

 久美子は、頷いた。

 一度だけ。

 言葉は出なかった。

 出せなかった。

「よかった」も「感動した」も「ありがとう」も、今夜はどれも違う気がした。

 全部、今夜の重さには足りない気がした。

 だから、頷いた。

 それだけ言った。

 誠一が、少し笑った・・。


「お母さん」と麻央に袖を引かれて、久美子は我に返った。

 紙コップのお茶は、すっかりぬるくなっていた。

「そろそろ帰ろうって、お父さん」と麻央が言った。

 久美子は「そう」と言って、お茶を一口だけ飲んだ。

 こんなに長い間、心の中でピアノを聴いていたのは、初めてだった。


 ホワイエでの歓談が終わって、帰り支度になった。

 宮本さんや先生の生徒たちに挨拶をして、コートを着た。

 誠一が先生の封筒をカバンに大切にしまっているのを、久美子は見ていた。

「お母さん、目赤いよ」と麻央が言った。

「そう」と久美子は言った。

「泣いたから」

「泣いてたんだ」と麻央は言い、少し嬉しそうな顔をした。

「私も泣いた」

「知ってるよ」と久美子は言った。

「緑のワンピースに、マスカラが少し付いてたから」

「えっ、本当?」と麻央はスマートフォンを出してカメラで自分の顔を確認した。

「どこ?」

「もう落ちた」と久美子は言い、先に歩き出した。


 外に出ると、夕方の空気が冷たかった。

 十月の下旬。

 日が落ちるのが早い。

 ホールを出た時にはもう、空が暗くなりかけていた。


 誠一が隣にいた。

 久美子は、自然に隣を歩いていた。

 それが・・ふと、気になった。

 自然に、隣を歩いている。

 この三十年間も、家族で外出すれば隣を歩いていた。

 でも「隣を歩いている」という意識がなかった。

 並んでいるのが習慣だから、隣にいるのが当たり前だから、そこにいる・・という感じだった。

 今夜は、違う。

 意識して、隣にいる。

 選んで、隣にいる。

 三十年ぶりに、そういう感じがした。

 付き合っていた頃、デートで並んで歩いた時の感じ。

「この人の隣を歩いている」という意識が、あの頃はあった。

 それがいつか習慣になって、消えた。

 今夜・・戻ってきた。


 久美子は、少し照れた。

 五十三歳が照れる。

 三十年連れ添った夫の隣を歩いて照れる。

 おかしい、と自分でも思った。

 でも照れた。

 それがどうにも止められなかった。


「寒いね」と久美子は言った。

「そうだな」と誠一は言った。

「コート、着てきてよかった」

「ああ」

 会話はそれだけだった。

 でもそれだけで、十分だった。


 後ろから翔と麻央の声が聞こえた。

 麻央が何か言って、翔が「そうだね」と返した。

 二人の距離は、親の二人より少し後ろ。

 翔は、前を歩く両親を見ていた。

 父と母が、並んで歩いている。

 それだけのこと。

 でもなぜか今夜は、その光景が違って見えた。

 いつもと違う。

 並んでいる距離が、少し近い気がした。

 二人の間に、いつもより空気が少ない気がした。

 翔には、うまく説明できなかった。


「なんか」と麻央が小声で言った。

「お父さんとお母さん、付き合い始めたカップルみたい」

「言い方」と翔は言ったが、否定はしなかった。

「見て、お母さんの歩き方がいつもと違う」と麻央は言った。

「なんか、少し、ふわっとしてる」

 翔は見た。

 確かに、何かが違った。

「そういうのは言わなくていい」と翔は言った。

「なんで? いいことじゃん」と麻央は言い、少し声を上げた。

「お父さん」

 誠一が振り返った。

「演奏、よかったよ。本当に」

 誠一が少し困ったような顔をした。

「・・ありがとう」と誠一は言った。

「お母さん、泣いてたよ」と麻央は続けた。

「それは言わなくていい」と久美子は前を向いたまま言った。

「お父さんも知ってるでしょ」

「知ってても言わなくていい」

 翔がこらえるように笑った。

 麻央が「なんで〜」と言いながら笑った。

 久美子は前を向いたまま、少し笑った。

 誠一も、笑っていた。


 駅の改札を抜けて、ホームで電車を待った。

 誠一の隣に、久美子は立っていた。

「疲れた?」と久美子は聞いた。

「少し」と誠一は言った。

「でも・・悪くない疲れだ」

「そうね」と久美子は言った。

「悪くない疲れ、ね」


 電車が来た。

 乗り込む時に、混んでいるわけでもないのに、誠一の腕の近くを久美子は歩いた。

 ぶつかりはしなかったが、近かった。

 誠一は気づいているのかいないのか、分からなかった。

 気づいていないとしたら、少し損だ、と久美子は思った。

 気づいているとしたら、照れているのだろう。

 どちらでも、今夜の久美子にはどうでもよかった。


 電車が動き出した。

 窓の外に、夜の街が流れた。

 久美子はその景色を見ながら、今夜の音をもう一度思い出した。

 最初の和音。

 右手が旋律を歌い始めた瞬間。

 中間部の、感情が前に出てくる場所。

 最後の音が消えた後の、あの静かな空気・・。

 全部、今夜の、一度きりのもの。

 明日からは、また「ただいま」と「おかえり」の毎日に戻る。

 夕飯を作って、洗い物をして、テレビを見て、寝る。

 変わらない毎日が待っている。

 でも・・今夜の音は、久美子の中に残る。

 誠一の手が弾いた音が、久美子の手を震わせた。

 震えた手のことを、久美子はたぶん、これからも覚えている。


「お母さん」と隣で麻央が言った。

「何ニヤニヤしてんの」

「ニヤニヤしてない」

「してるよ」

「してない」

「翔、お母さんニヤニヤしてるよね」

「見てない」と翔は言った。

「そういうのは見ない」

「賢い」と久美子は言った。

 麻央が笑った。

 翔も、少し笑った。


 誠一が、窓の外を見ていた。

 久美子はその横顔を、一秒だけ見た。

 それから、また窓の外の夜の景色に視線を戻した。

 電車が、家に向かって走った。

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