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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第二十六話 「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」

 Lento con gran espressione・・遅く、大いなる表情を持って。

 ショパンが夜想曲第二十番に書き残した演奏指示は、それだけだった。


 ホールの控え室は、小さかった。

 椅子が二脚と、小さな鏡台。

 それだけの部屋。

 誠一はその椅子の一つに座って、膝の上に封筒を置いていた。

 宮本が昨夜届けてくれた、先生の楽譜の入った封筒だ。


 開演は午後二時。

 あと十五分。

 廊下の向こうから、椅子を引く音が聞こえた。

 客席が埋まっていく音。

 誠一は椅子の音を数えていた。十、十一、十二・・途中でやめた。

 数えても意味がない。


 右手を、静かに動かした。

 夜想曲の冒頭を、空中で弾いた。

 音のない指の動き。

 指は迷わなかった。

 この一ヶ月間で、この曲の形が指に入っている。

 宮本のアパートで何十回と弾いた。

 白い楽譜に書き込みを入れながら弾いた。

 コンコースのグランドピアノで弾いた。

 テーブルの上で音のない練習を重ねた。

 指は、覚えている。


 封筒を開けた。

 先生の楽譜を取り出した。

 ページを繰って、先生の書き込みを目で追った。

「急ぐな」

「歌え」

「ここが核心」。

 それから・・「誠一へ。もう一度。」

 三十三年越しに届いた、先生の手紙。

 誠一はその一行を、しばらく見ていた。

 今朝も、昨夜も、この言葉を見た。

 何度見ても、まだ届いてくる気がする。

 先生がこの文字を書いた時の、静かな確信のようなものが、紙の向こうから伝わってくる。

 控え室のドアがノックされた。

「村上さん、そろそろです」


 ホールに入ると、先生の生徒たちや関係者が席を埋めていた。

 三十人ほどの小さな会場だ。

 正面にスタインウェイのグランドピアノがある。

 先週の土曜、下見で一度弾いた。

 今日も同じピアノが、ステージの中央に置かれている。


 客席の端の方に、家族がいた。

 久美子が、翔と麻央の間に座っている。

 翔はスーツ姿で、背筋が少し固い。

 麻央は深緑のワンピースで、手をひざの上で重ねている。

 久美子はコートを脱いで膝に置いて、前を見ていた。

 誠一は家族の方は見なかった。

 見たら、動けなくなる気がした。


 宮本が最前列に座っている。

 黒いカーディガンに、白いシャツ。

 今日は杖を持っていない。

 誠一と目が合った。

 宮本は何も言わなかった。

 ただ、静かに頷いた。

 誠一はステージに上がった。


 ピアノの前に立った。

 椅子の高さを、少し調整した。

 ペダルの位置を確かめた。

 右手の指を、鍵盤の上で一度広げた。

 譜面台に、先生の楽譜を置いた。

 開かなくていい。

 見なくていい。

 ただ、そこにあればいい・・宮本が言った通りに、置いた。


 会場が静かになった。

 椅子に座り、背筋を伸ばした。

 一九九三年の十月、誠一はこうして椅子に座った。

 先生の訃報を受けたまま、震える手でこうして座った。

 最初の和音を押した。

 十小節弾いた。そして、止まった。

 今日は・・止まらない。

 そう決めたわけではない。

 でもそういう感じがした。

 体の奥の、静かな確信として。


 先生の楽譜がそこにある。

「急ぐな」「歌え」という言葉がそこにある。

「誠一へ。もう一度。」という言葉がそこにある。

 誠一は息を吸った。

 それから・・弾いた。


 最初の和音が、ホールに広がった。

 嬰ハ短調。

 三つの音が重なって、空気が変わった。

 誠一には、そう聞こえた。

 ホールの空気の質が、一瞬で変わった。

 音が壁に当たって返ってくる。

 アップライトとは違う、グランドピアノの音の広がり。


 左手が繰り返しのパターンを刻んだ。

 右手が、旋律を歌い始めた。

「急ぐな」・・先生の字が頭の中で光った。

 誠一は急がなかった。

 この一ヶ月で一番ゆっくりと、一音ずつ、置くように弾いた。

 音が鳴って、その音が消えるまでの時間を、全部使った。


 三小節目。

 ここで三十三年前は・・右手が震えた。

 止まった。

 あの夜の自分の手の感触が、今も指の奥に残っている。

 でも今夜の手は、震えていなかった。

 ただ、動いていた。

 音が出ていた。

 止まらなかった。


 久美子は、最初の和音が鳴った瞬間に、気づいた。

 あ・・と思った。

 声には出さなかった。

 心の中で思った。

 この音だ・・。

 久美子がショパンを好きになったのは、大学の頃だ。

 誠一と付き合い始める前で、CDを何枚か買って一人で聴いていた。

 ショパンの音は、冬の夜に似ている、と思っていた。

 綺麗だが、少し寂しい。

 寂しいが、温かい。

 今、その音が、誠一の手から出ている。


 三十三年間、同じ家に住んで、この音を一度も聞かなかった。

 三十三年間、この人がこんな音を持っていることを、知らなかった。

 久美子の目が、熱くなった。

 こらえようとした。

 でもこらえられなかった。

 涙が一粒、頬を伝った。

 久美子は左手でそっとそれを拭いた。

 翔と麻央には、見えなかったと思う。

 見えていたとしても、今は誰も久美子を見ていない。

 みんな、ステージのピアノを見ている。


 五小節目。

 音楽が少し開いた。

 右手の旋律が、弧を描くように高くなった。

「歌え」・・先生の文字が聞こえた気がした。

 誠一は歌った。

 指で、歌った。

 音符を押すのではなく、声で歌うように、音を出した。

 弾きながら、誠一はある小節のことを思った。

 白い楽譜に自分で書いた言葉。

「このフレーズは久美子に似ている」。

 そのフレーズが来た。

 右手が、そのフレーズを弾いた。

 久美子に似ている・・と思いながら弾いた。

 どこが似ているのかを説明するのは難しいが、このフレーズを弾く時、いつも久美子のことが来る。

 落ち着いていて、でも深いところに何かを持っている。

 表に出さないが、そこにある。

 そういう音のフレーズ。


 翔は、音楽を聴きながら、父の背中を見ていた。

 父がピアノを弾く姿を、生で見るのは初めてだった。

 動画で何度も見たが、今日は違う。

 音が直接届く。

 空気を振動させて、音が来る。

 上手い、という言葉は頭に出てきたが、翔には上手いかどうかを判断できる耳がない。

 ただ、「止まっていない」という事実が、翔の胸の中に積み上がっていった。

 弾き続けている。

 止まらない。

 就活の書類に「尊敬する人物」の欄を空白にした夜のことを、翔は思い出した。

 書かない、という選択をした。

 まだ言葉が追いついていない、と思ったから。

 今夜、少しだけ言葉が追いついてきた気がした。

 翔は、気づいたら右手をひざの上で握っていた。

 強く握っていた。

 父の音が続く限り、握り続けた。


 曲が中間部に入った。

 ここから音楽が変わる。

 旋律が少し激しくなる。

 感情が前に出てくる。

 誠一が一番好きな部分。

 先生が「ここが核心」と書いた部分だ。

「ここが核心」。

 誠一の指が、その小節に差し掛かった。

 音が、変わった。

 同じ曲の続きだが、そこだけ空気が違う。

 旋律が押し寄せてくるような部分。

 感情が抑えられなくなって、前に出てくる部分。

 誠一は、この部分を弾く時はいつも、何か別のものが来る感じがした。

 音楽の中にいる感じがした。

 先生が「ここが核心」と書いた。

 核心・・誠一は弾きながら思った。

 この曲の核心は何か。

 三十三年間弾かなかったことか。

 今日また弾いていることか。

 先生が「もう一度」と書いたことか。

 それとも、もっと単純なことか。

 分からないまま、弾き続けた。

 分からないまま弾くことができる・・麻央が「分からんのに弾くの?大人はそういうことをするのか」と言った。

 そうだ、と誠一は思った。

 大人はそういうことをする。

 分からないままでいい。

 この音楽が何を言おうとしているのかを、全部分からなくても、弾くことはできる。


 麻央は、泣いていた。

 泣くつもりはなかった。

 緑のワンピースのために、化粧もしてきた。

 崩れたくなかった。

 なのに、泣いていた。

 スマートフォンはバッグの底に入れてある。

 取り出していない。

 動画は撮っていない。

 今日の音は、今日だけのものだ。

 お父さんが、弾いている。

 止まっていない。

 麻央は、あの動画が回ってきた夜のことを思い出した。

 誰が撮ったのかも分からない、後ろ姿の動画。

 でもあの動画があったから、今日がある気がした。

 あの夜、十九万回流れたから、誠一は「これが俺の音だ」と思えた部分があるかもしれない。

 麻央には分からない。

 あの夜、お父さんの音に出会えてよかった、と思った。

 涙が落ちた。

 麻央はそのまま落とした。

 拭かなかった。

 拭いたら次が来そうだったから。


 曲が、戻ってきた。

 中間部を抜けて、冒頭の旋律が戻ってくる。

 同じ旋律だが、中間部を経た後では、違う意味で聴こえる。

 誠一には、いつもそう感じる。

 最初に聴いた時と、中間部を経た後に戻ってきた時では、同じ音が違う重さを持っている。

 左手が繰り返しのパターンを刻んだ。

 右手が、旋律を戻した。

 最後に近い小節。

「急ぐな」・・誠一は急がなかった。

 この音が消えるまでの時間を使った。


 最後の和音が近づいてきた。

 誠一の指が、最後の音へ向かった。

「誠一へ。もう一度。」

 先生の声が聞こえた気がした。

 今聞こえた、今この瞬間に。

 控え室で見た文字が、音になった気がした。

 もう一度・・もう一度、弾けた。

 三十三年後に、弾けた。

 先生が信じていた通りに、弾けた。


 最後の音を、押した。

 音が、ホールに広がった。

 誠一は鍵盤の上に手を置いたまま、その音が消えていくのを聞いた。

 消えていく。

 消えていく。

 ・・消えた。

 ホールが、静かになった。

 誰も、すぐには声を出さなかった。

 三秒、五秒・・その沈黙が、誠一には最も美しい時間だった。

 音楽の余韻の中に、全員がいた。

 誠一も、客席の人々も、宮本も、久美子も、翔も、麻央も。

 その沈黙の中に、全員がいた。

 それから・・拍手が来た。

 静かな拍手だった。

 ホールが小さいから、大きな音ではない。

 でも全員の手から来ていた。

 誠一は椅子を引いて、立ち上がった。

 一礼した。


 客席が見えた。

 坂本が、目を赤くしていた。

 細井が、手を止めずに拍手していた。

 渡辺が、ゆっくり頷いていた。

 そして・・宮本が。

 宮本は最前列で、拍手をしていなかった。

 両手を膝の上に置いて、誠一を見ていた。

 その顔に、表情があった。

 いつもは「言うことがありません」と言う顔、何も言わない顔だったが・・今日は、表情があった。

 何と言うのかは分からない。

 でも確かに、表情があった。

 それで十分だ、と誠一は思った。


 家族の方を見た。

 久美子の目が赤かった。

 泣いたのだと分かった。

 久美子が泣くところを、誠一は長い結婚生活でほとんど見たことがない。

 でも今日は、目が赤かった。

 久美子は誠一を見て、何も言わなかった。

 でも、頷いた。

 ゆっくりと、一度だけ。

 その頷きの意味を、誠一はうまく言語化できなかった。

「よくやった」でも「感動した」でも「終わったね」でもない。

 もっと複雑で、でも単純な、何かだった。

 三十三年間この人の隣にいた誠一にも、ちゃんと届いた。


 翔は・・右手を膝の上でまだ握っていた。

 目が濡れていた。

 翔が泣くところを、誠一は生まれてから一度しか見たことがない。

 幼稚園の頃に転んで、泣いた。

 それ以来だった。

 翔は泣いていなかったが、目が濡れていた。

 誠一を見て、すぐ目を逸らした。


 麻央は・・泣いていた。

 拭かずに泣いていた。

 誠一と目が合うと、麻央が少し笑った。

 泣きながら笑った。

「弾いたじゃん」と、口が動いた気がした。

 声は聞こえなかったが、「弾いたじゃん」と言った。

 誠一は少し笑った。

 ステージから見る家族の顔が・・誠一にはそれが、三十三年間のどの景色よりも、はっきりと見えた。


 演奏会の後、ホワイエで宮本が誠一の隣に来た。

 誰かが写真を撮ろうと言っていた。

 記念に、という話をしていた。

 誠一は「ちょっと待ってください」と言って、宮本の横に立った。

「宮本さん」と誠一は言った。

「はい」

「先生に、聴こえましたか」

 宮本は少し黙った。

「分かりません」と宮本は言った。

「でも・・届いたと思います」

「どこに」

「あなたの中に」と宮本は言った。

「先生がずっと置いておきたかった場所に、今日届いた。それで十分だと思います」

 誠一は、その言葉を受け取った。


 久美子が隣に来た。

 麻央が翔の腕を引っ張って連れてきた。

 四人が並んだ。

 誰かがスマートフォンを構えた。

「はい、チーズ」という声がした。

 誠一は笑った。

 シャッターが切れた。

 その音が、ホワイエに小さく響いた。

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