第二十八話 「翌朝のこと、その後のこと」
翌朝、誠一は七時に目が覚めた。
昨日より一時間遅い。
本番が終わったせいか、体が緩んでいた。
布団の中で天井を見ながら、昨日のことを思い返した。
弾いた。
止まらなかった。
それだけで、しばらく十分だった。
他に何も思い返さなくていい。
弾いた。
止まらなかった。
先生の楽譜が譜面台にあった。
「誠一へ。もう一度。」の文字が、見えない場所から見えていた気がした。
翔が「かっこよかった」と言い、すぐ「いや、まあ、悪くなかったと思いますが」と言い直した。
久美子がホワイエで誠一の隣に来て、少し間があって、何も言わずにそのまま並んで立った。
麻央が「弾いたじゃん」と口を動かして、泣きながら笑った。
よかった、と思った。
どこがよかったのかという質問には答えにくいが、全部よかった。
誠一は布団を出た。
台所に行くと、麻央がすでに起きていた。
朝の七時に起きている麻央は珍しい。
スマートフォンを見ながら、立ったままコーンフレークを食べていた。
コーンフレークをスプーンで食べながらスマートフォンを見るのは行儀が悪いが、それは今に始まったことではない。
「早いな」と誠一は言った。
「うん」と麻央は言い、スマートフォンから目を離さなかった。
誠一はコーヒーメーカーのスイッチを入れ、冷蔵庫から牛乳を出した。
そこで麻央が言った。
「お父さん」
「ん」
「動画、上げた」
誠一は牛乳を持ったまま、止まった。
「上げた」と誠一は繰り返した。
「うん。昨日の夜」
「駄目だと言った」
「後ろ姿だから」と麻央は言い、スマートフォンを誠一に向けた。
「見て」
「撮ったのは私じゃないよ」と麻央は先回りして言った。
「私はちゃんと目で見てたから、一回も出してない。会場で記録用に撮っていた映像を、坂本さんが昨日の夜に送ってくれたの」
「坂本さんに連絡先を教えたとは言っていない」
「ホワイエで交換した。『ご家族にどうぞ』って言われたから、『家族に見せます』って答えた。その後のことは、まあ、事後報告で」と麻央は言い、画面を見せた。
画面には、動画の再生画面があった。
会場の椅子に座る後ろ姿の誠一、先生の楽譜が譜面台に置かれている。
ショパンが流れ始めていた。
タイトルは「【本番】あのコンコースのおじさん、ホールで弾いた(ショパン・夜想曲第20番)」と書かれていた。
再生数を見た。
「・・二万一千回」
「昨夜の十一時に上げたから、八時間くらいで」と麻央は言った。
「すごくない?」
すごいかどうかより、上げたことの方が問題だったが、誠一は動画を見た。
後ろ姿だ。
顔は映っていない。
ホールの音響のせいか、コンコースの時よりはっきりと音が聴こえる。
コメント欄がすでに流れていた。
「泣いた」
「これ誰?」
「ショパンの20番か、渋い選曲」
「一回目より音が深くなってる」
「お父さんかっこいい」
「お父さんかっこいい」
「お父さんかっこいい」
「お父さんかっこいい」が複数あった。
「・・三回も同じコメントがある」
「違う人が書いてるんだよ」と麻央は言い、コーンフレークを食べた。
「お父さん、コメント返しておいた方がいいと思う」
「俺のアカウントじゃないだろう」
「あたしのアカウントだけど」と麻央は言った。
「お父さんの代わりにコメント返してもいい?」
「勝手にしろ」と誠一は言い、コーヒーを注いだ。
麻央はすでに返信を書き始めていた。
この娘のスマートフォンを見たら、父親の演奏動画のコメント欄に「ありがとうございます!父も喜ぶと思います!」と書いてあるかもしれない。
世の中には想像以上のことが起きる。
九時頃に翔が起きてきた。
リビングに来て、麻央がスマートフォンをいじっているのを見て、「まだ昨日の動画見てんの」と言った。
「見てないし、コメント返してる」と麻央は言った。
「コメント返してんの」と翔は言い、自分もスマートフォンを出した。
動画を検索し始めた。
見ないと言っておきながら、探している。
「あった」と翔は言い、イヤホンを片耳に突っ込んで聴き始めた。
誠一はコーヒーを飲みながら、その様子を見ていた。
翔が椅子に座ったまま、静かに聴いていた。
時折、眉が少し動いた。
何か考えている顔だ。
「・・悪くない」と翔は言った。
「悪くない、か」と誠一は言った。
「昨日は直で聴いてたから、動画で聴くと違う感じがして」と翔は言った。
言い訳のように付け加えた。
「昨日の方が良かったです。動画は音が落ちるから」
これは褒めているのだと誠一は判断した。
翔の発言は構造が複雑で、最終的に何を言いたいのかを読み取る必要がある。
読み取れるようになるまで、二十四年かかった。
翔が動画を閉じてから、ふと言った。
「一昨日の夜、就活の書類に『尊敬する人物』って欄があって」
「ああ」
「空白にしました」と翔は言った。
誠一は翔を見た。
「まだ言葉が追いついてないので」と翔は言い、また少し目を逸らした。
「そのうち、書きます」
誠一は何も言わなかった。
言わなくていい、と思った。
久美子が起きてきたのは九時半だった。
久美子は週末の朝は遅い。
それは三十年間変わらない。
リビングに来て、麻央がコメント返しをしているのを見て、「何してんの」と言った。
「お父さんの動画のコメント返し」
「どんなコメント来てるの」
「お父さんかっこいい、が多い」
久美子は誠一を一度見た。
「そう」と久美子は言い、台所でお茶を入れ始めた。
「かっこいい、かどうかは置いといて」
「置いとくか」と誠一は言った。
「置いといていい」と久美子は言い、振り返らなかった。
麻央が小声で「かっこいいと思ってるくせに」と言った。
翔が「聞こえてるかもよ」と言った。
久美子は「聞こえてる」と言い、お茶を注いだ。
村上家のリビングには、久しぶりに、騒がしい朝があった。
誠一はコーヒーを飲みながら、その騒がしさを受け取った。
透明な男だった。
「いればいる」程度の存在で、家族のLINEグループに長い間入れてもらえなかった男だ。
今朝は、その男の動画のコメントを娘が返信し、息子が「悪くない」と言い、妻が「かっこいいかどうかは置いといて」と言っている。
置いといてもらって、構わない。
この朝が、今ここにある。
それで十分だ。
午前十一時、宮本から電話がかかってきた。
「村上さん」と宮本は言った。
「動画を拝見しました」
「・・宮本さんはスマートフォンで動画を見るんですか」
「孫が教えてくれました」と宮本は言った。
「私には孫が三人います。みんな動画を見るのが好きで、今朝、一番下の孫が『じいじ、この人知ってる?』と言って見せてきました。よく聴こえませんでしたが・・止まらなかったのは分かりました」
「止まりませんでした」
「昨日は・・よかったですよ」と宮本は言った。
間があった。
「先生も、聴いていたでしょう」
「そう思います」と誠一は言った。
「それで十分です」と宮本は言った。
「ところで・・村上さん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「これからどうされますか」と宮本は言った。
「ピアノを、また弾きますか」
誠一は少し考えた。
「まだ分かりません」と誠一は言った。
「でも・・弾かない、とは決めていません」
「それで十分です」と宮本は言い、また少し間を置いた。
「先生のピアノは、うちにあります。練習したくなったらいつでも来てください。条件は一つだけ」
「何ですか」
「クッキーを持ってきてください。千二百円の」と宮本は言った。
「パウンドケーキも美味しかったですが、やはりクッキーの方が好きです」
「歯はまだ丈夫ですか」
「丈夫です」と宮本は言い、笑った。
「まだまだ丈夫です」
誠一も笑った。
電話口で笑った。
「分かりました」と誠一は言った。
「必ず」
月曜日、会社に行くと田中が待ち構えていた。
朝のエレベーターを降りた瞬間に、田中が来た。
コーヒーを二つ持って。
「村上さん」と田中は言った。
「見ました」
「何を」
「動画を」と田中は言い、コーヒーを一つ渡した。
「土曜日から伸びてますよね。今朝の時点で四万二千回」
「四万か」
「ホールの方が音がいいですね」と田中は言った。
「やっぱり村上さんですよね」
誠一はコーヒーを受け取り、一口飲んだ。
「後ろ姿だ」と誠一は言った。
「分かりますよ、雰囲気が」と田中は言い、エレベーターのボタンを押した。
「すごかったですよ。コメント欄もすごいことになってて・・特に『お父さんかっこいい』が」
「知ってる」と誠一は言った。
「知ってるんですね」
「娘が毎朝報告してくる」と誠一は言い、エレベーターに乗った。
「じゃあ本当に村上さんだったんですね」と田中は言い、コーヒーを飲んだ。
「課長には言わない方がいいですよね」
「頼む」
「言いませんけど」と田中は言い、少し笑った。
「なんか・・よかったです。ちゃんと弾けて」
「なぜ田中が感慨を持つんだ」
「手土産の相談から関わってますから」と田中は言い、廊下を歩いた。
「パウンドケーキにしてよかったですよね。羊羹じゃなくて」
「・・そうかもしれない」と誠一は言った。
田中のなんとなく、は精度が高い。
いつか迷惑をかけるかもしれない、と誠一は思いながら、自分の席についた。
その週の木曜日、誠一は仕事帰りに駅ビルのコンコースを通った。
夜七時のコンコース。
帰宅客が流れている。
グランドピアノは、今夜は開放日だ。
誰かが弾いている。
誠一は少し遠くから、ピアノを眺めた。
弾いている人は、二十代くらいの女性だった。
クラシックではなく、ジャズだ。
軽やかな、即興のような演奏。
コンコースに合っている。
通り過ぎる人が何人か足を止めて聴いていた。
誠一は、足を止めなかった。
足を止めなかったが・・スマートフォンをポケットから出して、画面を開いた。
駅ビルの「夜のストリートピアノ」の開放スケジュールだ。
次の開放日は火曜日と木曜日。
申し込み不要。
誠一はページを閉じた。
もう一度開いた。
閉じた。
帰りの電車の中で、また開いた。
これは「申し込みをしようかどうか迷っている人間の動作」ではなく、「弾くつもりで開いているが、まだ意地を張っている人間の動作」だった。
五十五歳の男は、たまにそういうことをする。
家に帰ると、翔がリビングにいた。
就職活動の書類をテーブルに広げていた。
クリアファイルと、エントリーシートと、ボールペンが並んでいる。
「就活か」と誠一は言いながらジャケットを脱いだ。
「面接が来週あって」と翔は言い、顔を上げた。
「ちょっとだけ相談してもいいですか」
「ああ」と誠一は言い、ソファに座った。
翔が志望動機を読んだ。
誠一が聞いた。
翔が直した。
誠一がまた聞いた。
三回繰り返した。
「・・ありがとうございます」と翔は言い、ボールペンを置いた。
「頑張れ」と誠一は言った。
「はい」と翔は言い、少し間を置いてから言った。
「父さんも、また弾いてください」
「弾くかどうかはまだ分からん」
「いや、弾くでしょ」と翔は言い、書類をクリアファイルに戻した。
「電車の中で、あのページ三回開いてたじゃないですか」
「見ていたのか」
「電車で隣に乗ってたんで」
同じ電車だった。
誠一は気づいていなかった。
「・・言え」
「言わない方が面白かったので」と翔は言い、立ち上がった。
息子は、笑いをこらえながら部屋に戻っていった。
誠一はしばらく、翔が戻っていった廊下を見ていた。
翔の就活の相談に乗れた。
たった一時間の話だが、誠一にとって、それは初めてに近かった。
翔の進路について、こんなにちゃんと話したのは、初めてかもしれない。
「透明な父親」が、少しだけ実体になった夜だった。
その夜、誠一は机の前に座った。
先生の楽譜が、まだそこにある。
机の上に、置いたままにしてある。
「誠一へ。もう一度。」
もう一度、は済んだ。
でも「一度きり」とは書いていない。
先生は「もう一度」と書いた。
もう一度・・弾いた。
それで終わりか、続くかは、先生には決められない。
決めるのは誠一だ。
誠一はスマートフォンを出した。
「夜のストリートピアノ」のページを開いた。
次の開放日・・火曜日の夜七時。
誠一はページを閉じた。
閉じてから、また開いた。
「行く」と誠一は心の中で言った。
声に出して言うのは恥ずかしかったので、心の中で言った。
五十五歳の男が夜のコンコースで一人でショパンを弾く。
それが似合うかどうかは分からないが、「似合う」かどうかで弾くかどうかを決める時代は、どうやら終わったらしかった。
スマートフォンを置いた。
久美子が部屋に来た。
「まだ起きてるの」と久美子は言った。
「ちょっとな」
「何見てたの」
「駅ビルのピアノの開放日」
久美子は少し黙った。
誠一の机の上の楽譜を見た。
「誠一へ。もう一度。」という文字が、久美子にも見えただろうか。
それから誠一を見た。
「火曜日と木曜日だ」と誠一は言った。
「そう」と久美子は言った。
「翔、面接来週なんだって」
「聞いた」
「ご飯、早めにした方がいいかな」
「そうだな」と誠一は言った。
久美子は部屋を出た。
三十年一緒にいると、「また弾くつもりらしい」という話を、「ご飯の時間の話」の形でする。
それが久美子の言い方だ。
誠一には分かった。
そういうことが分かるのが、三十年という時間だ。
あの土曜の帰り道に、久美子と意識して隣を歩いたことを思い出した。
三十年ぶりに、そういう感じがした、と久美子が言っていたわけではない。
でも誠一には分かった。
そういうことが分かるのも、三十年という時間だ。
次の火曜日の夜、誠一は仕事帰りに駅ビルに寄った。
コンコースのグランドピアノは、すでに一人が弾いていた。
中学生くらいの男の子で、「ジュピター」を弾いていた。
ホルストの。
途中でつっかえたが、止まらずに最後まで弾いた。
なかなかのものだった。
男の子が立ち上がり、誠一と目が合った。
「どうぞ」と男の子は言った。
「ありがとう」と誠一は言い、椅子に座った。
椅子の高さを調整した。
鍵盤を一度見た。
カバンを足元に下ろした。
カバンの中に、先生の楽譜がある。
今日は封筒から取り出して、鞄の中に入れてきた。
今日は譜面台には置かない。
でも持ってきた。
誠一は鍵盤に手を置いた。
コンコースに、人が流れている。
足を止める人もいれば、通り過ぎる人もいる。
その全員に向けて弾くのではなく、ただ弾く。
聴きたい人が聴けばいい。
それだけだ。
最初の和音を、押した。
嬰ハ短調の夜が、十一月のコンコースにまた広がった。
後日、麻央が動画をもう一本上げた。
タイトルは「あのおじさん、コンコースでまた弾いた(本番のあと・2回目)」だった。
誠一には事後報告だった。
再生数は、最終的に最初の動画に迫る勢いになった。
コメント欄には「お父さんかっこいい」が今回も多数あった。
そして一件だけ、こういうコメントがあった。
「1回目より2回目の方が、音楽が自由になってる気がします」。
誠一はそのコメントを見て、少し考えた。
自由、という言葉が正しいかどうかは分からない。
でも「間違ってはいない」という気がした。
三十三年間、止まっていた。
止まっていたものが、また動き始めた。
それを「自由」と呼んでいいなら・・呼んでいいと思った。
翔の就職活動は、翌春に決まった。
電機メーカーの技術系職種だ。
翔が「決まりました」と言った夜、誠一は「よかったな」と言い、久美子は夕飯に唐揚げを作った。
麻央は「翔おめでとう」と言いながらその唐揚げを一番多く食べた。
翔は「麻央が食べすぎ」と言い、久美子が「全員食べすぎ」と言い、誠一は「うまいな」と言った。
村上家の夕飯は、少しにぎやかになった。
宮本清三の家には、その後も月に一度くらいの頻度で行くことになった。
千二百円のクッキーを持って。
宮本は毎回「歯はまだ丈夫です」と言い、クッキーを食べた。
先生のアップライトで弾き、宮本が短い言葉で言う。
「今のはいい」
「今のは揺れすぎた」
先生の言葉と、同じ形の言葉で。
ある夜、弾き終わった後に宮本が言った。
「村上さん、来年の春に発表会があります」
「発表会」
「私の教え子たちの」と宮本は言った。
「小学生から大人まで。毎年やっていますが・・今年はゲストを一人呼ぼうと思って」
「ゲスト」
「演奏時間は十五分くらいでどうですか」と宮本は言った。
あっさりと。
まるでコーヒーのおかわりを勧めるように。
十五分というのは夜想曲第二十番を三回弾ける時間だ。
「・・一曲しか弾けません」と誠一は言った。
「それでいいです」と宮本は言った。
「先生もそうでした。一曲を何度でも弾く人でしたから」
誠一はお茶を一口飲んだ。
渋い緑茶の香りがした。
「検討します」と誠一は言った。
「クッキーは千五百円のにしてください、その時は」と宮本は言い、少し笑った。
その夜、帰り道に誠一はスマートフォンを出した。
家族のLINEグループに、一言送った。
「来年の春に、発表会に出るかもしれない」
三分後に麻央から返信が来た。
「え!!行く!!動画撮っていい??」
十分後に翔から来た。
「行きます」
それだけだった。
翔らしかった。
久美子からは、三十分後に来た。
「ご飯、何にする?」
それが久美子の返信だった。
「分かった」という意味だった。
「行くよ」という意味だった。
そして「あなたのことを、続けて見ている」という意味だった。
誠一には全部分かった。
「唐揚げ」と誠一は送った。
「翔が食べ過ぎるでしょ」と久美子から来た。
誠一は少し笑いながら、歩いた。
十一月の夜の駅前に、街灯が灯っていた。
コンコースの向こうで、まだグランドピアノが鳴っているかもしれない。
誰かが弾いているかもしれない。
あるいは誰も弾いていないかもしれない。
どちらでもよかった。
ピアノはそこにある。
先生の楽譜は、カバンの中にある。
「誠一へ。もう一度。」
もう一度は、済んだ。
次のもう一度が、来年の春にある。
その次も、どこかにある。
それで十分だ。
誠一は駅への道を歩いた。
右手の指が、コートのポケットの中で、静かに動いた。
夜想曲の冒頭の和音。
音のない、十一月の夜の空気の中の和音。
でも・・鳴っている気がした。
(完)




