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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第二十八話 「翌朝のこと、その後のこと」

 翌朝、誠一は七時に目が覚めた。

 昨日より一時間遅い。

 本番が終わったせいか、体が緩んでいた。

 布団の中で天井を見ながら、昨日のことを思い返した。


 弾いた。

 止まらなかった。

 それだけで、しばらく十分だった。

 他に何も思い返さなくていい。

 弾いた。

 止まらなかった。

 先生の楽譜が譜面台にあった。

「誠一へ。もう一度。」の文字が、見えない場所から見えていた気がした。


 翔が「かっこよかった」と言い、すぐ「いや、まあ、悪くなかったと思いますが」と言い直した。

 久美子がホワイエで誠一の隣に来て、少し間があって、何も言わずにそのまま並んで立った。

 麻央が「弾いたじゃん」と口を動かして、泣きながら笑った。

 よかった、と思った。

 どこがよかったのかという質問には答えにくいが、全部よかった。

 誠一は布団を出た。


 台所に行くと、麻央がすでに起きていた。

 朝の七時に起きている麻央は珍しい。

 スマートフォンを見ながら、立ったままコーンフレークを食べていた。

 コーンフレークをスプーンで食べながらスマートフォンを見るのは行儀が悪いが、それは今に始まったことではない。


「早いな」と誠一は言った。

「うん」と麻央は言い、スマートフォンから目を離さなかった。

 誠一はコーヒーメーカーのスイッチを入れ、冷蔵庫から牛乳を出した。

 そこで麻央が言った。

「お父さん」

「ん」

「動画、上げた」

 誠一は牛乳を持ったまま、止まった。

「上げた」と誠一は繰り返した。

「うん。昨日の夜」

「駄目だと言った」

「後ろ姿だから」と麻央は言い、スマートフォンを誠一に向けた。

「見て」

「撮ったのは私じゃないよ」と麻央は先回りして言った。

「私はちゃんと目で見てたから、一回も出してない。会場で記録用に撮っていた映像を、坂本さんが昨日の夜に送ってくれたの」

「坂本さんに連絡先を教えたとは言っていない」

「ホワイエで交換した。『ご家族にどうぞ』って言われたから、『家族に見せます』って答えた。その後のことは、まあ、事後報告で」と麻央は言い、画面を見せた。


 画面には、動画の再生画面があった。

 会場の椅子に座る後ろ姿の誠一、先生の楽譜が譜面台に置かれている。

 ショパンが流れ始めていた。

 タイトルは「【本番】あのコンコースのおじさん、ホールで弾いた(ショパン・夜想曲第20番)」と書かれていた。

 再生数を見た。

「・・二万一千回」

「昨夜の十一時に上げたから、八時間くらいで」と麻央は言った。

「すごくない?」

 すごいかどうかより、上げたことの方が問題だったが、誠一は動画を見た。

 後ろ姿だ。

 顔は映っていない。

 ホールの音響のせいか、コンコースの時よりはっきりと音が聴こえる。


 コメント欄がすでに流れていた。

「泣いた」

「これ誰?」

「ショパンの20番か、渋い選曲」

「一回目より音が深くなってる」

「お父さんかっこいい」

「お父さんかっこいい」

「お父さんかっこいい」

「お父さんかっこいい」が複数あった。

「・・三回も同じコメントがある」

「違う人が書いてるんだよ」と麻央は言い、コーンフレークを食べた。

「お父さん、コメント返しておいた方がいいと思う」

「俺のアカウントじゃないだろう」

「あたしのアカウントだけど」と麻央は言った。

「お父さんの代わりにコメント返してもいい?」

「勝手にしろ」と誠一は言い、コーヒーを注いだ。

 麻央はすでに返信を書き始めていた。

 この娘のスマートフォンを見たら、父親の演奏動画のコメント欄に「ありがとうございます!父も喜ぶと思います!」と書いてあるかもしれない。

 世の中には想像以上のことが起きる。


 九時頃に翔が起きてきた。

 リビングに来て、麻央がスマートフォンをいじっているのを見て、「まだ昨日の動画見てんの」と言った。

「見てないし、コメント返してる」と麻央は言った。

「コメント返してんの」と翔は言い、自分もスマートフォンを出した。

 動画を検索し始めた。

 見ないと言っておきながら、探している。

「あった」と翔は言い、イヤホンを片耳に突っ込んで聴き始めた。

 誠一はコーヒーを飲みながら、その様子を見ていた。

 翔が椅子に座ったまま、静かに聴いていた。

 時折、眉が少し動いた。

 何か考えている顔だ。


「・・悪くない」と翔は言った。

「悪くない、か」と誠一は言った。

「昨日は直で聴いてたから、動画で聴くと違う感じがして」と翔は言った。

 言い訳のように付け加えた。

「昨日の方が良かったです。動画は音が落ちるから」

 これは褒めているのだと誠一は判断した。

 翔の発言は構造が複雑で、最終的に何を言いたいのかを読み取る必要がある。

 読み取れるようになるまで、二十四年かかった。


 翔が動画を閉じてから、ふと言った。

「一昨日の夜、就活の書類に『尊敬する人物』って欄があって」

「ああ」

「空白にしました」と翔は言った。

 誠一は翔を見た。

「まだ言葉が追いついてないので」と翔は言い、また少し目を逸らした。

「そのうち、書きます」

 誠一は何も言わなかった。

 言わなくていい、と思った。


 久美子が起きてきたのは九時半だった。

 久美子は週末の朝は遅い。

 それは三十年間変わらない。

 リビングに来て、麻央がコメント返しをしているのを見て、「何してんの」と言った。

「お父さんの動画のコメント返し」

「どんなコメント来てるの」

「お父さんかっこいい、が多い」

   久美子は誠一を一度見た。

「そう」と久美子は言い、台所でお茶を入れ始めた。

「かっこいい、かどうかは置いといて」

「置いとくか」と誠一は言った。

「置いといていい」と久美子は言い、振り返らなかった。

 麻央が小声で「かっこいいと思ってるくせに」と言った。

 翔が「聞こえてるかもよ」と言った。

 久美子は「聞こえてる」と言い、お茶を注いだ。


 村上家のリビングには、久しぶりに、騒がしい朝があった。

 誠一はコーヒーを飲みながら、その騒がしさを受け取った。

 透明な男だった。

「いればいる」程度の存在で、家族のLINEグループに長い間入れてもらえなかった男だ。

 今朝は、その男の動画のコメントを娘が返信し、息子が「悪くない」と言い、妻が「かっこいいかどうかは置いといて」と言っている。

 置いといてもらって、構わない。

 この朝が、今ここにある。

 それで十分だ。


 午前十一時、宮本から電話がかかってきた。

「村上さん」と宮本は言った。

「動画を拝見しました」

「・・宮本さんはスマートフォンで動画を見るんですか」

「孫が教えてくれました」と宮本は言った。

「私には孫が三人います。みんな動画を見るのが好きで、今朝、一番下の孫が『じいじ、この人知ってる?』と言って見せてきました。よく聴こえませんでしたが・・止まらなかったのは分かりました」

「止まりませんでした」

「昨日は・・よかったですよ」と宮本は言った。

 間があった。

「先生も、聴いていたでしょう」

「そう思います」と誠一は言った。

「それで十分です」と宮本は言った。

「ところで・・村上さん。一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「これからどうされますか」と宮本は言った。

「ピアノを、また弾きますか」

 誠一は少し考えた。

「まだ分かりません」と誠一は言った。

「でも・・弾かない、とは決めていません」

「それで十分です」と宮本は言い、また少し間を置いた。


「先生のピアノは、うちにあります。練習したくなったらいつでも来てください。条件は一つだけ」

「何ですか」

「クッキーを持ってきてください。千二百円の」と宮本は言った。

「パウンドケーキも美味しかったですが、やはりクッキーの方が好きです」

「歯はまだ丈夫ですか」

「丈夫です」と宮本は言い、笑った。

「まだまだ丈夫です」

 誠一も笑った。

 電話口で笑った。

「分かりました」と誠一は言った。

「必ず」


 月曜日、会社に行くと田中が待ち構えていた。

 朝のエレベーターを降りた瞬間に、田中が来た。

 コーヒーを二つ持って。

「村上さん」と田中は言った。

「見ました」

「何を」

「動画を」と田中は言い、コーヒーを一つ渡した。

「土曜日から伸びてますよね。今朝の時点で四万二千回」

「四万か」

「ホールの方が音がいいですね」と田中は言った。

「やっぱり村上さんですよね」

 誠一はコーヒーを受け取り、一口飲んだ。

「後ろ姿だ」と誠一は言った。

「分かりますよ、雰囲気が」と田中は言い、エレベーターのボタンを押した。

「すごかったですよ。コメント欄もすごいことになってて・・特に『お父さんかっこいい』が」

「知ってる」と誠一は言った。

「知ってるんですね」

「娘が毎朝報告してくる」と誠一は言い、エレベーターに乗った。

「じゃあ本当に村上さんだったんですね」と田中は言い、コーヒーを飲んだ。

「課長には言わない方がいいですよね」

「頼む」

「言いませんけど」と田中は言い、少し笑った。

「なんか・・よかったです。ちゃんと弾けて」

「なぜ田中が感慨を持つんだ」

「手土産の相談から関わってますから」と田中は言い、廊下を歩いた。

「パウンドケーキにしてよかったですよね。羊羹じゃなくて」

「・・そうかもしれない」と誠一は言った。

 田中のなんとなく、は精度が高い。

 いつか迷惑をかけるかもしれない、と誠一は思いながら、自分の席についた。


 その週の木曜日、誠一は仕事帰りに駅ビルのコンコースを通った。

 夜七時のコンコース。

 帰宅客が流れている。

 グランドピアノは、今夜は開放日だ。

 誰かが弾いている。

 誠一は少し遠くから、ピアノを眺めた。

 弾いている人は、二十代くらいの女性だった。

 クラシックではなく、ジャズだ。

 軽やかな、即興のような演奏。

 コンコースに合っている。

 通り過ぎる人が何人か足を止めて聴いていた。


 誠一は、足を止めなかった。

 足を止めなかったが・・スマートフォンをポケットから出して、画面を開いた。

 駅ビルの「夜のストリートピアノ」の開放スケジュールだ。

 次の開放日は火曜日と木曜日。

 申し込み不要。

 誠一はページを閉じた。

 もう一度開いた。

 閉じた。

 帰りの電車の中で、また開いた。

 これは「申し込みをしようかどうか迷っている人間の動作」ではなく、「弾くつもりで開いているが、まだ意地を張っている人間の動作」だった。

 五十五歳の男は、たまにそういうことをする。


 家に帰ると、翔がリビングにいた。

 就職活動の書類をテーブルに広げていた。

 クリアファイルと、エントリーシートと、ボールペンが並んでいる。

「就活か」と誠一は言いながらジャケットを脱いだ。

「面接が来週あって」と翔は言い、顔を上げた。

「ちょっとだけ相談してもいいですか」

「ああ」と誠一は言い、ソファに座った。

 翔が志望動機を読んだ。

 誠一が聞いた。

 翔が直した。

 誠一がまた聞いた。

 三回繰り返した。


「・・ありがとうございます」と翔は言い、ボールペンを置いた。

「頑張れ」と誠一は言った。

「はい」と翔は言い、少し間を置いてから言った。

「父さんも、また弾いてください」

「弾くかどうかはまだ分からん」

「いや、弾くでしょ」と翔は言い、書類をクリアファイルに戻した。

「電車の中で、あのページ三回開いてたじゃないですか」

「見ていたのか」

「電車で隣に乗ってたんで」

   同じ電車だった。

 誠一は気づいていなかった。

「・・言え」

「言わない方が面白かったので」と翔は言い、立ち上がった。

 息子は、笑いをこらえながら部屋に戻っていった。

 誠一はしばらく、翔が戻っていった廊下を見ていた。

 翔の就活の相談に乗れた。

 たった一時間の話だが、誠一にとって、それは初めてに近かった。

 翔の進路について、こんなにちゃんと話したのは、初めてかもしれない。

「透明な父親」が、少しだけ実体になった夜だった。


 その夜、誠一は机の前に座った。

 先生の楽譜が、まだそこにある。

 机の上に、置いたままにしてある。

「誠一へ。もう一度。」

 もう一度、は済んだ。

 でも「一度きり」とは書いていない。

 先生は「もう一度」と書いた。

 もう一度・・弾いた。

 それで終わりか、続くかは、先生には決められない。

 決めるのは誠一だ。


 誠一はスマートフォンを出した。

「夜のストリートピアノ」のページを開いた。

 次の開放日・・火曜日の夜七時。

 誠一はページを閉じた。

 閉じてから、また開いた。

「行く」と誠一は心の中で言った。

 声に出して言うのは恥ずかしかったので、心の中で言った。

 五十五歳の男が夜のコンコースで一人でショパンを弾く。

 それが似合うかどうかは分からないが、「似合う」かどうかで弾くかどうかを決める時代は、どうやら終わったらしかった。


 スマートフォンを置いた。

 久美子が部屋に来た。

「まだ起きてるの」と久美子は言った。

「ちょっとな」

「何見てたの」

「駅ビルのピアノの開放日」

 久美子は少し黙った。

 誠一の机の上の楽譜を見た。

「誠一へ。もう一度。」という文字が、久美子にも見えただろうか。

 それから誠一を見た。

「火曜日と木曜日だ」と誠一は言った。

「そう」と久美子は言った。

「翔、面接来週なんだって」

「聞いた」

「ご飯、早めにした方がいいかな」

「そうだな」と誠一は言った。


 久美子は部屋を出た。

 三十年一緒にいると、「また弾くつもりらしい」という話を、「ご飯の時間の話」の形でする。

 それが久美子の言い方だ。

 誠一には分かった。

 そういうことが分かるのが、三十年という時間だ。

 あの土曜の帰り道に、久美子と意識して隣を歩いたことを思い出した。

 三十年ぶりに、そういう感じがした、と久美子が言っていたわけではない。

 でも誠一には分かった。

 そういうことが分かるのも、三十年という時間だ。


 次の火曜日の夜、誠一は仕事帰りに駅ビルに寄った。

 コンコースのグランドピアノは、すでに一人が弾いていた。

 中学生くらいの男の子で、「ジュピター」を弾いていた。

 ホルストの。

 途中でつっかえたが、止まらずに最後まで弾いた。

 なかなかのものだった。

 男の子が立ち上がり、誠一と目が合った。

「どうぞ」と男の子は言った。

「ありがとう」と誠一は言い、椅子に座った。


 椅子の高さを調整した。

 鍵盤を一度見た。

 カバンを足元に下ろした。

 カバンの中に、先生の楽譜がある。

 今日は封筒から取り出して、鞄の中に入れてきた。

 今日は譜面台には置かない。

 でも持ってきた。


 誠一は鍵盤に手を置いた。

 コンコースに、人が流れている。

 足を止める人もいれば、通り過ぎる人もいる。

 その全員に向けて弾くのではなく、ただ弾く。

 聴きたい人が聴けばいい。

 それだけだ。

 最初の和音を、押した。

 嬰ハ短調の夜が、十一月のコンコースにまた広がった。


 後日、麻央が動画をもう一本上げた。

 タイトルは「あのおじさん、コンコースでまた弾いた(本番のあと・2回目)」だった。

 誠一には事後報告だった。

 再生数は、最終的に最初の動画に迫る勢いになった。

 コメント欄には「お父さんかっこいい」が今回も多数あった。

 そして一件だけ、こういうコメントがあった。

「1回目より2回目の方が、音楽が自由になってる気がします」。

 誠一はそのコメントを見て、少し考えた。

 自由、という言葉が正しいかどうかは分からない。

 でも「間違ってはいない」という気がした。

 三十三年間、止まっていた。

 止まっていたものが、また動き始めた。

 それを「自由」と呼んでいいなら・・呼んでいいと思った。


 翔の就職活動は、翌春に決まった。

 電機メーカーの技術系職種だ。

 翔が「決まりました」と言った夜、誠一は「よかったな」と言い、久美子は夕飯に唐揚げを作った。

 麻央は「翔おめでとう」と言いながらその唐揚げを一番多く食べた。

 翔は「麻央が食べすぎ」と言い、久美子が「全員食べすぎ」と言い、誠一は「うまいな」と言った。

 村上家の夕飯は、少しにぎやかになった。


 宮本清三の家には、その後も月に一度くらいの頻度で行くことになった。

 千二百円のクッキーを持って。

 宮本は毎回「歯はまだ丈夫です」と言い、クッキーを食べた。

 先生のアップライトで弾き、宮本が短い言葉で言う。

「今のはいい」

「今のは揺れすぎた」

 先生の言葉と、同じ形の言葉で。


 ある夜、弾き終わった後に宮本が言った。

「村上さん、来年の春に発表会があります」

「発表会」

「私の教え子たちの」と宮本は言った。

「小学生から大人まで。毎年やっていますが・・今年はゲストを一人呼ぼうと思って」

「ゲスト」

「演奏時間は十五分くらいでどうですか」と宮本は言った。

 あっさりと。

 まるでコーヒーのおかわりを勧めるように。


 十五分というのは夜想曲第二十番を三回弾ける時間だ。

「・・一曲しか弾けません」と誠一は言った。

「それでいいです」と宮本は言った。

「先生もそうでした。一曲を何度でも弾く人でしたから」

 誠一はお茶を一口飲んだ。

 渋い緑茶の香りがした。

「検討します」と誠一は言った。

「クッキーは千五百円のにしてください、その時は」と宮本は言い、少し笑った。


 その夜、帰り道に誠一はスマートフォンを出した。

 家族のLINEグループに、一言送った。

「来年の春に、発表会に出るかもしれない」

 三分後に麻央から返信が来た。

「え!!行く!!動画撮っていい??」

 十分後に翔から来た。

「行きます」

 それだけだった。

 翔らしかった。


 久美子からは、三十分後に来た。

「ご飯、何にする?」

 それが久美子の返信だった。

「分かった」という意味だった。

「行くよ」という意味だった。

 そして「あなたのことを、続けて見ている」という意味だった。

 誠一には全部分かった。

「唐揚げ」と誠一は送った。

「翔が食べ過ぎるでしょ」と久美子から来た。

 誠一は少し笑いながら、歩いた。


 十一月の夜の駅前に、街灯が灯っていた。

 コンコースの向こうで、まだグランドピアノが鳴っているかもしれない。

 誰かが弾いているかもしれない。

 あるいは誰も弾いていないかもしれない。

 どちらでもよかった。

 ピアノはそこにある。

 先生の楽譜は、カバンの中にある。

「誠一へ。もう一度。」

 もう一度は、済んだ。

 次のもう一度が、来年の春にある。

 その次も、どこかにある。

 それで十分だ。


 誠一は駅への道を歩いた。

 右手の指が、コートのポケットの中で、静かに動いた。

 夜想曲の冒頭の和音。

 音のない、十一月の夜の空気の中の和音。

 でも・・鳴っている気がした。


(完)

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