第二十四話 「翔の前夜」 ・・翔の視点
就職活動の書類は、三社分、机の上に積んである。
エントリーシート。
学生時代に力を入れたこと。自己PR。志望動機。
学生時代に力を入れたこと。自己PR。志望動機
・・また同じ設問が来る。
会社が変わっても設問はほとんど同じで、翔は三社分の「学生時代に力を入れたこと」を微妙に言い方を変えながら書いている。
本当に力を入れたことは一つしかないのに、三社分の答えが必要なのは少し奇妙だ、と思いながらも、そういうものだと受け入れている。
一番下の書類を取り出した。
ある会社の、最後の設問だった。
「あなたが尊敬する人物を、その理由とともにお書きください」
翔はしばらく、その設問を見ていた。
五分くらい、見ていた。
尊敬する人物。
明日、父さんが弾く。
翔が最初に「父さんはピアノが弾けた」と知ったのは、就活の情報収集でタイムラインを流していた夜だった。
フォロー外のアカウントがリポストした動画で、「駅ビルのコンコースで突然弾き出したおじさん、レベルが違いすぎる」と書いてあった。
誰かがスマートフォンで撮ったもので、後ろ姿の男がグランドピアノの前に座っている。
再生すると、ショパンのワルツが流れた。
横顔が映った瞬間、翔の手が止まった。
翔は最初、信じなかった。
正確には・・信じることの意味が分からなかった。
あの人が弾いている。
でも、あの人はあんな音が出るのか。そういう感覚だった。
二十四年間一緒に暮らした人間が、自分の知らない顔を持っていた。
それが事実として頭に入ってきても、感情がついてこなかった。
その後の家族会議があった。
リビングに全員が集まって、父さんが話した。
三十三年間言えなかったこと。
一九九三年の夜のこと。
先生が亡くなったこと。
ステージに立って十小節弾いて止まったこと。
翔はその話を聞きながら、父さんの顔を見ていた。
父さんは目を伏せて話した。
言葉が途切れることはなかった。
ゆっくりと、でも止まらずに話した。
翔が知っている父さんの顔・・会社に行って、帰ってきて、「ただいま」と言う顔・・とは、少し違う顔だった。
何が違うのか、うまく言えない。
でも、何かが違った。
翔が父さんと楽譜を眺めた夜のことを、翔はよく覚えている。
あれは確か、動画が広まってから少し後だった。
リビングに楽譜が出ていて、翔が「見てもいいですか」と言った。
言いながら、なぜ自分がそう言ったのか、自分でも少し不思議だった。
父さんが「どうぞ」と言って、二人で楽譜を眺めた。
「四分の三拍子ってどういう感じですか」と翔が聞いた。
楽譜の音符を数えながら聞いた。
父さんが少し考えてから言った。
「三歩歩いて、一回振り向くような感じだ」
その答えを聞いた時、翔は少し驚いた。
数字を使って説明されると思っていた。
「一小節に三つの拍が入る」とか「四分音符が三拍分ある」とか、そういう説明。
でも父さんは「三歩歩いて、一回振り向く」と言った。
翔にはその言い方が、妙にしっくりきた。
三歩歩いて、一回振り向く。
確かにそういうリズムがある気がした。
父さんは、そういう言い方ができる人だったのか、と思った。
それが、今まで知らなかった。
「尊敬する人物を、その理由とともにお書きください」
翔はもう一度、設問を読んだ。
就職活動の書類では、大抵「部活の先輩」や「起業した祖父」や「研究者の○○」といった名前が書かれる。
書き方のセオリーとして、「具体的なエピソードを交え、そこから自分が何を学んだかを書く」のが正解とされている。
就活対策の本にそう書いてあった。
翔はその本のことを思い出してから、設問の「尊敬する人物」の欄を見た。
父さんを書いてもいいのか、と思った。
父さんが「尊敬する人物」に当てはまるのかどうか。
就活の文脈での「尊敬する人物」というのは、多くの場合、その人の行動から自分が何かを「学んだ」という話につながる。
業績がある人。
決断力がある人。
困難を乗り越えた人。
父さんは・・乗り越えているのか。
まだ分からない。
明日が本番で、明日弾いて・・それが終わらないと分からない。
でも、と翔は思った。
乗り越えているかどうかは、もしかしたら関係ないのかもしれない。
翔が覚えているもう一つの場面がある。
父さんがリビングで、テーブルの上に楽譜を広げて、指だけを動かしていた夜だ。
ピアノがない家で、鍵盤もないのに、指だけで練習していた。
翔は廊下から覗いて、しばらく見ていた。
声をかけずに見ていた。
父さんは気づいていなかったと思う。
音がない。
ただ指が動いている。
テーブルの上で、誰にも聞こえない音を、父さんが弾いている。
その光景を見た時、翔の中で何かが変わった気がした。
うまく言えないが、「父さんはこういう人だったのか」という感覚ではなく、「こういう人だったのに、俺は知らなかった」という感覚。
知らなかったことへの・・後悔でも驚きでもなく、少し、申し訳なかった。
父さんの方が申し訳なかったかもしれないが、翔の方にも申し訳ない気持ちがあった。
二十四年間同じ家に住んで、見ていなかった。
透明な人だと思っていた。
でも透明じゃなかった。
透明に見えていただけで、ずっとそこにいた。
父さんが宮本さんのところに練習に行くようになった。
日曜の午後になると「行ってくる」と言ってコートを着て出かけた。
翔は毎週その背中を見ていた。
父さんの背中が、少しずつ変わっていった気がした。
正確に何がどう変わったのか、翔には言葉にできない。
姿勢が変わったわけでも、体型が変わったわけでもない。
でも「行ってくる」の言い方が、最初の頃と後半では少し違っていた。
最初の頃は「行ってくる」がどこか試しているような言い方だった。
後半になると「行ってくる」が当たり前になっていた。
帰宅した時の顔も違った。
疲れた顔をしているが、疲れ方が「仕事で疲れた顔」ではなかった。
翔にはその違いが分かった。
何で分かるのかは説明できないが、分かった。
今夜、父さんは九時過ぎに帰ってきた。
玄関で「ただいま」と言う声がして、翔は部屋のドアを少しだけ開けた。
父さんは薄い封筒を、カバンに入れずに胸の前で抱えるように持っていた。
出ていった時と、顔つきが少し違った。
何があったのかは、聞かなかった。
台所で母さんが「遅かったね」と言い、少しして、短い会話が聞こえた。
『先生の楽譜だ』
『そう。よかったね』・・それだけが、壁越しに届いた。
明日が本番の人間が、前の晩にあんな顔で帰ってくる。
翔は、その顔を覚えておこうと思った。
火曜の夜、父さんが「たぶん」と言った。
演奏会が大丈夫かどうか聞いたら、「大丈夫だ、たぶん」と言った。
「たぶん大丈夫で行って、弾いて、終わったら分かる」と翔が言ったら、父さんは「そうか」と言って翔の顔を見た。
就活の面接だって同じです、と翔は言った。
言いながら、自分のことを重ねていたと思う。
翔自身も今、「行ってみないと分からない」ことの連続だ。
書類を出して、面接に行って、落ちて、また書く。
結果が出ないまま進んでいく。
「たぶん大丈夫」で動くしかない時期が続いている。
父さんも、そういう夜にいる。
同じ夜にいる、と翔は思った。
「尊敬する人物を、その理由とともにお書きください」
翔は鉛筆を持って、空白の欄を見た。
書こうとした。
「父」と書こうとした。
でも、止まった。
何を書けばいいのか、分からなかった。
「父は三十三年間ピアノを弾かなかったが、今年、また弾くことにした」・・それは事実だが、就活の答えとしては変だ。
「三十三年後に行動を起こした父から、○○を学びました」・・何を学んだ、と書けばいいのか。
分からなかった。
分からないのは、まだ終わっていないからかもしれない。
明日が本番で、まだ弾いていない。
弾いて、どうなるかを、翔はまだ知らない。
知らないうちに「尊敬する理由」を書くのは、早い気がした。
翔は鉛筆を置いた。
止まらないでほしい・・と思う。
でも、止まってもいい、とも思う。
どちらが本心か、翔には分からなかった。
両方が本心だった。
止まらないでほしい。
できれば最後まで弾いてほしい。
でも、もし止まったとしても・・三十三年前に止まった父さんが、三十三年後にもう一度立ったことは、変わらない。
そのことを、翔はどこかで知っていた。
止まることより、立つことの方が、先にある・・そういう感覚が、翔にはあった。
うまく言えないが、ある。
父さんの背中を見ながら、この数ヶ月でそういう感覚が育った。
翔は長い時間、「尊敬する人物」の欄を見ていた。
書かなかった。
書けなかった、ではない。
書かない、という選択をした。
書くことは、確定することだ。
「私は○○を尊敬しています、なぜなら〜」と書いた瞬間に、その人物への尊敬が言葉に固定される。
でも翔にとって父さんへの気持ちは、まだ固定されていない。
固定したくない。
明日が終わって、父さんが弾いて、その後でゆっくり言葉を探したい。
空白のままにした。
それが翔なりの答えだった。
「書かない」は「尊敬していない」ではない。
むしろ逆だ。
まだ言葉が追いついていない、ということだ。
言葉が追いつく前に書いてしまうと、嘘になる気がした。
翔はクリアファイルに書類を入れながら、時計を見た。
夜の十一時を過ぎていた。
部屋が静かだった。
廊下の向こうに、父さんと母さんが眠っている。
翔には、隣の部屋から父さんの寝息が聞こえる気がした。
聞こえるはずはないが、気がした。
明日、父さんが弾く。
止まらないでほしい。でも、止まってもいい。
そのどちらでも・・翔は、ちゃんと見ている。
部屋の電気を消した。
暗がりの中に、机の上の「尊敬する人物」の空白が、しばらく残っている気がした。




