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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第二十四話 「翔の前夜」 ・・翔の視点

 就職活動の書類は、三社分、机の上に積んである。

 エントリーシート。

 学生時代に力を入れたこと。自己PR。志望動機。

 学生時代に力を入れたこと。自己PR。志望動機

 ・・また同じ設問が来る。

 会社が変わっても設問はほとんど同じで、翔は三社分の「学生時代に力を入れたこと」を微妙に言い方を変えながら書いている。

 本当に力を入れたことは一つしかないのに、三社分の答えが必要なのは少し奇妙だ、と思いながらも、そういうものだと受け入れている。


 一番下の書類を取り出した。

 ある会社の、最後の設問だった。

「あなたが尊敬する人物を、その理由とともにお書きください」

 翔はしばらく、その設問を見ていた。

 五分くらい、見ていた。

 尊敬する人物。

 明日、父さんが弾く。


 翔が最初に「父さんはピアノが弾けた」と知ったのは、就活の情報収集でタイムラインを流していた夜だった。

 フォロー外のアカウントがリポストした動画で、「駅ビルのコンコースで突然弾き出したおじさん、レベルが違いすぎる」と書いてあった。

 誰かがスマートフォンで撮ったもので、後ろ姿の男がグランドピアノの前に座っている。

 再生すると、ショパンのワルツが流れた。

 横顔が映った瞬間、翔の手が止まった。

 翔は最初、信じなかった。

 正確には・・信じることの意味が分からなかった。

 あの人が弾いている。

 でも、あの人はあんな音が出るのか。そういう感覚だった。

 二十四年間一緒に暮らした人間が、自分の知らない顔を持っていた。

 それが事実として頭に入ってきても、感情がついてこなかった。


 その後の家族会議があった。

 リビングに全員が集まって、父さんが話した。

 三十三年間言えなかったこと。

 一九九三年の夜のこと。

 先生が亡くなったこと。

 ステージに立って十小節弾いて止まったこと。

 翔はその話を聞きながら、父さんの顔を見ていた。


 父さんは目を伏せて話した。

 言葉が途切れることはなかった。

 ゆっくりと、でも止まらずに話した。

 翔が知っている父さんの顔・・会社に行って、帰ってきて、「ただいま」と言う顔・・とは、少し違う顔だった。

 何が違うのか、うまく言えない。

 でも、何かが違った。


 翔が父さんと楽譜を眺めた夜のことを、翔はよく覚えている。

 あれは確か、動画が広まってから少し後だった。

 リビングに楽譜が出ていて、翔が「見てもいいですか」と言った。

 言いながら、なぜ自分がそう言ったのか、自分でも少し不思議だった。

 父さんが「どうぞ」と言って、二人で楽譜を眺めた。

「四分の三拍子ってどういう感じですか」と翔が聞いた。

 楽譜の音符を数えながら聞いた。

 父さんが少し考えてから言った。

「三歩歩いて、一回振り向くような感じだ」

 その答えを聞いた時、翔は少し驚いた。

 数字を使って説明されると思っていた。

「一小節に三つの拍が入る」とか「四分音符が三拍分ある」とか、そういう説明。

 でも父さんは「三歩歩いて、一回振り向く」と言った。

 翔にはその言い方が、妙にしっくりきた。

 三歩歩いて、一回振り向く。

 確かにそういうリズムがある気がした。

 父さんは、そういう言い方ができる人だったのか、と思った。

 それが、今まで知らなかった。


「尊敬する人物を、その理由とともにお書きください」

 翔はもう一度、設問を読んだ。

 就職活動の書類では、大抵「部活の先輩」や「起業した祖父」や「研究者の○○」といった名前が書かれる。

 書き方のセオリーとして、「具体的なエピソードを交え、そこから自分が何を学んだかを書く」のが正解とされている。

 就活対策の本にそう書いてあった。

 翔はその本のことを思い出してから、設問の「尊敬する人物」の欄を見た。

 父さんを書いてもいいのか、と思った。


 父さんが「尊敬する人物」に当てはまるのかどうか。

 就活の文脈での「尊敬する人物」というのは、多くの場合、その人の行動から自分が何かを「学んだ」という話につながる。

 業績がある人。

 決断力がある人。

 困難を乗り越えた人。

 父さんは・・乗り越えているのか。

 まだ分からない。

 明日が本番で、明日弾いて・・それが終わらないと分からない。

 でも、と翔は思った。

 乗り越えているかどうかは、もしかしたら関係ないのかもしれない。


 翔が覚えているもう一つの場面がある。

 父さんがリビングで、テーブルの上に楽譜を広げて、指だけを動かしていた夜だ。

 ピアノがない家で、鍵盤もないのに、指だけで練習していた。

 翔は廊下から覗いて、しばらく見ていた。

 声をかけずに見ていた。

 父さんは気づいていなかったと思う。


 音がない。

 ただ指が動いている。

 テーブルの上で、誰にも聞こえない音を、父さんが弾いている。

 その光景を見た時、翔の中で何かが変わった気がした。

 うまく言えないが、「父さんはこういう人だったのか」という感覚ではなく、「こういう人だったのに、俺は知らなかった」という感覚。

 知らなかったことへの・・後悔でも驚きでもなく、少し、申し訳なかった。

 父さんの方が申し訳なかったかもしれないが、翔の方にも申し訳ない気持ちがあった。

 二十四年間同じ家に住んで、見ていなかった。

 透明な人だと思っていた。

 でも透明じゃなかった。

 透明に見えていただけで、ずっとそこにいた。


 父さんが宮本さんのところに練習に行くようになった。

 日曜の午後になると「行ってくる」と言ってコートを着て出かけた。

 翔は毎週その背中を見ていた。

 父さんの背中が、少しずつ変わっていった気がした。

 正確に何がどう変わったのか、翔には言葉にできない。

 姿勢が変わったわけでも、体型が変わったわけでもない。

 でも「行ってくる」の言い方が、最初の頃と後半では少し違っていた。

 最初の頃は「行ってくる」がどこか試しているような言い方だった。

 後半になると「行ってくる」が当たり前になっていた。

 帰宅した時の顔も違った。

 疲れた顔をしているが、疲れ方が「仕事で疲れた顔」ではなかった。


 翔にはその違いが分かった。

 何で分かるのかは説明できないが、分かった。

 今夜、父さんは九時過ぎに帰ってきた。

 玄関で「ただいま」と言う声がして、翔は部屋のドアを少しだけ開けた。

 父さんは薄い封筒を、カバンに入れずに胸の前で抱えるように持っていた。

 出ていった時と、顔つきが少し違った。

 何があったのかは、聞かなかった。

 台所で母さんが「遅かったね」と言い、少しして、短い会話が聞こえた。

『先生の楽譜だ』

『そう。よかったね』・・それだけが、壁越しに届いた。

 明日が本番の人間が、前の晩にあんな顔で帰ってくる。

 翔は、その顔を覚えておこうと思った。


 火曜の夜、父さんが「たぶん」と言った。

 演奏会が大丈夫かどうか聞いたら、「大丈夫だ、たぶん」と言った。

「たぶん大丈夫で行って、弾いて、終わったら分かる」と翔が言ったら、父さんは「そうか」と言って翔の顔を見た。

 就活の面接だって同じです、と翔は言った。

 言いながら、自分のことを重ねていたと思う。

 翔自身も今、「行ってみないと分からない」ことの連続だ。

 書類を出して、面接に行って、落ちて、また書く。

 結果が出ないまま進んでいく。

「たぶん大丈夫」で動くしかない時期が続いている。

 父さんも、そういう夜にいる。

 同じ夜にいる、と翔は思った。


「尊敬する人物を、その理由とともにお書きください」

 翔は鉛筆を持って、空白の欄を見た。

 書こうとした。

「父」と書こうとした。

 でも、止まった。

 何を書けばいいのか、分からなかった。

「父は三十三年間ピアノを弾かなかったが、今年、また弾くことにした」・・それは事実だが、就活の答えとしては変だ。

「三十三年後に行動を起こした父から、○○を学びました」・・何を学んだ、と書けばいいのか。

 分からなかった。

 分からないのは、まだ終わっていないからかもしれない。

 明日が本番で、まだ弾いていない。

 弾いて、どうなるかを、翔はまだ知らない。

 知らないうちに「尊敬する理由」を書くのは、早い気がした。


 翔は鉛筆を置いた。

 止まらないでほしい・・と思う。

 でも、止まってもいい、とも思う。

 どちらが本心か、翔には分からなかった。

 両方が本心だった。

 止まらないでほしい。

 できれば最後まで弾いてほしい。

 でも、もし止まったとしても・・三十三年前に止まった父さんが、三十三年後にもう一度立ったことは、変わらない。

 そのことを、翔はどこかで知っていた。

 止まることより、立つことの方が、先にある・・そういう感覚が、翔にはあった。

 うまく言えないが、ある。

 父さんの背中を見ながら、この数ヶ月でそういう感覚が育った。


 翔は長い時間、「尊敬する人物」の欄を見ていた。

 書かなかった。

 書けなかった、ではない。

 書かない、という選択をした。

 書くことは、確定することだ。

「私は○○を尊敬しています、なぜなら〜」と書いた瞬間に、その人物への尊敬が言葉に固定される。

 でも翔にとって父さんへの気持ちは、まだ固定されていない。

 固定したくない。

 明日が終わって、父さんが弾いて、その後でゆっくり言葉を探したい。


 空白のままにした。

 それが翔なりの答えだった。

「書かない」は「尊敬していない」ではない。

 むしろ逆だ。

 まだ言葉が追いついていない、ということだ。

 言葉が追いつく前に書いてしまうと、嘘になる気がした。


 翔はクリアファイルに書類を入れながら、時計を見た。

 夜の十一時を過ぎていた。

 部屋が静かだった。

 廊下の向こうに、父さんと母さんが眠っている。

 翔には、隣の部屋から父さんの寝息が聞こえる気がした。

 聞こえるはずはないが、気がした。


 明日、父さんが弾く。

 止まらないでほしい。でも、止まってもいい。

 そのどちらでも・・翔は、ちゃんと見ている。

 部屋の電気を消した。

 暗がりの中に、机の上の「尊敬する人物」の空白が、しばらく残っている気がした。

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