第二十三話 「震える手」
本番の前日・・金曜日の夜、誠一はまず押し入れを開けた。
そこに、楽譜がある。
部屋の押し入れの、最上段の奥に、透明なビニール袋に入れて保管してある。
三十三年間、一度も出したことがなかった。
ビニール袋を取り出して、座卓の上に置いた。
袋を開けると、紙の古い匂いがした。
古いが、カビの匂いではない。
誠一が学生の頃に集めた楽譜の束だ。
ショパンのワルツ集、ベートーヴェンのソナタ、バッハのインヴェンション・・それから、一番下に、ショパンの夜想曲全集があった。
三十三年ぶりに手に取った。
ページを繰った。
古い版で、紙が少し黄ばんでいる。
学生の頃の自分の書き込みがある。
赤鉛筆で、「ここ注意」「テンポ落とす」「右手先行」と書いてある。
二十一歳の誠一が書いた言葉だ。
その字を見ると、当時の自分の声が聞こえる気がした。
急いでいた。
うまくなりたかった。
先生に認めてもらいたかった。
その焦りが、赤鉛筆の圧の強さに残っている。
第二十番のページを開いた。
書き込みが一番多いページだった。
至る所に矢印がある。
「もっとゆっくり」「息を入れる」・・そして一か所、「先生が言った通りに」という書き込みがある。
先生が何を言ったのかは、もう覚えていない。
でも「先生が言った通りに」と書いた瞬間の、あの時の自分の感情は、少しだけ伝わってくる。
先生の言葉を信じて、信じることを自分に言い聞かせていた。
そういう頃があった。
誠一は楽譜を閉じた。
明日、この楽譜は使わない。
宮本のアパートで練習を重ねた白い楽譜がある。
今夜はただ、この古い楽譜に会いに来た。
三十三年前の自分に、会いに来た。
夜七時過ぎ、誠一はコンコースに着いた。
演奏会の会場へは宮本と一緒に明日の昼前に向かう。
今夜は、コンコースのグランドピアノの前に一度来たかった。
弾くためではなく・・ここに来たかった。
全ての始まりの場所に。
金曜日のコンコースは帰宅客でにぎわっている。
スーツ姿の人間が足早に通り過ぎる。
大きな買い物袋を提げた人が通り過ぎる。
誠一もその流れの中に入って、ピアノの前に来た。
蓋が、少し開いていた。
閉め忘れか。
スタッフに言うべきか・・と一瞬思ったが、誠一は椅子に座った。
弾くつもりはなかった。
ただ椅子に座って、鍵盤の白さを確かめるだけでいい。
この感触が、明日もあるかどうか・・そう思って座った。
でも、手が、自然に鍵盤に向かった。
最初の和音を、静かに押した。
音が出た。
コンコースに、夜想曲の最初の一音が広がった。
誰かが振り返った。
でも誠一は手を止めなかった。
続きを弾いた。
旋律が進んだ。
三小節目で・・気づいた。
右手が、震えていた。
最初は気のせいだと思った。
でも違った。
明らかに、震えていた。
指先から来る微細な振れではなく、手全体が小刻みに揺れている。
腕の力で抑えようとした。
抑えようとすると、肩が固まった。
肩が固まると、指が動かなくなった。
誠一は手を鍵盤から離した。
ひざの上で、手を握った。
震えていた。
三十三年前・・あの夜と、同じだった。
楽屋で「弾きます」と言ってステージに向かった時、こんな手をしていた。
先生の訃報が楽屋に届いた夜。
それでも弾くと言った。
ステージに出た。
最初の和音を押した。
そこまでは弾けた。
でも、指が止まった。
止まった・・という記憶が、手に戻ってきた。
誠一は立ち上がり、近くのベンチに座った。
コンコースの人の流れが続いている。
誰も誠一を見ていない。
帰宅する人々にとって、ベンチに座った五十五歳の男は景色の一部だ。
今は、見られたくなかった。
手を見た。
震えは少し収まっていた。
でも、確かに震えた。
明日・・本番は明日だ。
こんな手をしていたらどうするのか。
止まるのか。
また止まるのか。
演奏会の会場で、家族の前で、宮本の前で、先生を知る人たちの前で、三十三年経っても止まるのか・・。
誠一は目を閉じた。
あの夜のステージが見えた気がした。
黒いピアノ、客席の白い顔、誠一の指が止まった瞬間の、あの沈黙。
「村上さん」
声がした。
誠一は目を開けた。
宮本清三が、立っていた。
黒いコートに、今日は杖を持っている。
コンコースの照明の下で、小柄な老人が誠一を見ていた。
「宮本さん」と誠一は言った。
「なぜここに」
「ここに来ると思っていました」と宮本は言い、ベンチの横に来て、ゆっくり腰を下ろした。
「前日に確かめに来る・・先生もそういう方でしたから」
誠一は何も言えなかった。
「手が震えましたか」と宮本は言った。
「・・分かりますか」
「ピアノの前から離れてベンチに来ていますから」と宮本は言った。
「理由はひとつでしょう」
誠一は手を見た。
今はもう震えていない。
でも先ほどの感触は残っている。
「あの夜と同じだと思いましたか」と宮本は言った。
「・・そう思いました」
「手が震える、ということは」と宮本は言い、杖を両手の前に立てた。
「体が正直なだけです。怖い、と体が言っている。怖くなければ、震えません」
「怖くてはいけないんじゃないですか」
「いけないことはないですよ」と宮本は言った。
あっさりと。
「先生も、あのリサイタルの前は震えておられた。舞台に出るたびに、必ず震えると言っておられました。震えなくなったら舞台に立つのをやめる、とも言っていた」
「先生が震えていた」
誠一は、その言葉を少しの間、受け取った。
先生は・・震えていた。
何十年舞台に立っても、震えていた。
それでも弾いた。
誠一は先生の前ではいつも平然としているつもりだった。
でも先生の方も、震えながら出ていたのかもしれない。
誠一が知らなかっただけで。
「ただ先生は」と宮本は続けた。
「怖い、と体が言っている時が、一番よく弾ける、とおっしゃっていました」
誠一はその言葉を、ゆっくり受け取った。
一番よく弾ける・・怖い時が。
震えている時が。
それは矛盾に聞こえるが、矛盾ではないかもしれない。
体が正直になっている時が、音も正直になる。
怖さを抑えて弾くのではなく、怖さごと弾く・・先生はそういうことを言っていたのかもしれない。
コンコースに、夜の放送が流れた。
閉店の案内だ。
ピアノの蓋が、スタッフによって閉められていく。
八時を過ぎていた。
「村上さん」と宮本は言った。
「実は今夜、お渡ししたいものがあってここに来ました」
誠一は宮本を見た。
「先生のことで」と宮本は続けた。
「前にお話しした時、先生の言葉をいくつかお伝えしました。ただ・・もう一つ、伝えていないことがあります」
「もう一つ」
「これも先生の奥様から聞いたことです。先生が亡くなった後、遺品を整理しておられた時・・先生のピアノの楽譜棚に、一冊の楽譜が別にしてありました。他のものとは違う場所に、一冊だけ置かれていた」
宮本がコートのポケットから、薄い封筒を取り出した。
A4よりひと回り小さい、古い封筒。
「奥様がその楽譜を見ると、先生の手書きで書き込みがされていました。演奏のメモ・・テンポの指示、音の強弱、呼吸の場所・・そういうものが、細かく書き込まれていた。そして表紙の裏に、一言書いてあった」
宮本が封筒を誠一に差し出した。
「奥様は私におっしゃいました。『先生がこう書いていました』と」
誠一は封筒を受け取った。
手が少し、震えていた。
「『夜想曲第二十番を、誠一に渡してやれ』」
誠一は封筒を開けた。
中に、楽譜があった。
古い楽譜だった。
版の古いショパン全集からだろう、ページが少し黄ばんでいる。
でも丁寧に扱われてきた楽譜だった。
折れ目がない。
破れもない。
開くと・・書き込みがあった。
鉛筆で。
細い、几帳面な字で。
テンポの指示が赤で入っている。
弓形の呼吸記号。
「ここで間を取れ」という書き込み。
「歌え」という一言。
「急ぐな」。
「ここが核心」。
誠一はページをめくった。
書き込みは最後まである。
三十年以上前に書かれたものだろうが、鉛筆の跡はくっきりと残っていた。
先生がこの楽譜を見ながら、誠一の演奏を思って書いた・・そう考えると、紙の重さが変わった気がした。
この書き込みを、誠一は受け取れなかった。
先生は書いたが、渡せなかった。
渡す前に、先生は逝った。
それから三十三年間、この楽譜は先生の楽譜棚にあった。
先生の奥様が大切に持っていた。
宮本が預かった。
そして今夜、ここに届いた。
表紙の裏を開いた。
古賀義明・・先生の名前が印刷されている版元のシールの横に、万年筆で一行書かれていた。
「誠一へ。もう一度。」
それだけだった。
誠一の目が、熱くなった。
「誠一へ。もう一度。」
三十三年間、誠一は先生を裏切ったと思っていた。
止まってしまったから。
約束を守れなかったから。
だから弾いてはいけないと思っていた。
三十三年間、そう思ってきた。
でも先生は・・「もう一度」と書いていた。
「もう一度弾きなさい」。
実技審査の日から、先生が何度も口にした言葉だった。
うまくいかなかった時も、うまくいった時も、先生は褒める代わりにそう言った。
もう一度。
その言葉が、この楽譜の表紙の裏に、万年筆で残されていた。
先生は、あの夜のことを知らないままこれを書いたのだ。
止まる未来を知らずに・・ただ、この曲を弾く誠一の姿を、これから先に待って。
「もう一度」は、止まった者への慰めではなかった。
先生がいつも言っていた、先へ進めという言葉だった。
三十三年かかって、それが違う意味で届いた。
誠一は先生を失望させたと思っていたが・・先生は、誠一がいつかこの曲を弾く日を、待っていた。
宮本が「言うことがありません」と言った先週の土曜の夜が、ずいぶん昔のことのように感じた。
でも、まだ六日前だ。
この一週間で、誠一の中にあった三十三年分の凝りが、少しずつほどけていった。
先生の言葉が、一つ一つ届いた。
今夜、最後の一つが届いた。
「三十三年かかりましたね」と誠一は言った。
声が少し揺れた。
「先生の手紙は、届くのが遅い」と宮本は言い、少し笑った。
「でも、必ず届く」
コンコースの照明がまた少し落ちた。
閉店が近い。
「明日」と宮本は言った。
「その楽譜を、譜面台に置いてください」
「曲は暗譜しています」
「見なくていい」と宮本は言った。
「ただ、そこにあればいい。先生がそこにいる、ということです」
誠一は楽譜を封筒に戻した。
手は、震えていなかった。
宮本と別れて、誠一は駅のホームに向かった。
封筒を持っていた。
カバンに入れればいいのに、手に持ったまま歩いた。
ホームのベンチに座った。
電車を待った。
「誠一へ。もう一度。」
三十三年前の先生が、今夜の誠一に届けた言葉。
先生が「もう一度」と書いたということは・・先生は、誠一がこの曲を弾く日を、最初から信じていた、ということだ。
信じていなければ、書かない。
「もう一度」は、止まった夜の後ではなく、止まる前に書かれた言葉だった。
それが三十三年後、違う意味を持って届いた。
その言葉の重さを、誠一は今夜、初めてちゃんと受け取った気がした。
電車が来た。
誠一は立ち上がり、乗った。
封筒を、胸のあたりで少し抱えるようにして持っていた。
自分でも気づいていなかったが、そうしていた。
家に帰ると、久美子が台所にいた。
「遅かったね」と久美子は言った。
「ちゃんとご飯食べた?」
「駅で何か食べた」
「何を」
「立ち食いそば」
「明日本番なのに」と久美子は言い、何か言いかけてやめた。
立ち食いそばがどうした、という言葉を飲み込んだのだろう。
久美子はたまに言いかけてやめる。
そのたびに誠一は、この人は言葉をちゃんと使う人だ、と思う。
誠一は封筒をテーブルに置いた。
「これは」と久美子は言った。
「先生の楽譜だ」と誠一は言った。
「先生が、俺のために書き込みを入れてくれていたものだ。宮本さんが届けてくれた。『誠一へ。もう一度。』と書いてあった」
久美子は封筒を見た。
手には取らなかった。
でもしばらく見ていた。
「そう」と久美子は言った。
「よかったね」
「ああ」
久美子の「よかったね」は、短いが、軽くなかった。
三十三年間の誠一を知っている人間が言う「よかったね」だ。
誠一の重さを知っている人間が言う「よかったね」だ。
それを受け取りながら、誠一はこの人に会えてよかった、と思った。
「明日・・大丈夫そう?」と久美子は少し間を置いてから聞いた。
「分からない」と誠一は正直に言った。
「手が震えた」
「震えたの」
「でも宮本さんが、震えるのは怖いからで、怖くなければ震えないと言っていた」
「それは・・正しいのかな」と久美子は言い、少し考えた。
「まあ正しいか」
誠一は笑った。
久美子も少し笑った。
「寝なよ」と久美子は言った。
「明日早いんでしょ」
「午後二時だ」
「それでも」と久美子は言い、台所を片付け始めた。
誠一は封筒を持ち、部屋に戻った。
布団に入る前に、もう一度楽譜を開いた。
先生の書き込みを一つ一つ読んだ。
「急ぐな」。
「歌え」。
「ここが核心」。
それから・・表紙の裏の一行を、もう一度見た。
「誠一へ。もう一度。」
今夜から家に帰った後、誠一はずっとこの言葉を持って生きていける、と思った。
明日弾いても弾かなくても。
止まっても止まらなくても。
この言葉は今夜届いた。
それは変わらない。
それから・・今夜、押し入れから出した古い楽譜のことを思った。
二十一歳の自分が書いた「先生が言った通りに」という赤鉛筆の文字。
その「先生が言った通りに」は、今夜の先生の言葉で、ようやく答え合わせができた気がした。
先生が言った通りにしたら・・もう一度、弾けた。
明日は、この楽譜を譜面台に置こう。
見なくていい。
ただ、そこにある・・それで十分だ。
目を閉じた。
コンコースのグランドピアノの音が、まぶたの裏でゆっくり響いている気がした。
震えていた手の感触が、少しずつ、遠ざかっていった。




