↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/28

第二十三話 「震える手」

 本番の前日・・金曜日の夜、誠一はまず押し入れを開けた。

 そこに、楽譜がある。

 部屋の押し入れの、最上段の奥に、透明なビニール袋に入れて保管してある。

 三十三年間、一度も出したことがなかった。

 ビニール袋を取り出して、座卓の上に置いた。

 袋を開けると、紙の古い匂いがした。

 古いが、カビの匂いではない。

 誠一が学生の頃に集めた楽譜の束だ。

 ショパンのワルツ集、ベートーヴェンのソナタ、バッハのインヴェンション・・それから、一番下に、ショパンの夜想曲全集があった。


 三十三年ぶりに手に取った。

 ページを繰った。

 古い版で、紙が少し黄ばんでいる。

 学生の頃の自分の書き込みがある。

 赤鉛筆で、「ここ注意」「テンポ落とす」「右手先行」と書いてある。

 二十一歳の誠一が書いた言葉だ。

 その字を見ると、当時の自分の声が聞こえる気がした。

 急いでいた。

 うまくなりたかった。

 先生に認めてもらいたかった。

 その焦りが、赤鉛筆の圧の強さに残っている。


 第二十番のページを開いた。

 書き込みが一番多いページだった。

 至る所に矢印がある。

「もっとゆっくり」「息を入れる」・・そして一か所、「先生が言った通りに」という書き込みがある。

 先生が何を言ったのかは、もう覚えていない。

 でも「先生が言った通りに」と書いた瞬間の、あの時の自分の感情は、少しだけ伝わってくる。

 先生の言葉を信じて、信じることを自分に言い聞かせていた。

 そういう頃があった。


 誠一は楽譜を閉じた。

 明日、この楽譜は使わない。

 宮本のアパートで練習を重ねた白い楽譜がある。

 今夜はただ、この古い楽譜に会いに来た。

 三十三年前の自分に、会いに来た。


 夜七時過ぎ、誠一はコンコースに着いた。

 演奏会の会場へは宮本と一緒に明日の昼前に向かう。

 今夜は、コンコースのグランドピアノの前に一度来たかった。

 弾くためではなく・・ここに来たかった。

 全ての始まりの場所に。


 金曜日のコンコースは帰宅客でにぎわっている。

 スーツ姿の人間が足早に通り過ぎる。

 大きな買い物袋を提げた人が通り過ぎる。

 誠一もその流れの中に入って、ピアノの前に来た。

 蓋が、少し開いていた。

 閉め忘れか。

 スタッフに言うべきか・・と一瞬思ったが、誠一は椅子に座った。

 弾くつもりはなかった。

 ただ椅子に座って、鍵盤の白さを確かめるだけでいい。

 この感触が、明日もあるかどうか・・そう思って座った。


 でも、手が、自然に鍵盤に向かった。

 最初の和音を、静かに押した。

 音が出た。

 コンコースに、夜想曲の最初の一音が広がった。

 誰かが振り返った。

 でも誠一は手を止めなかった。

 続きを弾いた。

 旋律が進んだ。

 三小節目で・・気づいた。

 右手が、震えていた。


 最初は気のせいだと思った。

 でも違った。

 明らかに、震えていた。

 指先から来る微細な振れではなく、手全体が小刻みに揺れている。

 腕の力で抑えようとした。

 抑えようとすると、肩が固まった。

 肩が固まると、指が動かなくなった。


 誠一は手を鍵盤から離した。

 ひざの上で、手を握った。

 震えていた。

 三十三年前・・あの夜と、同じだった。

 楽屋で「弾きます」と言ってステージに向かった時、こんな手をしていた。

 先生の訃報が楽屋に届いた夜。

 それでも弾くと言った。

 ステージに出た。

 最初の和音を押した。

 そこまでは弾けた。

 でも、指が止まった。

 止まった・・という記憶が、手に戻ってきた。

 誠一は立ち上がり、近くのベンチに座った。

 コンコースの人の流れが続いている。

 誰も誠一を見ていない。

 帰宅する人々にとって、ベンチに座った五十五歳の男は景色の一部だ。

 今は、見られたくなかった。


 手を見た。

 震えは少し収まっていた。

 でも、確かに震えた。

 明日・・本番は明日だ。

 こんな手をしていたらどうするのか。

 止まるのか。

 また止まるのか。

 演奏会の会場で、家族の前で、宮本の前で、先生を知る人たちの前で、三十三年経っても止まるのか・・。

 誠一は目を閉じた。

 あの夜のステージが見えた気がした。

 黒いピアノ、客席の白い顔、誠一の指が止まった瞬間の、あの沈黙。


「村上さん」

 声がした。

 誠一は目を開けた。

 宮本清三が、立っていた。

 黒いコートに、今日は杖を持っている。

 コンコースの照明の下で、小柄な老人が誠一を見ていた。


「宮本さん」と誠一は言った。

「なぜここに」

「ここに来ると思っていました」と宮本は言い、ベンチの横に来て、ゆっくり腰を下ろした。

「前日に確かめに来る・・先生もそういう方でしたから」

 誠一は何も言えなかった。

「手が震えましたか」と宮本は言った。

「・・分かりますか」

「ピアノの前から離れてベンチに来ていますから」と宮本は言った。

「理由はひとつでしょう」


 誠一は手を見た。

 今はもう震えていない。

 でも先ほどの感触は残っている。

「あの夜と同じだと思いましたか」と宮本は言った。

「・・そう思いました」

「手が震える、ということは」と宮本は言い、杖を両手の前に立てた。

「体が正直なだけです。怖い、と体が言っている。怖くなければ、震えません」

「怖くてはいけないんじゃないですか」

「いけないことはないですよ」と宮本は言った。

 あっさりと。

「先生も、あのリサイタルの前は震えておられた。舞台に出るたびに、必ず震えると言っておられました。震えなくなったら舞台に立つのをやめる、とも言っていた」

「先生が震えていた」

 誠一は、その言葉を少しの間、受け取った。


 先生は・・震えていた。

 何十年舞台に立っても、震えていた。

 それでも弾いた。

 誠一は先生の前ではいつも平然としているつもりだった。

 でも先生の方も、震えながら出ていたのかもしれない。

 誠一が知らなかっただけで。


「ただ先生は」と宮本は続けた。

「怖い、と体が言っている時が、一番よく弾ける、とおっしゃっていました」

 誠一はその言葉を、ゆっくり受け取った。

 一番よく弾ける・・怖い時が。

 震えている時が。

 それは矛盾に聞こえるが、矛盾ではないかもしれない。

 体が正直になっている時が、音も正直になる。

 怖さを抑えて弾くのではなく、怖さごと弾く・・先生はそういうことを言っていたのかもしれない。


 コンコースに、夜の放送が流れた。

 閉店の案内だ。

 ピアノの蓋が、スタッフによって閉められていく。

 八時を過ぎていた。


「村上さん」と宮本は言った。

「実は今夜、お渡ししたいものがあってここに来ました」

 誠一は宮本を見た。

「先生のことで」と宮本は続けた。

「前にお話しした時、先生の言葉をいくつかお伝えしました。ただ・・もう一つ、伝えていないことがあります」

「もう一つ」

「これも先生の奥様から聞いたことです。先生が亡くなった後、遺品を整理しておられた時・・先生のピアノの楽譜棚に、一冊の楽譜が別にしてありました。他のものとは違う場所に、一冊だけ置かれていた」


 宮本がコートのポケットから、薄い封筒を取り出した。

 A4よりひと回り小さい、古い封筒。

「奥様がその楽譜を見ると、先生の手書きで書き込みがされていました。演奏のメモ・・テンポの指示、音の強弱、呼吸の場所・・そういうものが、細かく書き込まれていた。そして表紙の裏に、一言書いてあった」

 宮本が封筒を誠一に差し出した。

「奥様は私におっしゃいました。『先生がこう書いていました』と」

 誠一は封筒を受け取った。

 手が少し、震えていた。

「『夜想曲第二十番を、誠一に渡してやれ』」


 誠一は封筒を開けた。

 中に、楽譜があった。

 古い楽譜だった。

 版の古いショパン全集からだろう、ページが少し黄ばんでいる。

 でも丁寧に扱われてきた楽譜だった。

 折れ目がない。

 破れもない。


 開くと・・書き込みがあった。

 鉛筆で。

 細い、几帳面な字で。

 テンポの指示が赤で入っている。

 弓形の呼吸記号。

「ここで間を取れ」という書き込み。

「歌え」という一言。

「急ぐな」。

「ここが核心」。

 誠一はページをめくった。

 書き込みは最後まである。

 三十年以上前に書かれたものだろうが、鉛筆の跡はくっきりと残っていた。


 先生がこの楽譜を見ながら、誠一の演奏を思って書いた・・そう考えると、紙の重さが変わった気がした。

 この書き込みを、誠一は受け取れなかった。

 先生は書いたが、渡せなかった。

 渡す前に、先生は逝った。

 それから三十三年間、この楽譜は先生の楽譜棚にあった。

 先生の奥様が大切に持っていた。

 宮本が預かった。

 そして今夜、ここに届いた。


 表紙の裏を開いた。

 古賀義明・・先生の名前が印刷されている版元のシールの横に、万年筆で一行書かれていた。

「誠一へ。もう一度。」

 それだけだった。

 誠一の目が、熱くなった。

「誠一へ。もう一度。」

 三十三年間、誠一は先生を裏切ったと思っていた。

 止まってしまったから。

 約束を守れなかったから。

 だから弾いてはいけないと思っていた。

 三十三年間、そう思ってきた。

 でも先生は・・「もう一度」と書いていた。


「もう一度弾きなさい」。

 実技審査の日から、先生が何度も口にした言葉だった。

 うまくいかなかった時も、うまくいった時も、先生は褒める代わりにそう言った。

 もう一度。

 その言葉が、この楽譜の表紙の裏に、万年筆で残されていた。

 先生は、あの夜のことを知らないままこれを書いたのだ。

 止まる未来を知らずに・・ただ、この曲を弾く誠一の姿を、これから先に待って。

「もう一度」は、止まった者への慰めではなかった。

 先生がいつも言っていた、先へ進めという言葉だった。

 三十三年かかって、それが違う意味で届いた。


 誠一は先生を失望させたと思っていたが・・先生は、誠一がいつかこの曲を弾く日を、待っていた。

 宮本が「言うことがありません」と言った先週の土曜の夜が、ずいぶん昔のことのように感じた。

 でも、まだ六日前だ。

 この一週間で、誠一の中にあった三十三年分の凝りが、少しずつほどけていった。

 先生の言葉が、一つ一つ届いた。


 今夜、最後の一つが届いた。

「三十三年かかりましたね」と誠一は言った。

 声が少し揺れた。

「先生の手紙は、届くのが遅い」と宮本は言い、少し笑った。

「でも、必ず届く」

 コンコースの照明がまた少し落ちた。

 閉店が近い。


「明日」と宮本は言った。

「その楽譜を、譜面台に置いてください」

「曲は暗譜しています」

「見なくていい」と宮本は言った。

「ただ、そこにあればいい。先生がそこにいる、ということです」

 誠一は楽譜を封筒に戻した。

 手は、震えていなかった。


 宮本と別れて、誠一は駅のホームに向かった。

 封筒を持っていた。

 カバンに入れればいいのに、手に持ったまま歩いた。

 ホームのベンチに座った。

 電車を待った。


「誠一へ。もう一度。」

 三十三年前の先生が、今夜の誠一に届けた言葉。

 先生が「もう一度」と書いたということは・・先生は、誠一がこの曲を弾く日を、最初から信じていた、ということだ。

 信じていなければ、書かない。

「もう一度」は、止まった夜の後ではなく、止まる前に書かれた言葉だった。

 それが三十三年後、違う意味を持って届いた。

 その言葉の重さを、誠一は今夜、初めてちゃんと受け取った気がした。


 電車が来た。

 誠一は立ち上がり、乗った。

 封筒を、胸のあたりで少し抱えるようにして持っていた。

 自分でも気づいていなかったが、そうしていた。


 家に帰ると、久美子が台所にいた。

「遅かったね」と久美子は言った。

「ちゃんとご飯食べた?」

「駅で何か食べた」

「何を」

「立ち食いそば」

「明日本番なのに」と久美子は言い、何か言いかけてやめた。

 立ち食いそばがどうした、という言葉を飲み込んだのだろう。

 久美子はたまに言いかけてやめる。

 そのたびに誠一は、この人は言葉をちゃんと使う人だ、と思う。


 誠一は封筒をテーブルに置いた。

「これは」と久美子は言った。

「先生の楽譜だ」と誠一は言った。

「先生が、俺のために書き込みを入れてくれていたものだ。宮本さんが届けてくれた。『誠一へ。もう一度。』と書いてあった」

 久美子は封筒を見た。

 手には取らなかった。

 でもしばらく見ていた。

「そう」と久美子は言った。

「よかったね」

「ああ」


 久美子の「よかったね」は、短いが、軽くなかった。

 三十三年間の誠一を知っている人間が言う「よかったね」だ。

 誠一の重さを知っている人間が言う「よかったね」だ。

 それを受け取りながら、誠一はこの人に会えてよかった、と思った。


「明日・・大丈夫そう?」と久美子は少し間を置いてから聞いた。

「分からない」と誠一は正直に言った。

「手が震えた」

「震えたの」

「でも宮本さんが、震えるのは怖いからで、怖くなければ震えないと言っていた」

「それは・・正しいのかな」と久美子は言い、少し考えた。

「まあ正しいか」

 誠一は笑った。

 久美子も少し笑った。

「寝なよ」と久美子は言った。

「明日早いんでしょ」

「午後二時だ」

「それでも」と久美子は言い、台所を片付け始めた。


 誠一は封筒を持ち、部屋に戻った。

 布団に入る前に、もう一度楽譜を開いた。

 先生の書き込みを一つ一つ読んだ。

「急ぐな」。

「歌え」。

「ここが核心」。

 それから・・表紙の裏の一行を、もう一度見た。

「誠一へ。もう一度。」

 今夜から家に帰った後、誠一はずっとこの言葉を持って生きていける、と思った。

 明日弾いても弾かなくても。

 止まっても止まらなくても。

 この言葉は今夜届いた。

 それは変わらない。


 それから・・今夜、押し入れから出した古い楽譜のことを思った。

 二十一歳の自分が書いた「先生が言った通りに」という赤鉛筆の文字。

 その「先生が言った通りに」は、今夜の先生の言葉で、ようやく答え合わせができた気がした。

 先生が言った通りにしたら・・もう一度、弾けた。


 明日は、この楽譜を譜面台に置こう。

 見なくていい。

 ただ、そこにある・・それで十分だ。

 目を閉じた。

 コンコースのグランドピアノの音が、まぶたの裏でゆっくり響いている気がした。

 震えていた手の感触が、少しずつ、遠ざかっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。