第二十二話 「出場、逡巡」
演奏会まで、あと四日だった。
火曜の夜、誠一は会社の帰りに駅ビルに寄った。
特に用事があったわけではない。
この二ヶ月、帰り道にコンコースのグランドピアノに寄るのが習慣になっていた。
気になる木、みたいなものだ。
ただ通りかかるだけで、少し安心できる。
ピアノがそこにある。
今もそこにある。
それだけで十分だった。
今夜は、弾かなかった。
弾けないわけではない。
むしろ、弾かないことを選んだ。
椅子の前まで来て、椅子の縁に手を触れて・・それから、手を離した。
なぜかは、自分でもよく分からなかった。
ただ立っていた。
グランドピアノの前に。
コンコースを行き交う人の流れを背に、蓋の開いた鍵盤を前にして、ただ立っていた。
四日後、誠一はここではなく、別のホールで弾く。
先生を知る人たちの前で。
宮本の前で。
久美子と翔と麻央の前で。
「先生の命日に合わせた小さな集まりで」・・あの夜宮本がそう言った。
小さな、と言ったが、誠一にとっては今まで生きてきた中で最も大きな夜になりそうだった。
そのことが・・今夜、急に重たかった。
誠一は鍵盤を見た。
この街角のグランドピアノで、三十三年ぶりに鍵盤に触れた夜のことを思い出した。
四小節。
手が震えた。
音が途切れた。
でも鳴った。
あの深夜に鳴った四小節が、全ての出発点だった。
あの夜からここまでのことが、順番に戻ってきた。
宮本と出会った夜。
「私は古賀先生のピアノを四十二年間調律していました」と言った白髪の老人。
先生が宮本に「矛盾した人間だ」と言っていたこと。
宮本が「十小節、弾いた。それがどれほどのことか、客席の全員が分かっていたと思います」と言ったこと。
命日の演奏会への誘い。
一ヶ月しかなかった。
宮本のアパートで、先生のアップライトを弾いた。
「揺れすぎました」と台所から声だけで言われた。
あの瞬間、先生の言い方と同じだと気づいて、少し笑った。
白い楽譜に鉛筆で書き込みを増やした。
「ここは呼吸」
「右手を遅らせる」
・・それから「このフレーズは久美子に似ている」と書いて、消しゴムを持って、でも消さなかった。
みことちゃんが「おじいちゃんより若いじゃん」と言い、誠一は腹の底から、久しぶりに笑った。
麻央が深夜に「分からんのに弾くの?大人はそういうことをするのか」と聞いた。
先週の土曜、先生を知る人々と会場で会った。
坂本が「先生は弱点を面白がる人だった」と言った。
細井が「褒めると人は止まるから、先生は褒めなかった」と言った。
渡辺が「先生が最後に買っていったのは嬰ハ短調の楽譜でした」と言った・・あの言葉を聞いた時、誠一は少し息が止まった。
先生が「まだ早い」と言い続けた曲の楽譜を、亡くなる数週間前に、静かに買っていた。
その夜、宮本が練習の後に「言うことが、ありません」と言った。
そして昨夜、宮本から「先生の最後の言葉」を聞いた。
「いつか誠一が、あの曲を弾くのを聴いてみたい」・・先生がそう言っていた。
その言葉を聞いた時、誠一の目が熱くなった。
三十三年間「先生を裏切った」と思い続けてきた自分に、先生は「いつか聴いてみたい」と言っていた。
ずれていた。
完全に、ずれていた。
先生の願いを、聞いた。
「弾けばいい」と思った。
宮本のアパートを出て、駅のホームで電車を一本見送りながらそう思った。
思ったのに・・今夜、ここに立って、四日後のことを考えると、重たかった。
誠一は、自分の中で何が起きているのかを、ゆっくり考えた。
怖いのか。
怖い、は正確ではないかもしれない。
三十三年前の一九九三年の夜、ステージに立った時の「怖い」とは、質が違う。
あの夜は、先生の訃報を受けたばかりで、体が震えていて、それでも「弾きます」と言った。
楽屋の廊下で足が出なかった。
タキシードのボタンを留める手が動かなかった。
でも出た。
椅子に座った。
十小節弾いて・・止まった。
涙が、音より先に出た。
あれは怖いというより、悲しみで体が動かなくなった夜だった。
今夜の「重たさ」は・・違う。
もっと、静かな場所から来ている。
四日後に弾く。
先生が「いつか聴いてみたい」と言った曲を、弾く。
先生が死んで三十三年後に、やっと、弾く。
先生は、聴けない。
それが重たかった。
先生に聴かせたくて弾くのに・・先生はいない。
宮本が「先生も聴いていると思います」と言った。
宮本はそう信じている。
誠一には分からない。
信じたいが、確かめられない。
信じようとするほど、確かめられないことの輪郭が濃くなる。
「間に合わなかった」という感覚が、今夜は胸の真ん中にあった。
三十三年。
三十三年分の沈黙は、三十三年分の「聴かせられなかった」でもある。
弾かなかった間も、先生の記憶は誠一の中にあった。
封印していたが、消えていたわけではない。
その記憶と、先生が「聴いてみたい」と待っていたという言葉が、今夜ここで重なって・・重たかった。
重くて、少し、痛かった。
コンコースの人の流れが、少し途切れた時間があった。
夜の九時前で、帰宅ラッシュが一段落した頃合いだ。
ピアノの周りに人がいない。
こういう時間帯に、誠一はよく座って弾いた。
音階から始めて、ワルツを弾いて、最近は夜想曲の冒頭を弾いた。
コンコースに音が広がる瞬間が、誠一には好きだった。
でも今夜は、立っていた。
椅子の前に立って、鍵盤を見て、右手を少しだけ持ち上げた。
指の形を作った。
夜想曲の最初の和音を押さえる形。
でも、鍵盤に触れなかった。
弾く前の時間として・・ただ、立っていた。
弾いてしまうと、何かが始まる。
終わる。
今夜はまだ、その前でいたかった。
三十三年間、ずっとその前にいた。
弾かなかった、弾けなかった、弾いてはいけないと思っていた、長い前。
今夜だけは、もう少しその前にいていい。
最後の夜として。
そう思った時、後ろから声がかかった。
「あの・・」
振り返ると、二十代の若い女性が立っていた。
大きなトートバッグを肩にかけて、少し申し訳なさそうな顔をしている。
「弾きますか? もし弾かないなら、使っていいですか」
「どうぞ」と誠一は言って、椅子から離れた。
女性が椅子に座り、少し高さを調整してから、弾き始めた。
ポップスだろうか、誠一には曲名が分からなかったが、上手だった。
軽やかで、迷いなく弾いている。
指が迷わない。
止まらない。
誰かに聴かせようとするのではなく、自分のために弾いている感じがした。
誠一はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
それから歩き出した。
今夜はこれでいい、と思った。
弾かなかったが、来た。
立った。
それで今夜は十分だ。
家に帰ると、久美子がリビングにいた。
本を読んでいた。
「遅かったね」
「少し寄り道した」
「ピアノのところ?」と久美子は聞いた。
この二ヶ月で、「少し寄り道した」がどこを指すか、久美子には分かるようになっていた。
「ああ」
久美子が本を閉じた。
「弾いたの?」
「弾かなかった」
久美子が少し考えてから、「そう」と言った。
追及はしなかった。
何があったかを聞かなかった。
ただ「そう」と言って、また本を開いた。
誠一は洗面所で手を洗いながら、その「そう」の重さを受け取っていた。
三十三年間、久美子は「なんで帰りが遅いの」と聞いていた。
今夜は「そう」だけだった。
この人は、誠一が弾かなかった夜にも「そう」と言える人になっていた・・いや、最初からそういう人だったのかもしれない。
誠一が、知らなかっただけで。
廊下に出ると、翔が部屋から出てきた。
就活書類のクリアファイルを手に持っている。
「父さん、帰ってたんだ」
「ああ」
「・・土曜、大丈夫?」
「土曜」
「演奏会」
「大丈夫だ」と誠一は言った。
少し間があって、「たぶん」と付け加えた。
翔が少し間を置いた。
クリアファイルの端を指でなぞりながら、誠一を見た。
「たぶん、か」
「たぶん」と誠一は繰り返した。
翔がまた間を置いてから、「・・それでいいんじゃない」と言った。
目を少し逸らしながら言った。
「たぶん大丈夫、で行って、弾いて、終わったら分かることだと思うので」
「そうか」
「就活の面接も、行く前は『たぶん大丈夫』くらいかな、みんな」と翔は言った。
「行ってみないと分からないよ」
それだけ言って、翔は自分の部屋に戻った。
誠一はその背中を見ていた。
二十四歳の息子が、就活の書類を抱えながら「行ってみないと分からない」と言った。
翔なりに、自分自身のことと重ねながら言っていたのかもしれない。
その夜、誠一は布団の中で長い間、目が覚めていた。
「たぶん」と言った。
なぜ「たぶん」と言ったのか、自分でも少し驚いていた。
弾く意志がないわけではない。
先生の言葉を聞いた夜、「弾けばいい」と思った。
宮本から「言うことがない」と言われた夜、「それで十分だ」と思った。
先週の土曜に先生の生徒たちと会場で話して、出発点はできている、と思った。
なのに今夜、コンコースのピアノの前に立って・・「たぶん」と言ってしまった。
なぜか。
止まることが、怖い・・のではない。
麻央に「止まることが怖かった」と話した夜、怖かった、過去形だと気づいた。
今も完全に怖くないとは言えないが、それより重たいものが今夜はある。
「間に合わなかった」という感覚だ。
先生が「いつか聴いてみたい」と言った。
でも先生はいない。
弾いても、先生には届かない。
届かない場所に向けて弾く・・その静かな悲しみが、「たぶん」になった。
誠一はしばらく天井を見ていた。
部屋が静かだった。
久美子の寝息が聞こえた。
規則正しい、穏やかな呼吸。
三十三年間、この人の隣で眠りながら、ピアノのことを一言も言わなかった。
今は言える。
今朝のトーストも、今夜の「弾かなかった」も、全部知っている人が隣で眠っている。
「間に合わなかった」は、先生に対してだけのことではない。
久美子にも、三十三年、間に合わなかった。
翔にも麻央にも、間に合わなかった。
三十三年分の「言えなかった」「見せられなかった」「聴かせられなかった」が、確かにある。
取り戻せない三十三年が、ある。
でも・・。
今夜、翔は「行ってみないと分からない」と言った。
麻央はいつか「ちゃんと見てる」と言った。
久美子は「弾かなかった」と聞いて、追及しなかった。
先生には届かない。
でも、届く人間がいる。
今夜それに気づいた・・ということは、「たぶん」を撤回していい、ということかもしれない。
誠一は目を閉じた。
天井の暗がりの向こうで、何かが少し、ほどけた気がした。
翌朝、誠一は普通に目が覚めた。
洗面台で顔を洗い、インスタントコーヒーを飲んだ。
久美子が「今日は弁当にする?」と聞いた。
「いや、買う」と誠一は言った。
玄関を出る前に、久美子が「行けそう?」と聞いた。
昨夜の「たぶん」が、まだ宙に浮いていた。
誠一は少し考えた。
考えながら、コートのボタンを一つずつ留めた。
「行く」と言った。
「たぶん、じゃなく」
久美子が「そう」と言った。
それだけだった。
「よかった」も「安心した」も言わなかった。
ただ「そう」と言って、台所に戻った。
誠一は玄関を出た。
秋の空気が冷たかった。
あと三日。
先生には届かないかもしれない。
それでも弾く。
届く場所に向けて弾く。
三十三年間、間に合わなかった人間が、やっと間に合う夜に向けて弾く。
全部がそろった理由ではない。
でも、「たぶん」を静かに撤回するには、十分だった。
誠一は駅への道を歩き始めた。
歩きながら、右手の指を少しだけ動かした。
夜想曲の冒頭の和音。
音のない、空気の中の和音。
でも指は、もう迷わなかった。




