第二十一話 「先生の最後の言葉」
演奏会の五日前、月曜の朝、宮本から連絡があった。
「村上さん、一度うちに来ていただけますか。練習ではなく・・お話したいことがあります」
誠一は「はい」と言った。
いつもの日曜の午後ではなく、平日の夕方を指定された。
仕事を早めに切り上げて向かった。
誠一は手土産を何にするか迷った。
宮本の家にはこれまで何度も伺っているが、練習のためで、手土産を持っていったことはなかった。
でも今日は「話したいことがある」という呼ばれ方だ。
菓子折りが必要かもしれない。
羊羹か、クッキーか・・いや、宮本はクッキーを自分で焼く人だ。
クッキーを持っていくのは妙だ。
それなら別の菓子か。
田中が「村上さん、何か悩んでるんですか」と言った。
「手土産」と誠一は言った。
「誰かの家に行くんですか」
「知り合いの老人の家に」
「それなら羊羹でいいんじゃないですか」と田中は言い、自分のコーヒーを飲んだ。
「和菓子が無難ですよ」
「歯が悪かったら」
「じゃあゼリー」
「ゼリー持っていく人間がいるか」
「洋菓子ならパウンドケーキですかね」と田中は言った。
「固すぎず、柔らかすぎず。個包装だと持ち帰りやすいですし」
結果、誠一は仕事帰りにデパ地下に寄り、パウンドケーキの詰め合わせを買った。
千五百円。
「ちょうどいい」と思ったが、エレベーターを降りた後で「高すぎたかもしれない」という気がしてきた。
でも戻る時間はなかった。
宮本のアパートに着いたのは、夕方六時を少し過ぎた頃だった。
いつも日曜の午後に来るのとは、少し雰囲気が違った。
夜の帳が下りかけていて、廊下の電球がついている。
錆びた外階段を上りながら、誠一は今日の話が何かを考えた。
練習とは別の用件。
演奏会の前に、話しておきたいこと・・それが何か、誠一には見当がついていなかった。
チャイムを押すと、宮本がすぐ出てきた。
「いらっしゃい。遅くにすみません」
「いえ、こちらこそ」
部屋に入ると、いつものアップライトピアノの前ではなく、テーブルの方に案内された。
テーブルの上に、急須と湯呑みが二つ、茶托の上に並んでいた。
「お茶を入れますから少し待って」と宮本は言い、台所に引っ込んだ。
誠一はその間、部屋を見回した。
いつも練習に来てピアノの前だけに座っているので、部屋の隅まで見る機会が少なかった。
壁の棚に楽譜が並んでいる。
CDが何枚か、無造作に積んである。
そして・・壁に、一枚の小さな額縁がかかっていた。
古い写真。
若い男性と、年配の男性が並んでいる。
よく見ると・・年配の方が、古賀教授だと分かった。
誠一の記憶の中の先生より若い。
五十代だろうか。
スーツ姿で、どこかのホールの前に立っている。
若い方は、おそらく若い頃の宮本だ。
細い体に、きちんとしたジャケットを着ている。
二人とも、カメラを見て微笑んでいる。
先生が笑っている写真を、誠一は初めて見た気がした。
宮本が戻ってきた。
お茶を注いだ。
今日は渋くなく、良い味がした。
しばらく、他愛のない話をした。
演奏会の会場のこと。
先週の土曜に行って、会場のピアノと会ったこと。
先生の生徒たちの話。
誠一は聞きながら、今日の本題をまだ切り出せないでいた。
切り出す必要もなかった。
宮本が話してくれるだろう、という予感があった。
お茶が二煎目になったところで、宮本が言った。
「村上さん。今日お呼びしたのは・・一九九三年の夜のことを、お話したいと思ったからです」
「あの夜」
「古賀先生のリサイタルの夜です」
誠一は湯呑みをテーブルに置いた。
「私はあの夜、会場にいました」と宮本は言った。
「調律師として。本番の三時間前にホールのピアノを調整して、そのまま待機していた。本番中も、袖で待機するのが私の仕事でしたから」
「知りませんでした。あの夜、宮本さんがいたとは」
「楽屋には何人かいましたから。あなたは私のことを覚えていないでしょう。当時の私は、壁の一部みたいなものでしたから」
宮本は穏やかに言った。
自嘲でも卑下でもなく、事実として。
調律師というのは縁の下の仕事で、目立たないのが美徳だ・・そういう矜持が、その一言ににじんでいた。
「先生の訃報を聞いたのも、楽屋の廊下でした。スタッフの方が走ってきて。午後五時に・・と聞いた瞬間、頭が真っ白になった。前日に先生と話したばかりでしたから」
「前日に」と誠一は言った。
「そうです。前日の午後、先生が会場に下見に来られた。私はピアノの最終確認をしていて。先生は鍵盤を少し触れて、『いい音だ』とおっしゃった。それから・・」
宮本が少し止まった。
「先生が私に言ったんです。『宮本、誠一はな・・』と」
誠一は息を止めた。
宮本はゆっくり話した。
急かさず、でも止まらずに。
「先生がおっしゃったのは、こういうことでした。『宮本、誠一はいつかステージを怖いと思う日が来るかもしれない。その時は、逃げるなと言ってやってくれ。あいつは逃げ癖があるから』と」
「逃げ癖」と誠一は繰り返した。
「先生の言い方でした。悪口ではなく、心配からの言葉です。先生はあなたを・・本当に大切にしていた。才能がある弟子を、才能ゆえに潰してしまわないかと、いつも気にしておられた」
誠一は、その言葉を聞きながら、二十一歳の自分を思った。
コンクールから帰ってきて、「次は一位を取る」と思っていた自分。
先生の前ではいつも自信満々のふりをしていた。
でも先生には、分かっていたのかもしれない。
どこかに「逃げ癖がある」ことを。
「先生はなぜ・・前日にそれを言ったんでしょう」
「今になると思うんです」と宮本は言った。
「先生は、体の異変を感じていたのかもしれない。虫の知らせというものがある。だから私に・・万が一の時のために、あなたへの伝言を頼んだ」
誠一は窓の外を見た。
夜の空気が見える。
「だから」と宮本は続けた。
「あなたが楽屋で『弾きます』と言った声を・・私は廊下で聞いていました。あの声を聞いた時、私は止めようと思った。でも、先生の言葉があったから、足が動かなかった。あなたは逃げていなかった。先生の言葉通りに、逃げなかった。だから私には、止める言葉がなかった」
誠一はうなずいた。
うなずくことしかできなかった。
「ステージで止まった後、袖に入ったあなたを・・私は遠くから見ていました。膝が折れて、誰かが支えた。私も近くに行こうとしたが、人が多くて行けなかった。あなたはその後、すぐに帰ってしまった」
「覚えています」と誠一は言った。
「あの夜のことは、細かく覚えています。でも、誰が周りにいたかは・・よく覚えていない」
「そうでしょう。あなたはその夜、先生のことで頭が一杯だったはずだから」
宮本はお茶を一口飲んだ。
誠一も飲んだ。
三煎目になっていた。
少し薄くなっていたが、それがかえって落ち着く味がした。
あの夜から、三十三年が経っていた。
誠一はあの夜以来、ピアノを弾いていない。
弾けなくなった、というより、弾く資格がないと思っていた。
先生が「逃げるな」と言った。
でも途中で止まった。
止まった瞬間、先生との約束を破った、と思った。
その罪悪感が、三十三年間、鍵盤に手を乗せることを許さなかった。
弾けない、のではなく、弾いてはいけない・・それが誠一の三十三年間の解釈だった。
「村上さん」と宮本は言った。
「あなたに伝えたかったことが、もう一つあります」
「はい」
「先生が亡くなった後、しばらくして・・奥様から連絡をいただいたことがあります。先生の遺品を整理していたら、手帳が出てきた、と。手帳の末尾のページに、あの夜のリサイタルに向けてのメモが書いてあった、と」
誠一は宮本を見た。
「奥様が読んでくださったんです。先生が亡くなる直前に書いたと思われるもので・・内容は、その夜についての心配でした。先生はこう書いていた。『もし自分に何かあった時は、誠一に演奏をやめさせてほしい。無理をさせてはいけない』と」
誠一の手が、湯呑みの上で止まった。
「先生が・・そう書いていた」
「そうです。先生はあの夜、自分の体に異変を感じていた。だから書き残した。万が一の時には・・誠一を舞台に立たせるな、と。ところが、その言葉が奥様からスタッフに届く前に、訃報が伝わってしまった。あなたはすでに『弾きます』と言っていた」
誠一は、じわじわと理解した。
先生は・・弾かせたくなかった。
万が一の時には、弾かせないでほしいと書いていた。
でも、その言葉は誰にも届かなかった。
誠一は先生の「逃げるな」という言葉だけを信じて、舞台に立った。
「先生は亡くなるまで、その夜のことを気にかけていた」と宮本は言った。
「奥様は後から・・誠一さんが途中で止まったことを、人づてに聞いておられた。そして奥様は私にこう言いました。先生が生きていたら、きっとこう言っただろう、と」
誠一は宮本を見た。
「先生なら、あなたを責めなかった。むしろ・・あんな夜に舞台に立たせてしまった自分を、ずっと責めただろう、と」
誠一は、何も言えなかった。
三十三年間、誠一は「先生を裏切った」と思っていた。
先生が「逃げるな」と言ったから舞台に立った。
でも途中で止まった。
先生との約束を守れなかった。
だから自分にはもう弾く資格がない・・そう思ってきた。
でも先生は、弾かせたくなかった。
あの夜、先生の本心は「やめさせてほしい」だった。
それが届かなかった。
届かなかったから誠一は弾いた。
止まった。
三十三年間、それを「裏切り」だと思ってきた。
でも先生は、誠一を責めなかっただろう・・と奥様は言った。
「奥様が最後に教えてくださったのは」と宮本は続けた。
「先生が、折に触れて奥様に話していた言葉です。誠一さんの話になると、先生は決まって、こう締めくくっていたそうです」
宮本は少し間を置いた。
「『いつか誠一が、あの曲を弾くのを聴いてみたい』」
誠一の目が、熱くなった。
こらえようとした。
七十代の老人の前で、五十五歳の男が泣く。
でも目の奥が焼けるように熱くて、視界がわずかに滲んだ。
三十三年間。
誠一は三十三年間、先生との約束を守れなかったと思ってきた。
先生はきっと失望しただろうと思ってきた。
だから弾けない。
だから封印した。
・・でも先生は、「いつかあの曲を弾くのを聴いてみたい」と言っていた。
失望するどころか、先生は、誠一がいつか弾く日を、この先に待っていた。
ずれていた。
三十三年間、完全にずれていた。
「ありがとうございます」と誠一は言った。
声が少し揺れた。
宮本はうなずいた。
何も言わなかった。
それでよかった。
この沈黙の使い方を知っている人間が、世の中にはいる。
宮本はそういう人間だった。
窓の外で、秋の夜風が鳴っていた。
誠一はしばらく、そのまま黙っていた。
何かを言おうとして、でも言葉が見つからなかった。
こういう時は、言葉を探すより黙っている方がいい。
宮本もそれを知っていて、黙っていてくれた。
「長居しました」と誠一は言った。
「いえ、ゆっくりしていってください」
「いや、お暇します」と誠一は立った。
「今夜は・・いろいろ、考えたいので」
宮本は玄関まで送ってくれた。
靴を履いて、振り返ると、宮本が言った。
「村上さん。先生の言葉は・・願いです。願いというのは、叶えることができます。今夜のうちに、答えを出さなくていい。ただ、叶えることができる、ということだけ覚えておいてください」
誠一はうなずいた。
「ありがとうございました」
「パウンドケーキ、いただきます」と宮本は言った。
「好きなんです、あれは」
「そうですか」
「焼けないやつが、唯一」と宮本は言って、少し笑った。
誠一も笑った。
コートを羽織って、錆びた階段を下りた。
帰り道、誠一は急がなかった。
住宅街の明かりを抜けて、駅に向かう道を歩いた。
街灯が灯り、十月の夜気が冷たかった。
誠一はコートのポケットに手を入れて歩いた。
先生の最後の言葉。
いつか誠一が、あの曲を弾くのを聴いてみたい。
その言葉を、どう受け取るべきか。
「じゃあ弾けばいい」と思うのは簡単だ。
でも三十三年間封印してきたものを、一つの言葉で解いていいのか、という気持ちもあった。
解くというのは、三十三年間の誠一の選択を否定することになるのか・・いや、ならない。
三十三年間、先生の記憶を大切にして生きてきた。
それは正しかった。
ただ、その記憶の解釈が、ずれていた。
駅のホームに着いて、誠一はベンチに座った。
電車が来た。
見送った。
次の電車が来るまで、ベンチに座っていた。
いつか誠一が、あの曲を弾くのを聴いてみたい。
じゃあ、弾けばいい。
それだけのことだ。
三十三年かかって気づくことにしては、あまりに単純だ。
ホームのベンチに座って気づくことにしては、あまりに地味だ。
でも、すべての気づきは最終的にこういう場所で訪れる。
コンサートホールでも、夜明けの海岸でもなく、電車を一本見送ったホームのベンチで。
次の電車が来た。
誠一は立ち上がり、乗った。
家に帰ると、久美子がリビングにいた。
本を読んでいた。
「遅かったね」と久美子は言った。
「宮本さんとこ?」
「うん、話が少し長くなった」
「ご飯、温めとこうか」
「ありがとう」
ジャケットを脱いで、洗面所で手を洗った。
鏡の中の自分を見た。
目が少し赤い。
泣いてはいないが、泣きそうだった夜の顔がそこにある。
リビングに戻ると、久美子が電子レンジに手をかけていた。
「どんな話をしたの」と久美子は言った。
台所から、背中を向けたまま。
「先生のことを、聞いた」と誠一は言った。
「先生の・・最後の言葉を、教えてもらった」
久美子は振り返らなかった。
でも手が止まった。
電子レンジが「チン」と鳴って、久美子がそれを出して、誠一の前に置いた。
「そう」と久美子は言った。
「聞けてよかったね」
それだけだった。
それだけで十分だった。
誠一は温かい飯を食べた。
先生の言葉が、胃の中に落ちていくような気がした。
三十三年間、胸のあたりで凝っていたものが、少しだけ溶けていく感じがした。
あと五日ある。
弾けばいい。




