第二十話 「先生の生徒たち」
演奏会の一週間前、土曜の午後、宮本に言われた通り誠一は会場に向かった。
「本番の前に一度、ピアノと会っておいた方がいい」と宮本は言っていた。
「本番のピアノは、練習のアップライトとは違います。当日に初めて触れるより、一週間前に馴染ませておく方がいい。その日は、先生を知る方も何人か来ますから」
先生の若い頃に使っていたというホールは、駅から歩いて七分ほどの、住宅地の中に建っていた。
こぢんまりした建物で、外壁が少し色褪せているが、入り口の看板だけが新しい。
「古賀義明 追悼演奏会」という字が、きれいな明朝体で書かれていた。
誠一はその看板の前で少し止まった。
先生の名前が、看板に書かれている。
当たり前のことだが・・三十三年間、誠一の中だけにしかいなかった先生が、今日は外に出ている。
それがどういうことなのか、誠一には今もまだ、うまく受け取れない。
中に入ると、宮本が出てきた。
「いらっしゃい。ちょうどよかった。皆さん、もう来ています」
宮本に連れられてホールの中に入ると、十人ほどの人が集まっていた。
年配の方が多いが、四十代らしい人も二、三人いる。
みな思い思いに話をしていて、誠一が入ってきたことには最初気づかなかった。
宮本が「皆さん、古賀先生の教え子の村上誠一さんです」と言った。
一斉に視線が来た。
誠一は「村上です。よろしくお願いします」と言った。
最初に声をかけてきたのは、坂本という女性だった。
六十代前半か。
白いブラウスに、落ち着いた色のジャケットを着ている。
目に笑みがあって、話しやすそうな顔だ。
「坂本です。私は先生の最初の世代の弟子で・・先生が大学に着任されてすぐの頃に習っていました」
「そうですか」と誠一は言った。
「私は先生が亡くなる五年ほど前から」
「じゃあ最後の方ね」と坂本は言った。
「先生、あなたのことを話していたわよ。研究室の廊下でばったり会った時に、『今、面白い学生がいる』って」
「面白い、というのは」
「どういう意味か聞いたら、先生が『ピアノが怖いくせにピアノをやめられない。そういう人間は、面白い』と言っていた」
ピアノが怖い。
宮本が「矛盾した人間だ」と言っていた。
坂本は「面白い」と言った。
先生の言葉は変わっているが、同じことを指している。
「先生はそういう人で」と坂本は言った。
「弱点を責めるんじゃなくて、弱点を面白がるの。私は音の粒が揃わなくて、ずっとコンプレックスだったんだけど・・先生に『あなたの粒の不揃いは、計算できない人間の呼吸だ。そういう呼吸を持てる人間は少ない』と言われた時、泣きそうになった。褒めてるんだか貶してるんだか分からないんだけど」
「褒めているんだと思います」と誠一は言った。
「先生の褒め方はいつもそういう形でした」
「そうよね」と坂本は笑った。
「当時は意味が分からなかったけど、今になってやっと分かる。先生は、欠点を直させるんじゃなくて、欠点ごと使いこなさせようとしていたんだと思う。そういう教え方だった」
次に話しかけてきたのは、細井という六十代の男性だった。
音楽大学で先生と同僚だったという。
長身で、白髪交じりの髪を几帳面に整えている。
「細井です。先生とは同じ学科で、十年以上一緒でした」
「先生の同僚の方に会えるとは」と誠一は言った。
「先生は職員室ではほとんど喋らない方でしたよ」と細井は言った。
「会議でも最低限のことしか言わない。でも、その最低限の言葉がいつも正確で・・みんな、先生が口を開くと聞いていた」
「私に対してもそうでした。一切褒めなかった」
「先生は『褒めると人は止まる』と言っていました。職員室でそう言っていた。『褒められた瞬間に、人はそこで完成してしまう。だから褒めない』と」
誠一はその言葉を聞いて、少し黙った。
褒めると人は止まる。
だから褒めなかった。
三十三年間、先生に一度も「よくやった」と言われなかった。
その理由が、今初めて言葉になった。
止まらせたくなかった。
ずっと先に進んでいてほしかった。
だから褒めなかった。
「でも」と細井は続けた。
「先生が毎年、学生たちの演奏会のプログラムを全部手元に残しているのを知っていました。普通は捨てますよね、プログラムなんて。でも先生の研究室の棚に、毎年分が全部積んであった。演奏した学生の名前に、薄く線が引いてあって」
「線が」
「おそらく、先生なりの記録だったんでしょう。名前を残す。それが先生の・・見届け方だったと思います」
楽器店の老主人は、渡辺という名前だった。
七十代後半で、宮本よりさらに年上に見える。
小柄で、眼鏡が厚い。
宮本の隣に座って、お茶を飲んでいた。
「渡辺です。私は楽器屋でして・・先生には長年、楽譜を買いに来ていただいていた」
「楽譜を」と誠一は言った。
「ええ。月に一度か二度、ふらりといらして・・最近これは出ましたかとか、あの出版社のこのシリーズはまだありますかとか、そういうことを聞いてくる方でした」
「先生が楽譜を買いに来る姿は、想像できませんでした」
「それがね」と渡辺は言って、少し表情を緩めた。
「先生は楽譜を買う時、必ず一度、その場で譜面を開くんです。ぱらぱらっとめくって、数小節だけ目で追って・・それで何も言わずにそっと閉じる。買う時もあれば、棚に戻す時もある。理由は聞いたことがないんですが」
「どんな基準で選んでいたんでしょう」
「一度聞きましたよ」と渡辺は言った。
「そうしたら先生が『ここにいる気配がする楽譜と、そうでない楽譜がある』と言った。気配、というのが何のことか私には分からなかったけど・・先生は本気でそう言っていた」
ここにいる気配がする楽譜。
誠一は自分が手に持っている夜想曲の楽譜のことを思った。
白い余白に「このフレーズは久美子に似ている」と書いた楽譜。
先生の書き込みはないが、今は誠一の言葉が入っている。
「先生が最後に買っていったのは」と渡辺は続けた。
「ショパンのノクターンの楽譜でした。亡くなられる数週間前のことです」
誠一は止まった。
「どの曲の、楽譜ですか」
「嬰ハ短調だったと思います。珍しいなと思ったんです。先生はショパンをあまり買われない方だったので。棚から出して、いつもみたいに数小節だけ見て・・そのまま買っていかれた」
嬰ハ短調。
先生が「まだ早い」と言い続けた曲。
誠一が三十三年間弾かなかった曲。
それを先生が、亡くなる数週間前に買っていた。
「先生は何か言いましたか、その時に」と誠一は聞いた。
「何も」と渡辺は言った。
「いつも通り、静かに買って帰られた」
誠一はしばらく、その事実を受け取り続けた。
会場のピアノは、スタインウェイだった。
アップライトではなく、グランドピアノ。
宮本のアパートで触れてきた音とは違う、広がりのある音がする。
誠一は鍵盤に座って、まず音階だけ弾いた。
部屋の響きを確かめる。
ホールは小さいが、天井がある程度高く、音が少し残る。
夜想曲の冒頭を弾いた。
弾きながら、今日聞いた言葉が通り過ぎていった。
「ピアノが怖いくせにピアノをやめられない。そういう人間は面白い」・・坂本から聞いた先生の言葉。
「褒めると人は止まる」・・細井から聞いた言葉。
「ここにいる気配がする楽譜がある」・・渡辺から聞いた言葉。
そして先生が亡くなる数週間前に、嬰ハ短調の楽譜を買っていったこと。
誠一が三十三年間「まだ早い」と言われ続けたその曲を、先生は最後に、静かに買っていた。
音を出しながら、誠一は思った。
先生は・・待っていたのかもしれない。
いつか誠一がこの曲を弾く日を、あの白い楽譜に指を置く日を、待っていたのかもしれない。
「まだ早い」は、「いつか弾きなさい」だったのかもしれない。
先生はそれを言葉にしなかった。
言葉にすると、誠一がそこで止まってしまうから。
坂本が言っていた。
「先生は一番大切な言葉しか言わない人だった。だから、言葉が少なかった」
誠一は弾き終えた。
十人ほどの前で、一度だけ通し演奏した。
止まらなかった。
詰まる箇所が二か所あったが、止まらなかった。
弾き終えると、坂本が「素敵でした」と言った。
細井が「本番、楽しみにしています」と言った。
渡辺が、静かに頷いた。
その夜、宮本の家へ向かった。
ホールのグランドピアノの感触が指に残っているうちに、もう一度、通しておきたかった。
アップライトの前に座って、音階から始めた。
宮本がいつもの椅子に座っている。
お茶が出た。
今日はクッキーがなかった。
代わりに何もなかった。
夜想曲を弾いた。
最初から最後まで、止まらずに。
弾き終えた。
宮本が何も言わなかった。
誠一は少し待った。
「揺れすぎました」も来なかった。
「まあそういう方向です」も来なかった。
「いいですね」も来なかった。
部屋が静かだった。
秋の夜で、窓の外が少し風があった。
アップライトの余韻が、古いアパートの壁に溶けていった。
「宮本さん」と誠一は言った。
「はい」
「何も言わないんですか」
「言うことが、ありません」と宮本は言った。
それだけだった。
誠一は鍵盤のふたを閉めた。
ジャケットを手に取って、立ち上がった。
「ありがとうございました。また来週も、よろしくお願いします」
「はい」と宮本は言った。
「先生も、聴いていると思います」
誠一は玄関で靴を履いた。
廊下が静かだった。
「宮本さん」と誠一はもう一度言った。
「なんでしょう」
「今日、先生の同僚の方から・・先生が学生の演奏会のプログラムを全部残していたと聞きました。名前に線を引いて」
「そうですか」と宮本は言った。
「私の名前も、あったと思いますか」
宮本が少し間を置いた。
「あったと思います」と宮本は言った。
「あの方は、見届けた人のことは忘れない方でした」
誠一はドアを開けた。
夜の空気が冷たい。
階段を下りながら、誠一は右手を開いたり閉じたりした。
一週間後、弾く。
先生が見届けようとしていた曲を、三十三年後に、弾く。
止まっても、立ったことは残る・・久美子が言った。
止まっても止まらなくても、ちゃんと見てる・・麻央が言った。
十小節、弾いた・・宮本が言った。
言うことが、ありません・・宮本が今夜、初めてそう言った。
それで十分だ、と誠一は思った。
あと一週間ある。




