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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第十九話 「麻央、十一時」

 演奏会まで、あと十日。

 水曜の夜、誠一はリビングに一人でいた。

 十一時を少し過ぎている。

 久美子はもう眠っていて、翔も部屋に引き上げている。

 リビングの照明を一つだけ点けて、誠一はソファに座り、テーブルの上に楽譜を広げていた。


 ショパン夜想曲第二十番。

 嬰ハ短調。

 今週は宮本の家に月曜と火曜に伺った。

 月曜は揺れすぎて、火曜は「まあそういう方向」と言われた。

 褒められていない。

 でも少し進んでいる。

 あと十日でどこまで行けるか。

 今から考えても仕方ないが、考えずにいるのも難しかった。


 楽譜に書き込んだ文字を、一小節ずつ確認した。

「右手を遅らせる」

「ここは呼吸」

「和音の二拍目を軽く」・・それから、中盤の経過句の上に書いた「このフレーズは久美子に似ている」。

 消さないことにした字。

 誠一はその文字を見ながら、指だけを動かした。

 上がって、降りてくる。

 久美子の言い方みたいに。


 玄関のドアが開いた。

「ただいまー」

 麻央の声だった。

 バイトは十時半に終わるはずで、今夜は少し遅かった。

「おかえり」とリビングから言うと、廊下に足音がして、ドアが開いた。

 麻央がコートを着たままリビングに入ってきた。


「あれ、まだ起きてたの」

「楽譜を見てた」

「ああ」と麻央は言い、コートを脱ぎながらソファに近づいた。

 テーブルの上の楽譜を一度見て、それからキッチンに向かった。

「お腹すいた。何か食べていい?」

「食べなさい」


 麻央が冷蔵庫を開ける音がした。

 しばらくして「牛乳でいい」という声がした。

「牛乳でいいの?」と誠一は聞いた。

「気分的に」と麻央は言った。

 牛乳のコップを持って、麻央がリビングに戻ってきた。

 誠一の向かいに座った。

 コートはダイニングの椅子にかけてある。


「バイト終わりに友達と話してたの」と麻央は言いながら牛乳を飲んだ。

「来週の土曜の演奏会、友達も来たいって言ってて」

「内輪の会だ、と説明したろう」

「したよ。でも友達が『麻央のお父さんが弾くなら行きたい』って言って」

「動画のせいだな」

「そうだと思う。あの動画、まだ伸びてるし」

「麻央がコメント返しをしてるからだろう」

「それもある」と麻央は言って、牛乳をもう一口飲んだ。

「断ったよ、友達には。内輪の会だって言ったら、『そっか、じゃあ次の機会に』って」

「次があるかどうか分からない」

「あるでしょ」と麻央は言った。

「どうせまたやるじゃん」

「どうせとはなんだ」

「いい意味で」


 誠一は楽譜に視線を戻した。

 麻央がコップをテーブルに置く音がした。

「ねえ、お父さん」

「なんだ」

「なんで会社員になったの」

 誠一は手を止めた。

 唐突な質問だった。

 夜の十一時過ぎに、バイト帰りの娘がする質問とは思えない。

 でも麻央の顔を見ると、冗談を言っているわけではなかった。

 ちゃんと聞いている顔だった。


「どういう意味だ」

「だってピアノでやっていけたんじゃないの、って。コンクール三位なんでしょ。なんで会社員になったの」

 誠一は少し考えた。

「一九九三年のことがあったから、というのは言っただろう」

「それは知ってるけど。止まったことで、諦めたってこと?」

「諦めた、というより」と誠一は言った。

「止まることが怖くなった」

「止まること?」

「ステージで止まることが。また止まるかもしれない、と思ったら・・舞台に立てなくなった」


 麻央は少し考えた。

 コップを両手で持って、少し前のめりになって、考えている。

「会社員だと止まらなくてすむから?」

「止まっても誰も見ていない。仕事は止まったら怒られるが、ピアノみたいには怖くない」

「違うんだ」と麻央は言った。

「仕事の止まり方とピアノの止まり方って」

「全然違う」

「どう違うの」

 誠一は少し考えた。

「仕事で止まるのは、段取りのミスだ。悔しいが、次でやり直せる。ピアノで止まるのは・・表現が止まることだ。自分が言おうとしていたことが、言えなくなること。それはやり直しが利かない」

「その場で言い直せないの?」

「一度止まったら、その空気は戻らない。ステージには、今この瞬間しかない」

 麻央がしばらく、黙っていた。


「怖いね、それ」と麻央は言った。

「今も怖い?」

 誠一は少し間を置いた。

「そうだな」

「でも弾くんでしょ」

「弾く」

「なんで」

「分からん」

 麻央が「分からんのに弾くんだ」と言った。

 不思議そうな声だったが、責めているわけではなかった。

「大人はそういうことをするのか」とつぶやいた。

「どういうことだ」

「分からんのにやる、っていうこと」


 誠一は少し考えた。

「子どもの頃は、やる理由が分かっていたか?」

「うーん」と麻央は言った。

「分かってたかな。やりたいからやる、くらいは分かってたけど」

「それが理由なら、俺も同じかもしれない」

「やりたいからやる」

「弾きたいから弾く。理由が分かったからやるんじゃなくて、やってから分かることがある、という方が正確かもしれないが」


 麻央がしばらく、そのことを考えていた。

 コップの牛乳が少し残っている。

「私、就活で志望動機書かないといけないんだけど」と麻央は言った。

「なんでこの会社に入りたいのかって。なんか、理由を言葉にするのが難しくて」

「まだ早いだろう」

「来年から本格的に始まるから。でも今からなんとなく考えてて・・理由が言葉になる前に、気持ちが先に来るじゃない。ここで働きたいって気持ちだけあって、なんでかはまだはっきりしないみたいな」

「それでいいんじゃないか」と誠一は言った。

「就活はダメでしょ、理由がないと」

「言葉にする前に気持ちが来る、というのは正しい順番だ。言葉にするのは後でいい。先に気持ちがある方が、本物だ」


 麻央が少し黙った。

 それから「そっか」と言って、牛乳を飲み干した。

「翔にも同じこと言ってあげたらよかったのに」

「翔は聞きに来なかった」

「そうかも」と麻央は笑った。

「翔は聞きに来ないタイプだもんね」

「来てくれる方がありがたい」と誠一は言った。

「私はしょっちゅう来るよ」と麻央は言って、コップを持って立ち上がった。

「邪魔じゃない?」

「邪魔じゃない」

「よかった」と麻央は言って、キッチンにコップを持っていった。

 水道の音がして、戻ってきた。


「演奏会、楽しみにしてるよ」と麻央は言った。

「動画禁止ってことは分かってるけど」

「分かってるならスマートフォンは家に置いてこい」

「それは無理」とあっさり言った。

「でも撮らないよ。撮らないけど持っていく」

「どういう理屈だ」

「持ってないと不安なの。でもお父さんが弾いてる間は、ちゃんと見てる」

「スマートフォンではなく」

「そう。お父さんをちゃんと見てる」


 誠一は楽譜から目を上げた。

 麻央はリビングの入り口に立って、少し笑っていた。

 コートを持ち直している。

「止まっても止まらなくても」と麻央は言った。

「ちゃんと見てるから」

 誠一は「そうか」と言った。

「おやすみ」と麻央は言い、廊下に出た。

 足音が階段を上がっていく。

 部屋のドアが閉まった。

 リビングが静かになった。


 誠一はもう一度、楽譜に目を戻した。

 中盤の経過句。

「このフレーズは久美子に似ている」という字。

 止まっても止まらなくても、ちゃんと見てる・・麻央がそう言った。

 先生が「逃げてはいけない」と言った。

 久美子が「止まったことと逃げたことは違う」と言った。

 翔が「立ったことと止まったことは別のことでしょ」と言った。

 宮本が「十小節、弾いた」と言った。

 みことちゃんが「おじいちゃんより若いじゃん」と言って帰っていった。

 誠一は少し笑った。


「分からんのに弾くんだ。大人はそういうことをするのか」

 麻央はそう言った。

 そうかもしれない、と誠一は思った。

 分からないままでも、弾くことはできる。

 止まることが怖くても、立つことはできる。

 三十三年間でそれが分からなかったのは・・立つ場所がなかったからかもしれない。

 今は、ある。


 誠一は楽譜のページをめくった。

 最後の小節まで、もう一度、指だけで弾いた。

 あと十日ある。

 それで十分かどうかは、弾いてから分かる。

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