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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第十八話 「宮本の弟子たち」

 次の日曜、誠一が宮本のアパートに着くと、階段の下からピアノの音が聞こえた。

 ブルグミュラーだ、と誠一はすぐ分かった。

「アラベスク」・・右手が細かい音符を素早く動かし、左手がそれを支える、ブルグミュラー練習曲集の最初の方に収録されている曲。

 誠一が十歳でピアノを始めた頃に弾いた曲で、その後すぐにもっと難しい曲に移っていったが、あの独特のリズムは四十五年経っても分かる。


 ただ、今聞こえてくるアラベスクは、少し音が多かった。

 正確には・・同じ音を三回弾いている箇所があった。

 一回でいいところを、三回叩いている。

 音符を忘れて、確認するように同じ音を押さえている。

 これは、子どもが弾いている音だ。


 誠一は階段を上りながら、音が三階から来ていることを確認した。

 宮本の部屋だ。

 チャイムを押すと、ピアノが止まった。

 足音がして、ドアが開いた。

 宮本だった。

 今日もエプロンをしている。


「いらっしゃい、村上さん。少し早かったですね」

「すみません」と誠一は言った。

「生徒さんがいましたか」

「もうすぐ終わります。どうぞ上がってください」

 靴を脱いで廊下を進むと、部屋の中にピアノと、ピアノの前に小さな人影があった。

 女の子だった。


 小学生、三年生か四年生くらいだろうか。

 ピンクのカーディガンを着て、足がピアノのペダルに届いていない。

 椅子に浅く座って、楽譜をにらんでいる。

 にらんでいる、というのは誇張ではなく、額に少し力が入っていて、明らかに「この楽譜を見る目」をしていた。

 誠一が入ってきたのに気づいて、女の子が振り返った。

 目が合った。

 女の子は一秒ほど誠一を見てから、また楽譜に向き直った。


 誠一は部屋の端に置いてあったパイプ椅子を引いて、静かに座った。

「続けなさい」と宮本が言った。

「もう一回、最初から」

 女の子が弾き始めた。

 アラベスクの最初の小節。

 右手が動く。

 さっきよりも少し慎重だ。

 おそらく誠一が来たせいで緊張している。

 誠一には分かった。

 自分も子どもの頃は、知らない大人が見ている前では慎重になった。


 三小節目で、また同じ音を三回叩いた。

「止まらないで」と宮本が言った。

 女の子が「分かってる」と言った。

「分かってる」の言い方が少し反抗的だったが、宮本は何も言わなかった。

 五小節目まで進んだところで、女の子が「あ」と言って止まった。

「どうした」

「忘れた」

「どこを」

「ここ」と女の子は言って、楽譜の一か所を指した。

 宮本が覗き込み、「ソ、ファ、ミ、だ」と言った。

 女の子が「そっか」と言って弾き直した。


 また五小節目まで来た。

 今度は止まらなかった。

 六小節、七小節、八小節・・最後まで行った。

 ミスはいくつかあったが、止まらなかった。

「よし」と宮本は言った。

 それだけだった。

 女の子が「褒めてよ」と言った。

 宮本が「止まらなかった」と言った。

 女の子が「それが褒め言葉なの?」と言った。

 宮本が「そうだ」と言った。

 誠一は口元が緩みそうになるのを抑えた。


 止まらなかった、が褒め言葉・・これは先生の言い方と同じだ。

 正しいことが起きた時には、静かにそれを受け取る。

「もう一回」と宮本が言った。

「えーっ」と女の子が言った。

「もう一回弾いて、今日は終わり」

「一回でいい?」

「一回でいい。でもノーミスで」

「無理」と女の子は言った。

 きっぱりと言った。

「無理かどうか弾いてから言いなさい」


 女の子が再びアラベスクを弾き始めた。

 今度は少し速かった。

 終わらせようとしている速さだ。

 でも五小節目で止まらなかった。

 七小節目も止まらなかった。

 最後まで、止まらなかった。

 ミスも一か所だけだった。


「よし」と宮本は言った。

「ノーミスじゃなかったけど」と女の子は言った。

「ほぼノーミスだ」

「『ほぼ』じゃなくてノーミスって言ってよ」

「ほぼノーミスだ」と宮本はもう一度言った。

 女の子が「もー」と言って立ち上がった。

 カーディガンを整えながら、それから誠一の方を見た。


「ねえ」と女の子は言った。

「なんだ」と誠一は言った。

「おじさんも習ってるの?」

 誠一は少し考えた。

「まあ、そんなところかな」

「何年生?」と女の子が言った。

「・・学年はない」

「大人なの?」

「そうだ」

「大人なのに習ってるんだ」と女の子は言った。

 驚きというより、観察するように言った。

「うちのクラスの男の子も習ってるけど、大人が習ってるの初めて見た」

「大人も習うことがある」と誠一は言った。

「そうなんだ」と女の子は言い、誠一をもう少し観察した。

「いくつ?」

「五十五」


 女の子が考えた。

 三秒ほど、本当に考えた。

 指を折り始めたので、誠一は「計算しなくていい」と言おうとしたが、女の子が先に結論を出した。

「うちのおじいちゃんより若いじゃん」

 誠一は「そうか」と言った。

「おじいちゃん六十七だから」と女の子は言った。

「おじさんの方が若い」

「じゃあよかった」と誠一は言った。

「おじいちゃんはピアノ習ってないけど」と女の子は言った。

「だからおじさんの方がえらい」

「どうも」

「じゃあ帰る」と女の子は言って、ランドセルを背負った。

「先生、またね」

「また来週」と宮本は言った。

 女の子がぱたぱたと廊下を走って、ドアが開いて、閉まった。

 階段を下りていく音がした。

 部屋が静かになった。


 誠一は笑っていた。

 笑っている、というのが正確かどうか分からなかった。

 笑う、というより・・ほどけた、という感じだった。

 何かが、体の奥のどこかで、ほどけた。

「おじいちゃんより若いじゃん」・・そう言って去っていった。

 説明もなく、それだけ言って帰った。

 五十五歳のショパン国際コンクール三位経験者に対して、「おじいちゃんより若いじゃん」という評価を下して帰った。


 声が出た。

 腹の底から、笑いが出てきた。

 声を出して笑ったのは・・いつぶりだろうか。

 翔と幕の内弁当の話をした時も、麻央が「よんじゅうごねん!」と叫んだ夜も、それなりに笑った。

 でも今日のは、もっと違うところから来た気がした。

 力が抜けて、何も考えなくて、ただおかしい、という感覚から来た笑いだ。


「よく来ます、あの子は」と宮本は言った。

「三ヶ月になりますか。毎回同じ曲で、毎回同じ箇所でミスをする。でも止まらなくなってきた」

「止まらないで、が褒め言葉なんですね、宮本さんも」

「そうですか」と宮本は言って、少し考えた。

「先生もそういう教え方でしたか」

「一切褒めなかった。でも続けさせた。続けさせることが、先生の返事だった」

「それは私も同じかもしれません」と宮本は言った。

「毎年同じ時期に声をかけてもらった。それが私への返事だと、今は思っています」


 誠一は立ち上がり、ピアノの前の椅子に座った。

「弾いていいですか」

「どうぞ」

 鍵盤に両手を置いた。

 女の子の指が触れていた鍵盤に、今度は誠一の指が触れる。

 ブルグミュラーの次に、ショパンの夜想曲が来る。

 同じピアノ、同じ午後。


 音階から始めた。

 今日は少し指が軽い。

 体がほどけているからかもしれない。

 笑ったからかもしれない。

 三十三年ぶりに、腹の底から笑った。


 夜想曲の冒頭を弾いた。

「今のは」と宮本が言った。

「揺れすぎましたか」

「いいえ」と宮本は言った。

「今日は落ち着いていました」

 誠一は少し止まった。

 揺れていない、と言われた。

「何かいいことがありましたか」と宮本が聞いた。

「笑いました」と誠一は言った。

「それは良かった」と宮本は言った。

 それだけだった。


 誠一はまた弾いた。

 今日は十六小節より先まで進んだ。

 二十小節、二十四小節。

 詰まる箇所があったが、止まらなかった。

 止まらなかった。

 それが今日の、宮本の褒め言葉になるのかもしれない。


 帰り際、宮本がクッキーを持ってきた。

 先週と同じ、小さな丸いやつだ。

「また焼いたんですか」

「焼きます」と宮本は言った。

「あの子の分も多めに焼いておくんですが、今日は持っていかなかった」

「おじいちゃんより若い話に夢中で」

「そうかもしれません」


 誠一はクッキーを一つ食べた。

 今週も美味しかった。

 焼いたやつが、やはり美味しかった。

「あの子、名前は」と誠一は聞いた。

「みことちゃんです。漢字は難しい方の」と宮本は言った。

「みことちゃん」

「またいますよ、来週も」

「それは」と誠一は言って、少し考えた。

「楽しみですね」

 宮本が、静かに笑った。

 先生のような笑い方ではなかった。

 先生はほとんど笑わなかった。

 でも宮本の笑い方は、静かで、確かで・・何かを長年続けてきた人間の笑い方だった。


 誠一はアパートを出た。

 秋の空気が冷たい。

 でも今日は、来る時より少し体が軽かった。

「おじいちゃんより若いじゃん」

 思い出すたびに、また笑いそうになった。

 演奏会まで、あと二週間だった。

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