第十八話 「宮本の弟子たち」
次の日曜、誠一が宮本のアパートに着くと、階段の下からピアノの音が聞こえた。
ブルグミュラーだ、と誠一はすぐ分かった。
「アラベスク」・・右手が細かい音符を素早く動かし、左手がそれを支える、ブルグミュラー練習曲集の最初の方に収録されている曲。
誠一が十歳でピアノを始めた頃に弾いた曲で、その後すぐにもっと難しい曲に移っていったが、あの独特のリズムは四十五年経っても分かる。
ただ、今聞こえてくるアラベスクは、少し音が多かった。
正確には・・同じ音を三回弾いている箇所があった。
一回でいいところを、三回叩いている。
音符を忘れて、確認するように同じ音を押さえている。
これは、子どもが弾いている音だ。
誠一は階段を上りながら、音が三階から来ていることを確認した。
宮本の部屋だ。
チャイムを押すと、ピアノが止まった。
足音がして、ドアが開いた。
宮本だった。
今日もエプロンをしている。
「いらっしゃい、村上さん。少し早かったですね」
「すみません」と誠一は言った。
「生徒さんがいましたか」
「もうすぐ終わります。どうぞ上がってください」
靴を脱いで廊下を進むと、部屋の中にピアノと、ピアノの前に小さな人影があった。
女の子だった。
小学生、三年生か四年生くらいだろうか。
ピンクのカーディガンを着て、足がピアノのペダルに届いていない。
椅子に浅く座って、楽譜をにらんでいる。
にらんでいる、というのは誇張ではなく、額に少し力が入っていて、明らかに「この楽譜を見る目」をしていた。
誠一が入ってきたのに気づいて、女の子が振り返った。
目が合った。
女の子は一秒ほど誠一を見てから、また楽譜に向き直った。
誠一は部屋の端に置いてあったパイプ椅子を引いて、静かに座った。
「続けなさい」と宮本が言った。
「もう一回、最初から」
女の子が弾き始めた。
アラベスクの最初の小節。
右手が動く。
さっきよりも少し慎重だ。
おそらく誠一が来たせいで緊張している。
誠一には分かった。
自分も子どもの頃は、知らない大人が見ている前では慎重になった。
三小節目で、また同じ音を三回叩いた。
「止まらないで」と宮本が言った。
女の子が「分かってる」と言った。
「分かってる」の言い方が少し反抗的だったが、宮本は何も言わなかった。
五小節目まで進んだところで、女の子が「あ」と言って止まった。
「どうした」
「忘れた」
「どこを」
「ここ」と女の子は言って、楽譜の一か所を指した。
宮本が覗き込み、「ソ、ファ、ミ、だ」と言った。
女の子が「そっか」と言って弾き直した。
また五小節目まで来た。
今度は止まらなかった。
六小節、七小節、八小節・・最後まで行った。
ミスはいくつかあったが、止まらなかった。
「よし」と宮本は言った。
それだけだった。
女の子が「褒めてよ」と言った。
宮本が「止まらなかった」と言った。
女の子が「それが褒め言葉なの?」と言った。
宮本が「そうだ」と言った。
誠一は口元が緩みそうになるのを抑えた。
止まらなかった、が褒め言葉・・これは先生の言い方と同じだ。
正しいことが起きた時には、静かにそれを受け取る。
「もう一回」と宮本が言った。
「えーっ」と女の子が言った。
「もう一回弾いて、今日は終わり」
「一回でいい?」
「一回でいい。でもノーミスで」
「無理」と女の子は言った。
きっぱりと言った。
「無理かどうか弾いてから言いなさい」
女の子が再びアラベスクを弾き始めた。
今度は少し速かった。
終わらせようとしている速さだ。
でも五小節目で止まらなかった。
七小節目も止まらなかった。
最後まで、止まらなかった。
ミスも一か所だけだった。
「よし」と宮本は言った。
「ノーミスじゃなかったけど」と女の子は言った。
「ほぼノーミスだ」
「『ほぼ』じゃなくてノーミスって言ってよ」
「ほぼノーミスだ」と宮本はもう一度言った。
女の子が「もー」と言って立ち上がった。
カーディガンを整えながら、それから誠一の方を見た。
「ねえ」と女の子は言った。
「なんだ」と誠一は言った。
「おじさんも習ってるの?」
誠一は少し考えた。
「まあ、そんなところかな」
「何年生?」と女の子が言った。
「・・学年はない」
「大人なの?」
「そうだ」
「大人なのに習ってるんだ」と女の子は言った。
驚きというより、観察するように言った。
「うちのクラスの男の子も習ってるけど、大人が習ってるの初めて見た」
「大人も習うことがある」と誠一は言った。
「そうなんだ」と女の子は言い、誠一をもう少し観察した。
「いくつ?」
「五十五」
女の子が考えた。
三秒ほど、本当に考えた。
指を折り始めたので、誠一は「計算しなくていい」と言おうとしたが、女の子が先に結論を出した。
「うちのおじいちゃんより若いじゃん」
誠一は「そうか」と言った。
「おじいちゃん六十七だから」と女の子は言った。
「おじさんの方が若い」
「じゃあよかった」と誠一は言った。
「おじいちゃんはピアノ習ってないけど」と女の子は言った。
「だからおじさんの方がえらい」
「どうも」
「じゃあ帰る」と女の子は言って、ランドセルを背負った。
「先生、またね」
「また来週」と宮本は言った。
女の子がぱたぱたと廊下を走って、ドアが開いて、閉まった。
階段を下りていく音がした。
部屋が静かになった。
誠一は笑っていた。
笑っている、というのが正確かどうか分からなかった。
笑う、というより・・ほどけた、という感じだった。
何かが、体の奥のどこかで、ほどけた。
「おじいちゃんより若いじゃん」・・そう言って去っていった。
説明もなく、それだけ言って帰った。
五十五歳のショパン国際コンクール三位経験者に対して、「おじいちゃんより若いじゃん」という評価を下して帰った。
声が出た。
腹の底から、笑いが出てきた。
声を出して笑ったのは・・いつぶりだろうか。
翔と幕の内弁当の話をした時も、麻央が「よんじゅうごねん!」と叫んだ夜も、それなりに笑った。
でも今日のは、もっと違うところから来た気がした。
力が抜けて、何も考えなくて、ただおかしい、という感覚から来た笑いだ。
「よく来ます、あの子は」と宮本は言った。
「三ヶ月になりますか。毎回同じ曲で、毎回同じ箇所でミスをする。でも止まらなくなってきた」
「止まらないで、が褒め言葉なんですね、宮本さんも」
「そうですか」と宮本は言って、少し考えた。
「先生もそういう教え方でしたか」
「一切褒めなかった。でも続けさせた。続けさせることが、先生の返事だった」
「それは私も同じかもしれません」と宮本は言った。
「毎年同じ時期に声をかけてもらった。それが私への返事だと、今は思っています」
誠一は立ち上がり、ピアノの前の椅子に座った。
「弾いていいですか」
「どうぞ」
鍵盤に両手を置いた。
女の子の指が触れていた鍵盤に、今度は誠一の指が触れる。
ブルグミュラーの次に、ショパンの夜想曲が来る。
同じピアノ、同じ午後。
音階から始めた。
今日は少し指が軽い。
体がほどけているからかもしれない。
笑ったからかもしれない。
三十三年ぶりに、腹の底から笑った。
夜想曲の冒頭を弾いた。
「今のは」と宮本が言った。
「揺れすぎましたか」
「いいえ」と宮本は言った。
「今日は落ち着いていました」
誠一は少し止まった。
揺れていない、と言われた。
「何かいいことがありましたか」と宮本が聞いた。
「笑いました」と誠一は言った。
「それは良かった」と宮本は言った。
それだけだった。
誠一はまた弾いた。
今日は十六小節より先まで進んだ。
二十小節、二十四小節。
詰まる箇所があったが、止まらなかった。
止まらなかった。
それが今日の、宮本の褒め言葉になるのかもしれない。
帰り際、宮本がクッキーを持ってきた。
先週と同じ、小さな丸いやつだ。
「また焼いたんですか」
「焼きます」と宮本は言った。
「あの子の分も多めに焼いておくんですが、今日は持っていかなかった」
「おじいちゃんより若い話に夢中で」
「そうかもしれません」
誠一はクッキーを一つ食べた。
今週も美味しかった。
焼いたやつが、やはり美味しかった。
「あの子、名前は」と誠一は聞いた。
「みことちゃんです。漢字は難しい方の」と宮本は言った。
「みことちゃん」
「またいますよ、来週も」
「それは」と誠一は言って、少し考えた。
「楽しみですね」
宮本が、静かに笑った。
先生のような笑い方ではなかった。
先生はほとんど笑わなかった。
でも宮本の笑い方は、静かで、確かで・・何かを長年続けてきた人間の笑い方だった。
誠一はアパートを出た。
秋の空気が冷たい。
でも今日は、来る時より少し体が軽かった。
「おじいちゃんより若いじゃん」
思い出すたびに、また笑いそうになった。
演奏会まで、あと二週間だった。




