第十七話 「十月の楽譜」
十月に入った。
演奏会まで、三週間だった。
三週間というのは、短いのか長いのか。
仕事の締め切りとして考えれば、まだ時間がある。
でも演奏会の準備として考えると・・三十三年間弾かなかった人間が、三週間でショパンの夜想曲を舞台に乗せる。
短い。
明らかに短い。
誠一は毎晩、楽譜を開いた。
帰宅して夕飯を食べて、食器を洗い、風呂に入り、それから自室の机の前に座る。
鉛筆と消しゴムを出して、楽譜を広げる。
それが十月に入ってからの誠一の夜の手順になった。
弾く場所がない、という問題は、宮本が解決してくれた。
日曜の午後は宮本の部屋のアップライトを使う。
平日の夜は・・鍵盤がない。
だから誠一は机の上で、指を動かした。
楽譜を見ながら、指だけを動かす。
実際には音が出ない。
でも指が次の音を覚えていく。
五十五歳の体は若い頃より遅いが、確かに覚えていく。
楽譜は白かった。
先生の字がない。
ワルツ集の方には「もっとルバートを」「ここは歌うように」「呼吸」という先生の鉛筆の字がある。
三十三年前、誠一の隣に先生がいて、演奏を聴きながら書いた字だ。
その字を見るたびに、誠一は先生の声を聞く気がする。
でも夜想曲の楽譜は違った。
この曲は、先生が「まだ早い」と言い続けた曲だ。
「まだ早い」のまま、先生は亡くなった。
だからこの楽譜に、先生の字はない。
誠一と先生が、たどり着けなかった場所。
最初は、そのことが寂しかった。
白い余白の中に、先生の声が聞こえない。
この楽譜を開くと、静かだった。
静かすぎて、どこから手をつければいいか分からない気がした。
ワルツ集を開けば先生が「ここはこう弾きなさい」と言っている。
夜想曲を開くと・・何も言われない。
何も書いていない。
ただ印刷された音符だけがある。
でも次第に、誠一はその白さに別のものを見るようになった。
自由だ、と思った。
先生の字がない。
先生の解釈がない。
誰の声も、この余白には入っていない。
だからここには・・誠一自身の音楽だけが入る余地がある。
自由で。
逆に、怖かった。
先生の声があれば、それに従えばいい。
「ここはルバートを」と書いてあれば、揺らせばいい。
「呼吸」と書いてあれば、息を入れればいい。
でも何も書いていない楽譜の前では、全部が誠一の判断になる。
間違えても、正しくても・・それは全部、誠一の音楽になる。
三十三年間、音楽から離れていた人間が、いきなり自分の音楽を持てるのか。
分からなかった。
でも、持つしかなかった。
誠一は鉛筆を取り出した。
最初に書いたのは、ごく技術的なことだった。
「ここで右手を少し遅らせる」。
次に「左手の和音、二拍目を軽く」。
それから「フェルマータの後、間を取る」。
どれも、宮本の部屋でアップライトを弾きながら感じたことを、言葉にしたものだ。
書いてから弾く、のではなく、弾いてから書く。
誠一のやり方はそうなった。
弾いてみて、何かが引っかかる。
もう一度弾く。
また引っかかる。
何度か繰り返して、「ここだ」と思う場所に、言葉を書く。
先生の字ではない。
誠一の字で、誠一の言葉を書く。
平日の夜、指だけで弾きながら、誠一はそれを繰り返した。
水曜の夜のことだった。
夜想曲の中盤に、短い経過句がある。
右手が三つの音を上昇してから、少し降りてくる。
旋律というよりため息のような動きで、誠一はそこを弾くたびに少し止まりたくなる場所だった。
なぜ止まりたくなるのか、しばらく分からなかった。
その夜、机の上で指だけを動かしながら、誠一はその経過句を何度も繰り返した。
上がって、降りてくる。
上がって、降りてくる。
ふと、思った。
久美子に似ている。
どこが似ているのかは、うまく言葉にできない。
でも、その音の動き方が・・久美子の話し方に似ていた。
何かを言いかけて、少し迷って、少し低い声で終わる。
そういう言い方を久美子はする。
夕飯の「美味しかった?」が「まあ」で終わる感じでも、「先入りなさい」の語尾の柔らかさでもなく、もっと日常の、何でもない会話の中での・・久美子の声の動き方に、この経過句が似ていた。
誠一は鉛筆を手に取り、その経過句の上に書いた。
「このフレーズは久美子に似ている」
書いてから、少し止まった。
なんで書いてしまったのか。
これは音楽の解釈ではない。
テクニックの指示でも、表現の方向性でも、先生から教わったことでもない。
ただの・・誠一個人の、個人的な連想だ。
誠一は消しゴムを持った。
消しかけた。
しかし、消さなかった。
消す必要がどこにあるのか、と思った。
この楽譜は誰かに見せるものではない。
宮本が見るかもしれないが、「このフレーズは久美子に似ている」という書き込みを見て宮本が何を思うかは分からない。
でも別に、消す理由もない。
先生の書き込みは「呼吸」「ルバートを」「歌うように」という言葉だった。
先生はなぜその言葉を選んだのか。
その言葉が先生にとって何を意味していたのか・・誠一には全部は分からない。
先生なりの連想があったかもしれない。
先生が教えを持てた音楽があったかもしれない。
「このフレーズは久美子に似ている」という書き込みは・・誠一の音楽だ。
消さないことにした。
消しゴムを机の隅に戻して、また指を動かした。
その経過句を、今度は少し違う感触で弾いた。
言い終わる前に少し迷って、低くなる。
久美子の声みたいに。
上手く弾けたかどうかは分からない。
でも、弾き方が変わった気がした。
木曜の夜は宮本から電話があった。
「今週の日曜、いつもの時間でいいですか」
「はい」と誠一は言った。
「少し書き込みが増えました」
「見せてください」と宮本は言った。
「どんなことを書きましたか」
「技術的なことと、個人的なことと、両方」
「個人的なこと」
「一か所、家内のことを書きました」
電話口で、宮本が少し笑った気がした。
「先生も、時々そういう書き込みをしていましたよ。楽譜の端の方に、先生にしか分からないことが書いてあって・・何ですかと聞いたら、『これは私の秘密です』と言って教えてくれなかった」
誠一はその話を聞きながら、少し笑った。
「先生の楽譜に、先生の秘密が書いてあったんですか」
「おそらく。調律の仕事が終わった後、先生が鍵盤を弾くのを聴いていたことがあって・・その時の先生の顔を思い出すと、先生にしか分からない何かを弾いていたんだろうと、今でも思います」
誠一は電話を切ってから、楽譜を開いた。
「このフレーズは久美子に似ている」という字を見た。
先生の秘密があったなら・・誠一の秘密があってもいい。
金曜の夜、誠一が楽譜を眺めていると、ドアが開いて麻央が顔を出した。
「父さん、毎晩なにしてるの」
「練習」
「ピアノないのに?」
「指だけ動かしてる」
麻央が「へえ」と言って、部屋に入ってきた。
机の上の楽譜を覗いた。
「これが練習する曲?」
「そうだ」
「難しそう」
「難しい」
「どのくらい難しいの」と麻央は言いながら、楽譜の書き込みを見た。
「父さんが書いたの、これ」
「そうだ」
「『ここは息を入れる』・・息を入れるってどういうこと?」
「次の音に入る前に、少し間を取る。音楽にも呼吸がある」
「ふーん」と麻央は言って、楽譜をもう少し見た。
誠一は「このフレーズは久美子に似ている」という字が見つかるのを少し待った。
「このフレーズは久美子に似てる、って・・お母さんに似てるってこと?」
「そうだ」
「どこが」と麻央は言って、楽譜のその経過句の部分を指した。
「どこが似てるの」
「言い方が」と誠一は言った。
「何か言い終わる前に、少し迷う感じ」
麻央はしばらく楽譜を見ていた。
「お父さん、そういうところ見てんだ」と麻央は言った。
「何が」
「お母さんの」
「三十年一緒にいれば分かる」と誠一は言った。
麻央は「そっか」と言って、部屋を出ていった。
廊下から「お母さーん、お父さんがお母さんのこと楽譜に書いてるよ」という声がした。
誠一は楽譜を閉じた。
それは聞こえてなかったことにして、続きを練習することにした。
指だけで、次の小節へ。
三週間。
先生の声がない楽譜と、三週間向き合う。
それは怖いが、自由でもある。
誠一の手で、誠一の言葉で、誠一の音楽を作る三週間だ。
白い余白に、少しずつ字が増えていく。
先生がたどり着けなかった場所に、誠一がいる。
それだけのことが、今の誠一には、思ったよりも静かで・・思ったよりも重かった。




