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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第十六話 「宮本の午後」

 返事の電話をかけたのは、翌々日の木曜の昼休みだった。

 コンビニで買ったカラシ多めのおにぎりを持ちながら、誠一は会社の外の階段脇に立って、名刺の番号を押した。


「はい、宮本です」

 一コールで出た。

「村上です。先日はありがとうございました」

「ああ、村上さん。お返事いただけて」

「出ます。十月二十二日、弾かせてください」

 電話口で、宮本が少し黙った。

 一秒ほどの沈黙だった。

「ありがとうございます」と宮本は言った。

 それだけだった。

「よかった」でも「嬉しい」でもなく、「ありがとうございます」だけだった。

 それが・・先生に似ていた。

 正しいことが起きた時には、静かにそれを受け取る人だ。


「それから」と誠一は続けた。

「家族も連れて行っていいですか。妻と、息子と、娘。先生を知っている人たちの会に、知らない家族を連れて行くのは場違いかもしれないのですが」

「いいえ」と宮本は言った。

「先生は、音楽は家族と聴くものだと言っていました。ぜひ」

 誠一はおにぎりを鞄の中に戻した。

「それと、もう一つ。練習するのに、どこか使えるピアノはありますか。私の部屋にはないので」

「でしたら、うちへどうぞ」と宮本は言った。

「私の部屋に一台あります。先生のアップライトですが、音はいい。よかったら使ってください」

 先生のアップライト、という言葉が、電話越しにそのまま体に刺さった。

「・・ありがとうございます。伺っていいですか」

「いつでも。日曜の午後がご都合よければ」

「はい」と誠一は言った。

「伺います」


 日曜日の午後一時、誠一は宮本の自宅を訪ねた。

 最寄り駅から徒歩十分ほどの、古いアパートだった。

 築何年か分からないが、外壁が少し黄ばんでいて、鉄製の外階段が錆びている。

 郵便受けの文字も薄い。

 その三階の角部屋が、宮本の部屋だった。

 チャイムを押すと、すぐにドアが開いた。

 宮本はエプロンをしていた。

「いらっしゃい。上がってください」

 廊下に招き入れられた。

 玄関に、靴が三足ある。

 スニーカーが一足、革靴が一足、サンダルが一足。

 全部古そうだ。


 部屋に入ると、誠一は息を止めた。

 そこにあった。

 部屋の半分以上を占領する形で、アップライトピアノが置かれていた。

 黒いピアノだが、艶が落ちている。

 鍵盤のふたが閉まっていて、上に何枚かの楽譜が積まれている。

 足元に、小さなペダルの傷がある。

 それでも、その存在感は部屋の他のすべてを押しのけていた。

「先生のですか」と誠一は言った。

「そうです。先生が亡くなられた後、ご遺族から引き取らせてもらいました。スタインウェイの方は別のところへ行きましたが、このアップライトは・・私が引き取りたかった」


 宮本は楽譜を棚に移し、鍵盤のふたを開けた。

 白い鍵盤が現れた。

「どうぞ、弾いてみてください」

 誠一は椅子を引いた。

 パイプ椅子だった。

 ピアノ用の椅子ではなく、折りたたみのパイプ椅子が添えてある。

 宮本は「高さが合わなければ言ってください」と言ったが、誠一は「大丈夫です」と言った。


 鍵盤に両手を置いた。

 温度があった。

 鍵盤が冷たくない。

 誰かが最近触れていたような温度、ではなく・・何十年もかけて、この部屋の温度に溶け込んだような温かさだ。

 音階を弾いた。

 低い音から高い音まで、ゆっくりと。

 音が出た。

 古いアップライトにしては、粒が揃っている。

 宮本が調律し続けているのだろう。

 少しくぐもった音だが、不快ではない。

 むしろ・・落ち着く音だ。

 コンコースのグランドピアノとは全く違う音の質を持っている。

 密度がある。

 部屋の中に収まる音だ。


 音階を一通り弾いてから、誠一は夜想曲の最初を弾いた。

 Lento con gran espressione。

 ゆっくりと、大きな表現で。

 右手が旋律を取り、左手が和音を刻む。

 ショパンの夜想曲第二十番の最初の四小節。

 先生が「心の声だ」と言い、誠一が「まだ早い」と言い続けた曲の、最初だけ。

 弾き終えた。

 部屋が静かになった。


「今のは揺れすぎました」

 宮本の声がした。

 台所の方から聞こえた。

 お茶を入れているらしい。

 誠一は手を止めたまま、その言葉を聞いた。


 揺れすぎました。

 今の、どこが揺れすぎたのか。

 ルバートのことを言っているのか、強弱のことを言っているのか・・説明はなかった。

「揺れすぎました」それだけだった。

 それは先生の言い方だった。

 先生は「そこの弾み方は正しくない」とだけ言った。

 どう直せばいいかは言わなかった。

 どこが正しくないかだけ言う。

 あとは弾き直して自分で見つけなさい、という意味だった。

 宮本は「揺れすぎました」とだけ言って、台所でお茶を入れ続けている。


 誠一は少し笑った。

 自分では気づかなかった。

 四小節しか弾いていないのに、もう指摘が来た。

 しかも台所から。

 もう一度、最初から弾いた。

 今度は揺れを抑えた。

 呼吸を意識した。

 旋律を引っ張りすぎない。

「大きな表現」というのは、音を大きくすることではなく、音楽を正直に弾くことだ・・先生がそう言っていた気がする。

 弾き終えた。


「少し」と宮本の声がした。

「もう少しだけ、冒頭を抑えた方がいい。まだ揺れています」

 誠一は「はい」と言った。

 また弾いた。

 宮本はお盆を持って台所から出てきた。

 お茶と、何か小さなものが皿に乗っている。

 誠一が弾いているのを横目で見ながら、テーブルにお盆を置いた。

「少し、良くなりました」

「少し」と誠一は繰り返した。

「まだ、です」


 誠一はまた弾いた。

 今度は冒頭の和音の圧力を変えた。

 押さえつけるのではなく、鍵盤の上に手を置くだけのような感触で入る。

 弾き終えた。

「今のは」と宮本は言って、お茶を飲んだ。

「まあ、そういう方向です」

 誠一は手を膝の上に置いた。

「まあ、そういう方向」

 褒めていない。

 でも「間違っていない」という意味だ。


「先生と同じ教え方ですね」と誠一は言った。

「そうですか」と宮本は言った。

「私は教えたことがないので分かりませんが」

「指摘だけして、どう直すかは言わない。弾き直しを命じる」

「それが一番早いと思っているだけです」と宮本は言った。

「言葉で説明するより、もう一度弾いた方が分かる」

「先生もそう言っていました」

「先生に教わったんですかね、私が」と宮本は静かに笑った。

「四十二年間通ってましたから」

 誠一もしばらく、その言葉を噛みしめた。


 四十二年間、毎年先生の家に通い、ピアノを調律し、コーヒーを飲んで帰った。

 それだけのことが、宮本の中に先生を作った。

 弟子として教わったわけでも、音楽を学んだわけでもない。

 ただ、そこにいた。

 それで人は、何かを受け取ることができる。


「お茶、どうぞ」と宮本は言った。

 誠一は椅子から立って、テーブルに向かった。

 緑茶だった。

 今日のは少しましな味がした、気がした。

 皿の上に、小さな丸いものが三つ乗っていた。

「これは」

「クッキーです。焼きました」

 誠一は一つ取って、口に入れた。

 バターの味がした。

 甘さは控えめで、少し固い。

 でも美味しかった。

 素直に美味しいと思えた。


「上手ですね」と誠一は言った。

「よく作るんですか」

「好きなんです、クッキーが。焼いたやつが」

 誠一はもう一口飲みながら、その一言を聞いた。

 焼いたやつが。

 わざわざそう言った。

 当然焼いたやつだ、買ってきた既製品とは違う、ということを強調したかったのだろうか。

 あるいはただ、そういう言い方をする人なのだろうか。

 どちらにしても、宮本清三という老人が、古いアパートの一室でエプロンをしてクッキーを焼いて、調律師事務所の名刺と古い魔法瓶を持ち歩いている・・という事実が、誠一にはなんとなく温かかった。


「もう少し弾いていいですか」と誠一は言った。

「どうぞ」と宮本は言った。

「時間はたっぷりあります」


 誠一は椅子に戻った。

 夜想曲の最初から、また弾き始めた。

 今度は少し先まで進んでみた。

 六小節、八小節、十小節。

 旋律が動き出すと、和音がそれを支える。

 左手と右手が会話を始める。

 ショパンの書いた会話だ。

 百九十年前に書かれた会話が、今このアップライトから出てきている。


 十二小節目で、誠一はほんの少し揺れた。

 後ろから「今のはいい」という声がした。

 誠一は手を止めずに続けた。

 いい、と言った。

「まあ、そういう方向」ではなく「いい」と言った。

 宮本が「いい」と言った。

 先生は正しい時には何も言わなかった。

 宮本は「いい」と言う。

 それが宮本と先生の違いかもしれない。

 あるいは、同じことを違う言葉でやっているのかもしれない。

 十六小節まで進んで、誠一は手を止めた。

 部屋が静かになった。

 ピアノの音の余韻が、古いアパートの壁に吸い込まれていく。


「今日はここまでにします」と誠一は言った。

「また来てもいいですか」

「いつでも」と宮本は言った。

「クッキーも焼いておきます」

「また焼いてくれるんですか」

「好きなんです」と宮本は言った。

「焼くのも、食べるのも」


 誠一は立ち上がり、ジャケットを羽織った。

「一つだけ聞いていいですか」と誠一は言いながら、鍵盤のふたを閉めた。

「なんでしょう」

「このピアノを引き取ったのは、先生のことが好きだったからですか」

 宮本はしばらく、鍵盤のふたを見ていた。

「好き、という言い方が正しいかどうか分かりませんが」と宮本は言った。

「先生のピアノは、私が調律した音のまま、先生の演奏を受け取っていた。私の仕事の結果が全部、このピアノに入っている。そういう意味では・・自分の仕事を引き取った、という感覚に近いかもしれません」

「なるほど」と誠一は言った。

「でも、好きだったのも本当です」と宮本は静かに言った。

「先生のことは」


 誠一は玄関で靴を履いた。

「また来週、来てもいいですか」

「どうぞ。日曜の午後がいつでも空いています」

「クッキー、よかったら焼いておいてください」

「焼きます」と宮本は言った。

 当然のように言った。


 外に出ると、秋の空気が冷たかった。

 階段を下りながら、誠一は右手を開いたり閉じたりした。

 十六小節。

 まだ揺れている。

 でも「いい」と言われた十二小節目の感触が、指の中に少しだけ残っている。

 一ヶ月で、あと何小節進めるか。

 来週また来よう、と誠一は思った。

 クッキーが、美味しかった。

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