第4章 衛兵アンドレイの副業
俺はアンドレイ。
近衛兵をやっている。
今回はちょっと、えらい目に遭ったんでな。
その話をする前に、俺たちが普段どうやって宮廷の入口を守っているのか、少し説明しておいた方がいいと思う。
別に難しい仕事じゃない。
……普段ならな。
宮廷には毎日のように、いろんな人がやってくる。
公爵。
伯爵。
将軍。
外国から来た客。
宮廷にしょっちゅう顔を出す人もいれば、たまにしか来ない人もいる。
もちろん、俺みたいな若い兵士一人が、
「この人は○○伯爵、この人は○○公爵」
なんて全員の顔と名前を覚えて、一人で判断するわけじゃない。
そこは宮廷の係官や、俺たちの上官の仕事だ。
入れていい人間なのか。
招かれているのか。
身分に問題はないのか。
そういうことを確認する人間が、ちゃんといる。
俺たちはそのそばで警備する。
勝手に入ろうとする奴がいれば止める。
おかしな動きをする奴がいれば注意する。
必要なら上官を呼ぶ。
そういう仕事だ。
とはいえな。
毎日のように同じ場所へ立っていれば、こっちだって自然に人の顔くらい覚える。
「ああ、また○○伯爵だ」
とか。
「あの将軍、この前も来てたな」
とか。
宮廷へ頻繁に出入りするような人なら、嫌でも何度も顔を見ることになる。
だから俺だって、それなりに知ってるんだぞ。
エカテリーナ・アレクセーエヴナ様のお顔だって、宮廷で何度か拝見したことがある。
もちろん俺があのお方に、
「失礼ですが、お名前は?」
なんて聞くわけじゃない。
そんなことをしたら、俺の上官がどんな顔をするか分かったもんじゃないからな。
でも考えてみれば、不思議な仕事だよ。
俺は貴族でも何でもない。
普通なら、公爵や伯爵どころか、皇族のお姿をこんな近くで何度も見ることなんてないだろう。
ところが宮廷の入口に立っていると、それが仕事の一部になる。
別に話しかけるわけじゃない。
友達になるわけでもない。
向こうからすれば、入口に立っている兵士の一人にすぎない。
それでも、
「ああ、今日はあの方が来たんだな」
くらいは分かるようになる。
そういう仕事なんだ。
* * *
ところが、仮面舞踏会となると少し話が変わる。
仮面舞踏会っていうくらいだから、来る人間は顔を隠している。
でもな。
だからといって、
「誰だか分からないけど、仮面を着けているから通していいだろう」
なんてことにはならない。
そんなことをしたら、宮廷の警備なんて成り立たない。
入口では、一度仮面を外してもらう。
宮廷の係官や近衛の上官が、その人間を確認する。
知っている人物なら、
「ああ、○○様ですね」
となる。
知らない顔なら、名前や身分を確かめる。
そして問題がなければ、また仮面を着けて中へ入ってもらう。
だから俺たち入口に立つ人間は、仮面舞踏会の日でも、来る人間の素顔を見ることができる。
これが結構面白い。
中へ入ってしまえば、みんな仮面姿だ。
誰が誰なのか分からなくなる。
でも俺たちは入口で一度だけ、
「ああ、この仮面の中身は○○伯爵なのか」
と知ることができる。
俺なんか、
「へえ、この人があの○○様か」
なんて思うこともある。
もちろん全部の貴族を知ってるわけじゃないぞ。
そんなの無理だ。
でも、何度も宮廷へ来る人なら顔くらい覚える。
だから仮面舞踏会ってのは、少し面倒ではあるけれど、やること自体は単純だ。
顔が隠れている。
なら、一度見せてもらえばいい。
それだけだ。
少なくとも俺は、そう思っていた。
* * *
問題は、その日だ。
朝から妙な話は聞いていた。
今日は仮面舞踏会――というわけではない。
むしろ逆だ。
仮面は禁止。
最初に聞いた時は、何だそれと思ったよ。
仮面舞踏会なら仮面をつける。
それが普通だろう。
なのに今日は、
「仮面をつけてはいけない」
と言われる。
妙な催しだな、とは思った。
まあでも、こっちからすれば楽な話だ。
顔が最初から見えているなら、確認の手間が一つ減る。
そう考えていた。
やがて、最初の一人がやって来た。
……何というか。
最初から少し様子がおかしかった。
ものすごく立派なドレスを着ている。
髪もきれいに整っている。
化粧もしている。
遠目に見れば、どう見ても身分の高い宮廷婦人だ。
なのに。
妙におどおどしている。
落ち着きがない。
こちらと目を合わせようとしない。
あれだけ立派な格好をしている人間が、何をそんなにもじもじしているんだ?
俺は気になって、ついじろじろ見てしまった。
ところが。
顔を見ても、まったく覚えがない。
宮廷へよく来る人なら、見覚えくらいあることが多い。
でも、この人は分からない。
俺だけじゃなかったらしい。
横にいた上官も、少し首をかしげていた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
そう尋ねた。
すると、そのご婦人は何か答えた。
……らしい。
でも聞こえない。
消え入りそうな声で、何かもごもご言っている。
こっちは仕事だ。
入口で名前もはっきり言えない人間を、そのまま通すわけにはいかない。
怪しいと思われても仕方がない。
上官が、今度は少し声を強めた。
「申し訳ありません。もう一度、お名前をお願いします」
次の瞬間だった。
「○○伯爵だ! 何度言わせる!」
俺は飛び上がりそうになった。
声が太い。
ものすごく太い。
さっきまで目の前にいたのは、どう見ても若い宮廷婦人だった。
豪華なドレス。
きれいに整えられた髪。
化粧までしている。
なのに、その口から出てきたのは、完全に男の声だった。
しかも怒鳴っている。
上官も一瞬黙った。
俺も黙った。
たぶん周りにいた連中も黙った。
そしてようやく、俺は理解した。
この人。
女じゃない。
男だ。
しかも、○○伯爵本人だ。
……いや。
分かるか、そんなの。
こっちは顔を見て確認するのが仕事なのに。
顔は見えている。
仮面もしていない。
なのに、いつもと全然違うんだ。
髪も違う。
化粧もしている。
服なんて完全に女物だ。
これで、
「顔を見れば分かるだろう」
と言われても困る。
その伯爵はまだ腹を立てたまま、何やらぶつぶつ言いながら中へ入っていった。
俺はその背中を見送りながら思ったよ。
今日は、面倒な日になる。
たぶん。
とんでもなく面倒な日になる。
* * *
正直に言うと。
俺は、その時まだ何が起きているのか全然理解できていなかった。
男が女の格好をする。
そう聞けば、まあ意味は分かる。
昔、祭りの仮装で、男が女物を引っかけてふざけているのを見たことはある。
でも、ああいうのってのはさ。
男が女物を着る。
それだけだ。
見ればすぐ分かる。
「ああ、男が女の格好してるんだな」
って。
俺の中では、男の女装なんてそんなものだった。
ところが。
目の前にいるこれは、全然違った。
まずドレスがすごい。
そこらの祭りで使うような衣装じゃない。
どう見ても本物の宮廷服だ。
布もいい。
飾りも多い。
スカートなんて左右に大きく張り出している。
それだけじゃない。
胴もおかしい。
男の身体のままじゃ、あんな形にはならない。
たぶんステイズってやつで、かなりきっちり形を整えられてるんだと思う。
腰は細く見えるし、上半身の線まで完全に婦人の服に合うように作られている。
髪だってそうだ。
ただ伸ばした髪を適当にまとめてるんじゃない。
宮廷婦人と同じように、きっちり整えられている。
化粧もしてる。
顔には白粉。
頬には色。
唇にも紅。
俺たちをただの衛兵だと思ってるかもしれないけどな。
宮廷の入口に立ってると、嫌でもいろんな人を見る。
きれいなご婦人も見る。
立派なドレスも見る。
有名な貴族だって間近で見る。
だから、全然分からないわけじゃない。
少なくとも、
「これは雑な仮装だな」
とか、
「これは本気で仕上げてるな」
くらいは分かる。
で。
これは後者だった。
完全に。
何というか。
仕上げに仕上げてある。
黙って立っていれば、本当に分からない。
少なくとも俺は、一目で男だとは思わなかった。
いや。
さっき実際に間違えたんだから、間違いない。
こんなの、俺は今まで見たことがなかった。
まるで魔法だったよ。
男を女物の服に着替えさせただけじゃない。
見た目だけなら、本当に一人の宮廷婦人にしてしまっている。
だから余計に混乱した。
だって、そんな見た目の人間が突然、
「○○伯爵だ! 何度言わせる!」
って、野太い男の声で怒鳴るんだぞ。
目で見えているものと、耳から入ってくるものが、まるで一致しない。
あの瞬間だけは本気で、
俺の頭の方がおかしくなったのかと思ったよ。
* * *
幸いなことに、一人目と二人目の間には少し間があった。
たぶん向こうも向こうで混乱してたんだろうな。
馬車を受けるフットマンの連中が、全然次を送り込んでこない。
あいつらも、あいつらで、
「何なんだ、今日は」
ってなってたんじゃないかと思う。
まあ、そのおかげでこっちは少し落ち着く時間ができた。
さっきの伯爵は、本当に何だったんだ。
見た目は完全に宮廷婦人。
なのに声は男。
しかも本人は怒ってる。
そんなことを考えているうちに、二人目が来た。
今度はな。
別の意味で、みんな顔を見合わせた。
どう見ても爺さんなんだよ。
いや。
服は立派だ。
ものすごく立派だ。
大きなスカート。
豪華なドレス。
髪もちゃんと婦人風に整えられている。
顔にも化粧をしてる。
でも。
爺さんなんだよ。
どう見ても。
さっきは、
「女だと思ったら男だった」
で混乱した。
今度は、
「男なのは分かる。でも、どうしてその格好なんだ」
で混乱した。
もう、妖怪でも見てるみたいだった。
ただな。
俺は今度、分かってしまった。
「あ」
って。
この人、○○伯爵だ。
何度か宮廷で見たことがある。
年齢もあるし、顔に特徴がある。
さっきの若い伯爵みたいに、化粧と髪型だけで別人みたいになってはいない。
もちろん、格好はとんでもないことになってるけど。
でも顔を見れば分かる。
たぶん上官も同じだったと思う。
みんな一瞬、
「○○伯爵だよな」
って顔をした。
ただ。
最初の一人であれだけ揉めた直後だ。
隊長から、
今日は知ってる顔に見えても、一応名前を確認するぞ。
って空気がものすごく出てた。
そりゃそうだよな。
間違えて通すより、確認して怒られた方がまだましだ。
だから隊長も、ものすごく聞きづらそうにした。
だってどう見ても知ってる相手なんだ。
そのうえ相手は立派な伯爵様。
でも聞かなきゃいけない。
「……失礼ですが、お名前をお聞かせいただけますか」
一瞬、妙な間があった。
そして、そのご婦人――いや、伯爵は、
「○○伯爵だ」
って、しゃがれた声で答えた。
その瞬間。
たぶんその場にいた全員が、
やっぱり。
って思った。
俺も思った。
顔には出さなかったぞ。
絶対に。
出したら俺の方がえらい目に遭う。
でも、正直に言う。
笑いをこらえるのは、かなり大変だった。
だってさ。
目の前にいるのは、豪華な宮廷婦人姿の爺さんなんだぞ。
しかも俺たちはその人を知ってる。
いつもなら普通に伯爵様として宮廷へ来る人だ。
それが今日は、巨大なスカートを広げて、髪まで婦人風に整えられて、化粧までしている。
なのに声はいつものまま。
しゃがれた爺さん声。
もう本当に、
「今日は何なんだ」
って、それしか思わなかったよ。
* * *
そんなのが二人続いたもんだからな。
誰も口には出さなかったけど、入口に立っていた連中みんな、
「今日、一体何なんだ?」
って顔になってたと思う。
俺だってそうだ。
最初は綺麗な宮廷婦人かと思ったら男。
次はどう見ても爺さんなのに、豪華なドレス姿。
この調子で次は何が来るんだ。
そう思っていたところへ、三人目がやって来た。
今度は――
普通だった。
いや、本当に。
普通の貴族の旦那に見えたんだ。
ちゃんと男物の宮廷服を着ている。
髪も男らしく整えてある。
立ち方も、見たところおかしくない。
こういう人なら、宮廷ではいくらでも見る。
俺は内心ほっとした。
ああ。
やっと普通の人が来た。
ようやくこっちの頭がおかしくなったわけじゃないと確認できたような気がした。
ところが。
近づいてくるにつれて、やっぱり何か変なんだよ。
何が変なのか、最初は分からなかった。
見た目は男だ。
格好だって男だ。
でも、ものすごく機嫌が悪そうなんだ。
まあ、機嫌の悪い貴族なんて珍しくもない。
宮廷の入口に立っていれば、そんな人はいくらでも見る。
だから最初は気にしなかった。
問題はこっちだ。
一人目で痛い目を見てる。
二人目も念のため名前を確認した。
となれば、三人目だけ、
「この人は普通そうだからいいだろう」
というわけにもいかない。
隊長も同じことを考えたらしい。
でもな。
今度は今度で、ものすごく聞きにくそうだった。
だって、どう見ても普通の男性貴族なんだぞ。
その相手に、
「あなた、本当に誰ですか?」
みたいなことを聞くんだから。
それでも仕事だからな。
隊長が少し遠慮がちに尋ねた。
「……失礼ですが、お名前をお聞かせいただけますか」
相手の顔が、さらに険しくなった。
そして。
「○○伯爵夫人よ」
俺は、その場でひっくり返らなかった自分を褒めてやりたい。
夫人。
夫人だって?
俺はもう一度、その人を見た。
男物の服。
男らしく整えられた髪。
ぱっと見れば、どう見ても普通の男性貴族。
なのに。
女だった。
しかも伯爵夫人。
もう訳が分からない。
さっきまでは、
女だと思ったら男だった。
今度は、
男だと思ったら女だった。
俺は思ったよ。
今日はいったい、何を信用すればいいんだ。
服か?
顔か?
声か?
名前か?
どれを見ても、次の瞬間には裏切られる。
隊長だって、ほんの一瞬だけ固まっていた。
でもさすがに上官だ。
すぐに何事もなかったみたいな顔へ戻って、
「失礼いたしました。どうぞ」
と中へ通した。
俺も黙って敬礼した。
伯爵夫人は、見るからに腹を立てたまま宮殿の中へ入っていった。
その背中を見ながら、俺はもう一度だけ思った。
今日、本当に何なんだよ。
* * *
もうこの辺になると、俺たちもさすがに分かってきた。
いや。
何が起きているのかは、まだよく分かってない。
ただ一つだけ、
今日は普通の日じゃない。
それだけは全員分かっていた。
誰も露骨には口に出さなかったけどな。
みんな時々、顔を見合わせるんだ。
「お前も今の見たよな?」
「見た」
「じゃあ俺がおかしくなったわけじゃないよな?」
そんな顔だ。
俺たちだって宮廷勤めだ。
仮面舞踏会だの、変装した連中だの、妙な格好をした人間ならそれなりに見てきた。
だから多少のことでは驚かない。
……つもりだった。
でもその日は、明らかに何かの程度が違っていた。
そんなところへ、また一人やって来た。
俺はその姿を見た瞬間、心底ほっとした。
ああ。
今度こそ普通の人だ。
頼むから、もう勘弁してくれ。
そんな気分だったよ。
今度は立派なご婦人だった。
しかも、かなりの美人だ。
これまでにも宮廷で綺麗な女性はいくらでも見てきたけど、目の前の人はその中に混じっても全然おかしくない。
ドレスは見事。
布も飾りも申し分ない。
胴は婦人らしくきれいに整えられて、そこから大きなスカートが左右へ広がっている。
髪も完璧。
化粧もきっちりしてる。
それに、近くまで来ると香水のいい匂いまでした。
俺は思った。
これだよ。
こういう人だよ。
こういうのを普通の宮廷婦人って言うんだ。
ところが。
見覚えがない。
これだけ綺麗な人なら、一度くらい見ていたら覚えていそうなものなんだけどな。
でも本当に知らない。
隊長の様子を横から見たら、どうも向こうも同じらしかった。
また嫌な空気になった。
俺たちはもう学習してる。
見た目だけで決めるな。
今日に限っては、それが大事だ。
隊長も相当嫌だったと思うぞ。
こんなに立派なご婦人をつかまえて、また、
「あなた誰ですか」
をやらなきゃならないんだから。
それでも仕事は仕事だ。
隊長が尋ねた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
すると、その美人が口を開いた。
「○○男爵だ」
……。
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
男爵。
今、男爵って言ったよな?
目の前には、美しい宮廷婦人が立っている。
ドレスは申し分ない。
姿形も申し分ない。
髪も化粧も完璧。
香水までいい匂いだ。
なのに声だけが、
「○○男爵だ」
なんだ。
低い男の声で。
俺は本気で、
妖怪でも見てるんじゃないか
と思ったね。
昔から、バーバ・ヤーガだの何だの、不思議なものの話はいろいろ聞く。
でもな。
少なくとも俺の知っている怪物は、
ここまで綺麗なドレスを着て、
ここまで丁寧に化粧して、
香水のいい匂いをさせながら宮廷へやって来たりはしない。
たぶん。
もう何が何だか分からなかった。
さっきは男だと思ったら伯爵夫人。
今度は美人だと思ったら男爵。
俺はその時、とうとう決めた。
今日はもう、見た目を信用するのはやめよう。
* * *
次に来た人が、また最悪だった。
いや。
ある意味では最高だったのかもしれない。
もうこの頃には、俺たち全員、
見た目なんか信用するな。
って気分になってた。
だから今度の人が見えても、
「ああ、美人だな」
くらいにしか思わなかった。
かなり気の強そうな顔立ちをした、美しいご婦人だった。
ドレスも立派。
髪も化粧もきれいに決まっている。
でも、もう誰も安心しない。
俺なんか内心、
どうせまた男なんだろ。
くらいに思ってたよ。
隊長もそろそろやけくそになっていたんだと思う。
もう今日は全員聞く。
見覚えがあろうがなかろうが関係ない。
そういう空気になっていた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
すると、そのご婦人が答えた。
「○○公爵だ」
ほらな。
やっぱり男だった。
俺はそう思った。
俺自身は、その公爵の顔を知らなかった。
名前くらいは聞いたことがある。
でも近くで見た覚えはない。
ところが。
隊長の様子がおかしい。
隊長は、その公爵を知っていたらしい。
しばらく相手の顔をじっと見てから、
「……○○公爵様、ですか?」
なんて、ものすごく怪しそうに聞き返した。
「そうだ」
返ってきた声は男だった。
たぶん隊長にも聞き覚えがあったんだろう。
普通なら、そこで終わりだ。
声も合ってる。
名乗った名前も合ってる。
それなのに隊長は、まだ納得していない。
それくらい顔が違って見えたんだと思う。
無理もない。
髪型が違う。
化粧をしている。
眉も目元も印象が変わっている。
服なんて完全に宮廷婦人だ。
普段の公爵を知っている人間ほど、
「いや、こんな顔だったか?」
ってなるんだろうな。
隊長はもう一度聞いた。
「本当に、○○公爵様でいらっしゃいますか」
相手の顔が険しくなった。
「さっきからそう言ってるだろう」
声だけ聞けば、たしかに男だ。
でも見た目はどう見ても美人。
隊長も困ったんだろう。
とうとう、とんでもないことを聞いた。
「大変失礼ですが……昨冬、○○伯爵邸で○○の件がございましたね」
俺は横で、
そこまで聞くのかよ。
と思った。
明らかに、ただの名前確認じゃない。
ほとんど本人しか分からない話だ。
すると、そのご婦人――いや、公爵は、
「ああ。お前もあそこにいたな」
と答えた。
隊長は一瞬黙って。
「……大変失礼いたしました。どうぞ」
と言った。
ようやく通した。
俺はその後ろ姿を見送りながら、本気で思ったよ。
名前を聞いて。
声を聞いて。
顔を見て。
それでも信用できなくて。
最後は昔の出来事まで聞いて、ようやく本人確認。
俺たち、一体何のために顔を見てるんだ。
* * *
まあ、とにかく。
そんなこんなで、最初の夜は散々だったよ。
あのあと一体何人来たのか。
何回名前を聞き直したのか。
何回、
「本当に○○様ですか?」
なんて失礼な確認をしたのか。
もう覚えてない。
でもな。
面白いもんで、人間ってのは慣れるんだ。
あんなにわけが分からなかった催しも、何度か繰り返されるうちに、俺たちの方もだんだん分かるようになってきた。
最初の頃は、綺麗な宮廷婦人が来るたびに、
「誰だ?」
だった。
それが何度も見ているうちに、
「ああ、これは○○伯爵だな」
って分かるようになる。
いや。
考えてみれば、それもおかしな話なんだけどな。
すごく綺麗なんだぞ。
髪も化粧もきっちりしてる。
ドレスも毎回違う。
それなのに、
「あ、この人は○○伯爵」
って分かるようになるんだ。
歩き方。
顔の輪郭。
目つき。
声。
あと、本人の癖みたいなものもある。
何度も見ていれば、嫌でも覚える。
こっちだって仕事だからな。
ところが。
そうなってくると、今度は別の妙なことが起こり始めた。
どうも一部の参加者の間で、
「入口の連中に、どれだけ正体を見破られないか」
みたいなことが、妙な自慢になってきたらしい。
最初に聞いた時は意味が分からなかった。
だって、最初はみんなあれだけ嫌がってたんだぞ。
「こんな格好をさせられてたまるか」
「早く中へ通せ」
「じろじろ見るな」
って。
それが何回か経つと、
「昨日は入口で二度も名前を聞き直された」
とか。
「私は三度だった」
とか。
「隊長が最後まで俺だと信じなかったぞ」
とか。
そんな話をしてるらしい。
何を競ってるんだ、お前ら。
こっちだって、仕事だから分からなければ聞く。
それだけなんだ。
なのに。
最近じゃ、こっちが一目見て、
「ああ、○○伯爵ですね」
という顔をすると、なぜか本人がちょっと悔しそうにすることまである。
いや、待て。
最初、お前らあんなに嫌がってただろ。
どうして今、
「一発で見破られた」
みたいな顔してるんだよ。
俺にはもう分からない。
最初は、
男が女の格好をしているだけで大騒ぎだった。
次には、誰が誰だか分からなくなった。
そのうち俺たちが見分けられるようになった。
そうしたら今度は、見分けられない方がちょっとした自慢になった。
……。
なんだ、この世界。
* * *
まあ、そんなことを何度も何度もやっているうちにな。
俺も少しずつ古株になっていった。
別に出世欲が強かったわけじゃない。
ただ、俺は割と真面目に仕事をしてたし、長く勤めていれば、それなりに立場も上がる。
そのうち、あの入口じゃ俺が一番上っていう日も増えてきた。
そんなある日のことだ。
たまたま、俺一人で持ち場を見ていた時があった。
すると向こうから、一人の若い男が歩いてきた。
……いや。
正確には、若い男だと知っていた。
見た目だけなら、また立派な宮廷婦人だ。
きれいなドレスを着て、髪も化粧もきっちり整えている。
もうその頃の俺は、そういうのを見ても驚かない。
「ああ、○○伯爵だな」
くらいには分かる。
その伯爵が、ずかずか俺のところまで来た。
そして何も言わず、何かを俺の手へ押し込んできた。
見ると金だ。
俺は思わず聞いた。
「……何ですか、これ」
すると伯爵は周りを少し気にしてから、小声で言った。
「頼みがある」
「はあ」
「あとで友人と一緒にここを通る」
「はい」
「その時、俺だとすぐ分からなかったことにしてくれ」
意味が分からなかった。
俺はしばらく伯爵の顔を見た。
「いや……こんなものをいただかなくても、伯爵なら普通に通れますよ」
「そういうことじゃない」
「では何です?」
「だから、俺だと分からなかったことにしてくれ」
「……どうしてです?」
「いいから」
まったく分からなかった。
でもまあ。
別に資格のない人間を通せと言われたわけじゃない。
本人なのは俺が知ってる。
ただ、
「誰だか分からないふりをしろ」
というだけだ。
金まで渡された。
そこまで言うなら、まあいいかと思った。
「分かりました」
と答えた。
伯爵は満足そうにうなずいて、一度戻っていった。
* * *
しばらくして、本当に戻ってきた。
今度は友人と一緒だった。
二人とも、立派な宮廷婦人姿だ。
ぱっと見れば、綺麗なご婦人が二人並んで歩いてくるようにしか見えない。
でも俺には分かる。
さっき金を渡してきた本人だ。
もう一人も、何度か見たことがある。
だから仕事だけなら、何も聞かずに通してもいいくらいだった。
でも。
金をもらってるからな。
俺は真面目にやったよ。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
伯爵が答えた。
「○○伯爵だ」
俺はわざと眉をひそめた。
「……○○伯爵様、ですか?」
「そうだ」
「本当に?」
伯爵が少し嬉しそうな顔をした。
「そうだ」
俺はさらに首をかしげた。
「いや……申し訳ありません。どうにもそうは見えませんで」
「俺だ」
「しかし……本当に○○伯爵様で?」
「そうだって言ってるだろう」
「もう一度だけ確認します。本当に?」
「本当だ!」
横にいた友人が、だんだん伯爵の顔と俺の顔を交互に見るようになった。
たぶん、
「そんなに分からないものなのか」
と思ってたんだろう。
俺はもう一回聞いた。
「……○○伯爵様?」
「そうだ!」
五回くらいやったと思う。
その頃には伯爵も怒るどころか、完全に満足そうだった。
ようやく俺が、
「大変失礼いたしました。どうぞ」
と通したら、伯爵は妙に上機嫌で友人と一緒に中へ入っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら思った。
……そんなに嬉しいことなのか。
* * *
ところが。
それで終わらなかった。
しばらくしたら、また同じ伯爵が来た。
今度は別の友人を連れて。
そしてまた、こっそり金を渡してくる。
「今度も頼む」
「……またですか」
「頼む」
仕方ないから、またやった。
「失礼ですが……どちら様でしょう」
「○○伯爵だ」
「……本当に?」
「そうだ」
「どうにも信じられませんが」
「だから俺だって!」
本人はまた満足そうだった。
どうやら、
普段から自分の顔を知っている宮廷の警備にまで正体を見破られなかった
というのが、彼らにとっては相当な自慢になるらしい。
俺にはよく分からない。
最初はあんなに嫌がっていたくせに。
そのうち、
「昨日は入口で何回聞き返された」
とか、
「誰それは一度で見破られた」
とか。
そんな話まで聞くようになった。
そして気がつけば。
俺のところへ、
「今日の出来はどうだった?」
みたいな顔でやってくる奴までいる。
知らんよ。
俺は仕立屋でも化粧師でもない。
警備の人間だ。
なのに。
俺が一目で正体を見破ったかどうかが、いつの間にか妙な基準になってる。
……。
俺はいつから女装の審査員になったんだ。
まあ。
悪いことばかりでもなかったけどな。
あの伯爵、その後も何度か友人を連れてくるたびに金をくれたから。
正直。
結構いい小遣いにはなったよ。




