第二章 旦那様、お手を
俺はアントン。
二十三歳。
宮廷でフットマンをしている。
フットマンって何かって?
うーん、説明しろと言われると意外と難しいな。
扉を開けたり、客を案内したり、食事の給仕をしたり。いろいろやるんだが――まあ、ものすごく雑に言えば、馬車でやってきた偉い人を迎えて、安全に降りるのを手伝ったりする男だと思ってくれ。
馬車で宮廷へ乗りつけてくるような人間なんて、貴族だの将軍だの、俺みたいな庶民なら普通は影も踏めないような連中ばかりだ。
ところがフットマンになると話が違う。
「どうぞ、お手を」
と手を出せば、ご令嬢でも伯爵夫人でも、その手を取る。
直接だぞ。
もちろん、それで俺が偉くなるわけじゃない。
向こうは貴族で、俺は使用人だ。
そこは何も変わらない。
皇族ともなれば、もっと大勢の宮廷使用人や上役がいるから話は別だが、それでも面白い仕事だと思わないか?
極端なことを言えば、そのお嬢様に恋焦がれているどこかの王子様より、俺の方が日常的にその手を取っているかもしれない。
……まあ、王子様に聞かれたら絶対に言わないけどな。
正直に言うと、最初は少し――いや、かなり緊張した。
幸か不幸か、俺の身近には貴族に粗相をして殺された奴なんていない。
でも、主人の機嫌を損ねてひどい目に遭った使用人の話くらいなら、嫌でも耳に入ってくる。
俺みたいな庶民が、貴族のすぐそばまで近づくんだ。
そりゃ最初は、手だって震えるさ。
だけど――。
俺の場合、怖さより興奮の方が先に立った。
だって考えてみろよ。
宮廷でも名前を知られているご令嬢や、息を呑むほど綺麗な奥様が、大きなドレスの裾を広げて馬車の扉に現れるんだ。
そこで俺が手を差し出す。
「どうぞ、お手を」
すると、その人が俺の手を取る。
俺が支えれば、その人は何事もなかったみたいに優雅に馬車を降りていく。
もちろん仕事だ。
転ばせたら大変だから、こっちだって真剣だ。
でもさ。
正直に言えば――あれはちょっと気分がいい。
普段なら遠くから頭を下げるしかないような人が、俺を頼って手を預けてくれるんだから。
* * *
そんなある日のことだよ。
どうにも朝から、宮殿全体が妙な緊張に包まれていた。
これはまだ、例の「専用昇降口」ができる前の話だ。
いつものように馬車が一台、玄関前へ止まった。
扉を開ける。
中には、立派なドレス姿のご婦人がいた。
俺はいつものように手を差し出した。
「どうぞ、お手を」
そして――仰天した。
馬車から降りようとしているその人は、どう見てもご婦人だった。
華やかなドレス。
婦人らしく整えられた髪。
降りるために巨大なスカートの前を大きくつかみ上げ、その下から可愛らしい靴と、ストッキングに包まれた足首が少し覗いている。
ところが。
男だった。
一瞬、見間違いかと思ったよ。
でも、その人が俺の手を取った。
婦人用の手袋越しでも分かる。
手が大きい。
肩も広い。
しかも慣れないスカートに足を取られたのか、降り際によろめいて、ぐっと俺の腕へ体重を預けてきた。
重い。
少なくとも、いつも俺が手を取っているご令嬢とはまるで違った。
これだけ近くで見れば、もう間違えようがなかった。
男だ。
完全に男だった。
その男性はひどく不機嫌そうだった。
俺の方などろくに見もせず、挨拶らしい挨拶もしない。
そのまま巨大なスカートを両手で乱暴につかみ、宮殿の中へ入っていった。
まだ裾の扱いに慣れていないらしい。
二度ほど前につんのめり、そのたびにスカートをつかみ直していた。
俺はその後ろ姿を見たまま、その場に立ち尽くしていた。
ほんのわずかな間だったんだろう。
俺には、ずいぶん長く感じた。
次の馬車が来る音で、ようやく我に返った。
今のは何だったんだ?
冗談だったんだろうか?
あんなふざけた格好で女帝陛下の前へ出たら、ひっぱたかれるどころじゃ済まないんじゃないか。
ほら、舌を切られて遠くへ流された貴婦人の話だって、まだみんな覚えてる。
いや、でも本人はものすごく嫌そうだった。
じゃあ誰かに無理やり着せられたのか?
そんなことをして、どうやって宮殿まで来た?
もう頭の中がぐるぐるしてたよ。
今なら事情は全部知っている。
女帝陛下の催しだったんだ。
参加する連中を驚かせるのは、まあ陛下のお楽しみだったのかもしれない。
でもな。
こっちには先に事情を言っておいてほしかった。
馬車の扉を開けたら、ご婦人だと思っていた人が男だったんだぞ。
心臓に悪いにもほどがある。
* * *
まだ頭の中が混乱しているところへ、次の馬車がやってきた。
仕事はちゃんとしないとな。
扉を開ける。
また、派手なドレスだ。
まあ、それ自体は俺にとって日常風景だった。
「どうぞ、お手を」
……この時の俺の気持ちを想像してくれよ。
一瞬、バーバ・ヤーガでも馬車に乗ってきたのかと思った。
どこぞのお姫様でもそうそう選ばないんじゃないかと思うほど派手な色のドレス。
しかもスカートはさっきの男よりさらに大きい。
その巨大な裾を必死につかみ、よろよろと馬車から姿を現したのは――
爺さんだった。
いや。
年配のご婦人なら俺だって何人もお迎えしたことがある。
化粧の濃い方だっている。
だが、これはそういう話じゃない。
若く見せようとしているのか何なのか、顔はずいぶん白く塗られている。
そのくせ唇には、これでもかというほど真っ赤な紅。
正直言って、バーバ・ヤーガの方がまだ自然だったんじゃないかと思ったよ。
それでも俺は仕事だからな。
顔には出さず、いつものご婦人を扱うように手を取って、慎重に馬車から降ろした。
香水だけは、いい匂いだった。
……うん。
何しろ、あの大きなドレスってやつは、人の印象を本当に変える。
女性らしく形を整えられた胴。
そこから左右へ大きく広がるスカート。
髪も整えて、顔も白く化粧してしまえば、馬車の中に座っている姿を一瞬見ただけなら、確かに立派な宮廷婦人だ。
でもまあ。
近くで見れば――
爺さんだったな。
細く整えられた胴の下に巨大なスカートを広げて、よたよたと宮殿の奥へ遠ざかっていく爺さん。
見たことあるか?
俺はなかった。
「今日は一体どういう日なんだ」
本気でそう思ったよ。
* * *
もう、そろそろ逃げ出したくなっていた。
だって、あんなふざけた話があるか?
あれを普通に通してよかったのか?
まあ俺には衛兵みたいに人を止める権限なんてない。
でもあとになって女帝陛下から、
「どう見てもおかしい者を、何も考えず通したの?」
なんて言われたら、俺には「申し訳ございません」と頭を下げるしかない。
正直、誰か上の人間へ知らせるべきか、本気で迷った。
ところが間の悪いことに、すぐ次の馬車が来た。
もう一度バーバ・ヤーガが出てきた方が、まだ気が楽だったと思う。
扉を開ける。
今度は――男物の髪が見えた。
少しほっとしたよ。
「ああ、今度は普通の男だ」
って。
男のお客なら、普通は俺が手を取って降ろしたりしない。
扉を開けて、足元に気をつけられるよう控えていればいい。
ところが、その男――いや、その人が俺を見て、いきなり甲高い声を上げた。
「何してるの!」
俺はまた固まった。
女だった。
もう本当に気が狂うかと思ったよ。
キキモラにでも化かされてるんじゃないかと思った。
上から下まで、着ているものは完全に男物だ。
上着も、脚衣も、靴も、髪まで男性風に整えてある。
しかも――失礼だけど、あんまり似合ってなかった。
それはともかく。
俺は一瞬迷った。
見た目だけなら完全に男だ。
普通なら手なんか出さない。
でも本人は明らかに、
「早く手を出しなさい」
という顔をしている。
だから俺は慌てて手を差し出した。
男の格好なんだから、自分で普通に降りられるだろ。
……そう思ったよ。
でも、あっちだって慣れてないんだ。
いつもは長いドレスを着て、誰かに手を取ってもらって降りる人が、いきなり男物の服を着せられたって、急に動き方まで男になるわけじゃない。
結局、そのご婦人は俺の手をしっかり取って、慎重に馬車から降りた。
見た目は男。
手を取れば女。
……もう何が何だか分からなかったよ。
* * *
こりゃもう、えらいことになってるぞ――と思ったね。
明らかに普通じゃないことが進行してる。
大げさに聞こえるかもしれないが、この世の終わりか、悪魔どもの集いか。
だって馬鹿馬鹿しいじゃないか。
ドレスを着た男が、ご婦人みたいに男の手を取って馬車を降りる。
かと思えば、今度はどう見ても似合っていない男装をした女が出てくる。
「今日は一体どうなってるんだ」
そう思っているところへ、また次の馬車だ。
今度は何だ?
今度はレーシーでも乗っているのか?
そんな気分で扉を開けた。
……ところが。
今度こそ、いつもの仕事だった。
実に美しいご婦人だ。
立派なドレス。
きれいに整えられた髪。
化粧も上品で、さっきまでの二人とは比べものにならない。
「ああ、よかった」
本気でそう思ったよ。
どうやら俺の目の方はまだ正常らしい。
「どうぞ、お手を」
ところが、そのご婦人は妙な顔をした。
一瞬、俺の手を見て。
次に俺の顔を見て。
しばらく何か考えたあと――見る見る顔が赤くなった。
宮廷へ出始めたばかりのお嬢さんなのかな、と思った。
そういう人なら、たまにいる。
ところがその人は、
「いらない」
とでもいうように手を振った。
俺は困った。
だって、あの大きなスカートで一人で馬車を降りるのは簡単じゃない。
それでも本人が嫌だと言うなら、無理に触るわけにもいかない。
だから少し下がって待った。
……案の定だった。
スカートが引っかかった。
「引っかかってますよ」
思わず声をかけた。
それでも手を出してこない。
随分強情なお嬢さんだなと思ったよ。
俺みたいな庶民に触られたくないのか?
そういう人も、たまにはいる。
でもそういうご婦人なら、自分の従僕を連れてくることが多い。
この人にはそれもいない。
じゃあ何なんだ?
散々スカートと格闘した末に、その人はとうとう諦めたらしい。
ものすごく不満そうな顔をして、俺に手を差し出した。
まあ、役得だなとは思った。
こんなに綺麗な人の手を取れるんだから。
……ん?
何か違う。
手が大きい。
思っていたより力が強い。
それでも俺は慎重に支えて、どうにか馬車から降ろした。
するとその瞬間、手をぱっと振り払われた。
顔を真っ赤にして、俺の方も見ず、足早に宮殿の奥へ行ってしまった。
俺はその後ろ姿を見ながら考えた。
今の人。
見た目はどう見ても宮廷婦人だった。
それも、かなり綺麗な。
でも――
男だったよな?
そこで、ようやく分かった気がした。
たぶんあの人は、自分では当然男だと思っている。
その自分が、男の俺に手を取られて、まるでご婦人みたいに馬車から降ろされる。
それが、どうにも我慢ならなかったんじゃないか。
最後は仕方なく俺の手を借りた。
だから余計に恥ずかしくなって、あんなに真っ赤になった。
……少なくとも、俺にはそう見えた。
それにしてもだ。
これだけ近くで見ても、最初は男だと分からなかった。
あれほど綺麗に仕上がっている人間まで、好きでこんな格好をしているわけじゃないらしい。
じゃあ一体、何が起こってるんだ?
本気でそう思ったよ。
* * *
その後も饗宴は続いた。
普通に美人な――男。
それほどでもない男。
若いのもいれば、年寄りもいる。
その日に俺が迎えたドレス姿は、一人残らず男だった。
それにしても、その日はひときわドレスが立派だった。
普段なら、
「家にあったものを何とか引っ張り出してきました」
みたいな衣装の客もいる。
でも、その日に限っては、
「どこのお姫様だ?」
と思うような連中ばかり。
そしてドレスを着ているのは、一人残らず男。
さすがの俺も、そろそろ分かってきた。
ああ。
今日は、そういう日なんだ。
ただな。
見た目は完璧な宮廷婦人なのに、手を貸して降ろした途端、
「うむ。ありがとう」
と低い声で言われたりすると、やっぱり頭がおかしくなりそうだったよ。
* * *
まあ、その後、俺はこれを何度も経験することになるんだけどな。
その日は、やっとのことで入場者を全員宮殿へ送り込んだあと、同僚たちと顔を見合わせた。
「一体、何だったんだ?」
みんな同じ顔をしてたよ。
中には、何か粗相でもしたのか、参加者にえらく怒鳴られた奴もいたらしい。
まあ普通に考えれば、男があんなドレスを着て機嫌がいいわけもないだろう。
気持ちは分からなくもない。
でも俺たちに八つ当たりされてもなあ。
ところが、大変なのはそれで終わりじゃなかった。
舞踏会が終われば、今度はあの連中を馬車へ戻さなきゃならない。
俺の経験じゃ、あの大きなドレスを着ていると、降りるより乗る方が面倒だった。
まず手を取って乗せる。
段を上がる時には、前の裾を少し持ち上げてもらわないと危ない。
中へ収まったら、今度はこちらの仕事だ。
巨大な裾が車外へ残らないように、余った布をたぐって、きちんと車内へ収める。
「もう大丈夫だろ」
と思って扉を閉めようとすると、まだ裾が外に残ってる。
まあ、挟む挟む。
「少々お待ちください」
と言って、もう一度開ける。
裾を入れる。
閉める。
まだ出てる。
また開ける。
そのたびに、本人が何とも言えない顔をするんだ。
ああ。
俺はいま本当にこんな巨大なドレスを着てるんだな――。
そう改めて思い知らされるのか。
それとも、もう全部どうでもよくなってるのか。
しょんぼりしている奴も結構いたよ。
中には頑として前裾をつまもうとしない男もいた。
分かるよ。
多分あれは、男の意地ってやつだったんだろう。
「こんな女みたいな真似ができるか」
って。
でもな。
こっちからすれば、
「いや、気持ちは分かりますけど、転びますよ」
なんだよ。
仕方がないから、そういう人は俺たちが両脇から支えて、どうにか馬車へ押し込んだ。
そのころになると、噂を聞きつけたのか、周りにも人が増えていた。
といっても、街の野次馬が宮殿の玄関まで押しかけてきたって話じゃない。
別の持ち場の宮廷使用人。
御者。
他家のフットマン。
厩の連中。
どう考えても今そこにいる必要のない奴まで、遠巻きにこっちを見ている。
そりゃ見るよな。
俺だって逆の立場なら見る。
だから参加者の方も余計に焦る。
慌てて馬車へ乗ろうとして、派手に転んだ男もいた。
巨大なスカートごとひっくり返って、衣装まで壊した。
同僚によると、パニエやら下のペチコートやらが派手に見えたらしい。
俺?
興味ないね。
……いや、本当だって。
まあ、とにかく。
その日だけじゃなかった。
その後も何度も何度も、同じような催しがあった。
何人ご案内したかなんて、もう覚えていない。
最初は玄関から馬車まで歩くだけで大騒ぎしていた人が、何度か来るうちに、驚くほど上手くなることもあった。
スカートを軽く持つ。
身体を少し斜めにする。
裾を踏まない。
馬車の段を上がる時だけ必要な分を持ち上げる。
座ったら自分で布をさっと整える。
俺が、
「もうこの人にはほとんど手を出さなくていいな」
と思うくらい上手くなった「宮廷婦人」もいる。
本人がそんな技能を欲しがっていたかどうかは知らないけどな。
逆に――。
何回来ても駄目な人は、本当に駄目だった。
毎回裾を踏む。
毎回扉に挟む。
毎回、
「こんなもの、どうやって扱えというんだ!」
と怒る。
知らんよ。
俺に言うな。
まあ、後になってメタモルフォーゼ舞踏会の参加者専用の昇降口が整えられてからは、多少はましになった。
余計な人間の目にはつきにくくなったし、こっちも最初から、
「今日はあの催しだな」
と分かる。
受け入れる側にも準備というものができた。
でも、最初のあの日だけは別だ。
馬車の扉を開ける。
ご婦人がいる。
手を差し出す。
男だった。
次は爺さんだった。
今度こそ男だと思ったら女だった。
やっと普通の美女が来たと思ったら、また男だった。
今思い返しても、とんでもない一日だったよ。
だからな。
今なら、ドレス姿の男が馬車から降りてきたって何とも思わない。
「どうぞ、お手を」
それだけだ。
仕事だからな。
でも――。
最初からそうだったわけじゃない。
俺たちだって、ちゃんと驚いたんだよ。
***
「バーバ・ヤーガ」
ロシアや東欧のスラヴ民話に登場する有名な老婆の妖怪・魔女です。森の奥に住み、しばしば恐ろしい存在として描かれますが、物語によっては主人公を助けたり、試練を与えたりもします。
特徴としては、痩せた恐ろしい老婆の姿、森の小屋、巨大な臼に乗って空を移動するといったイメージが有名です。日本語で雑に言えば、「ロシア民話を代表する恐ろしい魔女ばあさん」くらいの理解で十分です。
「キキモラ」
ロシアやスラヴ地方の民間伝承に登場する女性の妖怪・精霊です。
家の中に住みつく家妖怪として語られる場合と、沼や森に現れる不気味な存在として語られる場合があり、姿も「小柄で醜い老婆」「痩せた女」「髪の乱れた怪女」など一定しません。
かなり雑に説明するなら、
「ロシア民話に出てくる、家や沼に現れて人を困らせる不気味な女妖怪」
くらいで十分です。
「レーシー」
ロシアやスラヴ地方の民間伝承に登場する森の精霊・妖怪です。
森の中で人を迷わせたり、姿を変えて旅人を惑わせたりするとされます。人間のような姿で現れることもあれば、木や獣のような姿を取ることもあります。
簡単に言えば、
「ロシア民話に登場する、森を支配して人を迷わせる妖怪」




