幕間 専用乗降口は本当にあったのか?
ここで、少しだけ創作上の設定についてお話ししておきます。
前章に登場した宮廷フットマンのアントンは、完全な架空人物です。
もちろん、
「ある日、何も知らされていなかった宮廷フットマンが馬車の扉を開けたら、宮廷婦人だと思っていた人物が実は男性で、腰を抜かすほど驚いた」
などという記録も残っていません。
実際には、宮廷使用人たちへ事前に説明があったかもしれません。
逆に、細かいことまでは何も知らされず、
「今日は特別な催しがあります」
くらいしか聞かされていなかった可能性もあります。
このあたりは、残念ながら分かりません。
ですから前章のアントンの体験は、かなり創作が入っています。
ただし。
作者としては、まったく根拠のない思いつきで書いているつもりでもありません。
史実として確認できることと、当時の宮廷生活や衣装、馬車移動の実際を一つずつ組み合わせていくと、
「少なくとも、こんな問題は起こったのではないか」
というところまでは、かなり自信を持っています。
その一つが、
参加者は、いったいどこから宮殿へ入ったのか?
という問題です。
本作では、メタモルフォーゼ舞踏会に参加する男性の多くは、自宅などで宮廷婦人姿へ仕上げられ、そのまま馬車で宮殿へやって来たものとして描いています。
化粧をする。
髪を整える。
女性用の宮廷服を着る。
巨大なスカートを身につける。
そして、その姿のまま馬車へ乗る。
この運用自体、現存する記録に、
「全員こうしていました」
と書いてあるわけではありません。
ただ、当時の宮廷仮面舞踏会では、参加者が指定された衣装で来場する例がありました。
また、大勢の男性を宮殿到着後に一斉に女性用宮廷服へ着替えさせるための巨大な専用更衣施設が存在した、という記録も今のところ確認できません。
ですから本作では、
少なくとも多くの参加者は、自宅などで支度を済ませて来たのではないか
と再構成しています。
すると。
当然、次の問題が発生します。
人に見られる。
といっても、サンクトペテルブルクの市民が宮殿の玄関へ押しかけて、
「男がドレス着てるぞ!」
と見物していた、という意味ではありません。
宮廷には宮廷の秩序があります。
しかし、普通の玄関や通常の宮廷導線を使うのであれば、
馬車を迎えるフットマン。
御者。
玄関番。
警備。
案内役。
宮廷の使用人。
廊下を行き来している人々。
場合によっては、その催しとは関係のない別の宮廷人。
そういう人々の目を完全に避けるのは、かなり難しかったはずです。
ただでさえ男性参加者の多くは、女性装そのものを好んでいなかったことが史料に残っています。
そこへさらに、
「自宅の使用人には見られた」
「馬車の御者にも見られた」
「宮殿の玄関でも見られた」
「廊下ですれ違った人間にも見られた」
となれば。
「せめて、もう少し何とかならないのか」
くらいの不満が出ても、私は不思議ではないと思っています。
そこで『カーテシー・クラブ』では、ある時期から宮廷側が少しだけ運用を改善したことにしました。
それが、
メタモルフォーゼ舞踏会参加者用の「専用乗降口」
です。
もちろん、これも史実として確認された設備ではありません。
本作独自の設定です。
ただし、大げさな建物を新しく作ったわけではありません。
もともと宮殿に存在した脇の出入口や、通常より人通りの少ない入口を、メタモルフォーゼ舞踏会開催時だけ参加者用として利用する。
馬車も、できるだけそこへ直接つける。
必要なら簡単な幕や衝立を置く。
周囲には必要最低限の宮廷使用人だけを配置する。
そして、そこから控室や会場まで、なるべく人目につかない短い経路を使う。
その程度のものです。
ですから、名称も正式な宮廷施設名ではありません。
宮廷使用人たちが便宜上、
「今日はあちらの乗降口へ」
「例の専用口へ馬車を回せ」
くらいに呼んでいるものだと思ってください。
この設定を入れた理由は単純です。
メタモルフォーゼ舞踏会が一度きりの奇妙な催しではなく、ある程度繰り返されていたのなら。
宮廷側も、毎回まったく同じ不便を放置し続けるより、
「ここは改善した方がいい」
と考えるはずだからです。
最初は通常の入口。
そこで何人もの参加者が人目を気にする。
使用人側も混乱する。
乗降にも時間がかかる。
やがて不満がたまる。
そこで、
「では次からはこちらを使いましょう」
となる。
これは史実ではありません。
あくまで本作の創作です。
ですが。
宮廷という巨大な組織が、同じ催しを何度も運営していくのであれば、こういう実務上の工夫が生まれても不思議ではない。
作者としては、そんなふうに考えています。
なお。
専用乗降口ができたからといって、参加者が誰にも見られなくなったわけではありません。
フットマンはいる。
御者もいる。
案内役もいる。
控室には衣装を直す人もいる。
結局のところ、
「見る人の数が少し減った」
程度です。
完全に隠れることなど、たぶんできません。
それでも。
巨大な宮廷婦人姿で正面玄関へ乗りつけるよりは、ずいぶん気が楽だったのではないでしょうか。
少なくとも。
前章のアントンにとっては、
「今日は何が出てくるんだ!?」
と毎回馬車の扉を開ける必要がなくなっただけでも、かなりありがたかったことでしょう。




