エピローグ――だから、いいんじゃない
数日後。
宮廷の一室。
エレーナ・ミハイロヴナ・サブーロワは。
女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの前で。
一通りの報告を終えたところだった。
次の催事について。
衣装について。
人員について。
宮廷内の実務について。
いつものように。
必要なことを。
必要なだけ。
淡々と報告した。
エレーナ「以上でございます」
エリザヴェータ「ご苦労さま」
エレーナは。
一礼した。
だが。
その場を離れなかった。
エリザヴェータが。
顔を上げた。
エリザヴェータ「まだ何かあるの?」
エレーナ「……はい」
エリザヴェータ「何かしら」
エレーナは。
一瞬。
迷った。
だが。
今日は。
言うと決めていた。
エレーナ「ところで、女帝陛下」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「メタモルフォーゼ会についてでございます」
エリザヴェータの表情が。
少しだけ。
明るくなった。
エリザヴェータ「あら」
エレーナ「はい」
エリザヴェータ「楽しいでしょう?」
エレーナは。
少し黙った。
エレーナ「……陛下」
エリザヴェータ「何?」
エレーナ「陛下は」
少しだけ。
言葉を選ぶ。
エレーナ「紛れもなく、ロシアのお方でいらっしゃいますよね」
エリザヴェータは。
眉を上げた。
エリザヴェータ「ずいぶん妙な確認をするのね」
エレーナ「失礼を承知で申し上げております」
エリザヴェータ「ええ。私はロシア人よ」
エレーナ「では」
エレーナは。
少し。
女帝を見つめた。
エレーナ「ロシアの男性たちが」
エリザヴェータ「うん」
エレーナ「どれほど面目を重んじ」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「どれほど、男らしく見られることを大切にし」
エリザヴェータ「そうね」
エレーナ「どれほど、人前で笑われることを嫌うか」
エリザヴェータは。
何も言わなかった。
エレーナ「ご存じないはずがございません」
少し。
間があった。
エリザヴェータ「今日はずいぶん大胆ね」
エレーナ「承知しております」
エリザヴェータ「どうしたの?」
エレーナ「申し上げてもよろしいでしょうか」
エリザヴェータは。
少しだけ笑った。
エリザヴェータ「ここまで言っておいて、今さら許可を取るの?」
エレーナ「念のためでございます」
エリザヴェータ「いいわ」
女帝は。
椅子へ少し深く座った。
エリザヴェータ「どうぞ。おっしゃいなさい」
エレーナは。
息を整えた。
エレーナ「一言で申し上げます」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「大混乱でございます」
エリザヴェータが。
少しだけ。
目を丸くした。
エリザヴェータ「大混乱?」
エレーナ「はい」
エリザヴェータ「そんな大げさな」
エレーナ「大げさではございません」
エレーナは。
今度は。
少し勢いをつけて話し始めた。
エレーナ「陛下の一度のお召しによって」
エリザヴェータ「うん」
エレーナ「まず本人が慌てます」
エリザヴェータ「まあ、それはそうでしょうね」
エレーナ「家族が慌てます」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「使用人が慌てます」
エリザヴェータ「そう」
エレーナ「衣装を探します」
エリザヴェータ「うん」
エレーナ「入らなければ仕立て直します」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「化粧をする者を探します」
エリザヴェータ「必要でしょうね」
エレーナ「髪を整える者を呼びます」
エリザヴェータ「そうね」
エレーナ「馬車へ乗せます」
エリザヴェータ「当然ね」
エレーナ「馬車が狭くなります」
エリザヴェータ「……それは知らなかったわ」
エレーナ「三人同時に呼ばれた家では、大変だったそうでございます」
エリザヴェータの口元が。
少しだけ。
動いた。
エレーナ「宮殿へ来れば」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「楽士が驚き」
エリザヴェータ「……」
エレーナ「給仕係が驚き」
エリザヴェータ「……」
エレーナ「警備の者まで、少なからず戸惑います」
エリザヴェータ「そうなの?」
エレーナ「そうでございます」
エリザヴェータは。
少しだけ。
楽しそうに聞いていた。
それが。
エレーナには。
余計に気になった。
エレーナ「そして」
エリザヴェータ「まだあるの?」
エレーナ「ございます」
エレーナ「終わった後も」
エリザヴェータ「うん」
エレーナ「衣装を直す者がいます」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「洗う者がいます」
エリザヴェータ「そうね」
エレーナ「噂をする者がいます」
エリザヴェータ「それは止められないでしょうね」
エレーナ「つまり」
エレーナは。
はっきり言った。
エレーナ「陛下のメタモルフォーゼ会は」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「舞踏会の中だけで終わっておりません」
部屋が。
少し静かになった。
エレーナ「宮殿の外まで」
エレーナ「ずっと続いております」
エリザヴェータは。
しばらく。
何も言わなかった。
やがて。
エリザヴェータ「……本当に、大混乱なのね?」
エレーナ「はい」
エリザヴェータ「みんな困ってる?」
エレーナ「大変に」
エリザヴェータ「男性たちは?」
エレーナ「かなり困っております」
エリザヴェータ「恥ずかしがってる?」
エレーナは。
女帝を見た。
エレーナ「非常に」
エリザヴェータは。
そこで。
少しだけ。
笑った。
満足そうな。
とても。
楽しそうな笑みだった。
エリザヴェータ「だから、いいんじゃない」
エレーナは。
黙った。
数秒。
本当に。
何も言えなかった。
エレーナ「……」
エリザヴェータ「何?」
エレーナ「……やはり」
エリザヴェータ「何かしら」
エレーナ「ご存じだったのですね」
エリザヴェータは。
答えなかった。
ただ。
手元の書類へ。
視線を戻した。
エレーナ「陛下」
エリザヴェータ「でも」
エレーナの言葉を。
女帝が遮った。
エリザヴェータ「みんな、ちゃんとやり遂げているのでしょう?」
エレーナは。
少し。
考えた。
嫌がる者はいる。
困る者もいる。
恥ずかしがる者もいる。
それでも。
衣装を用意し。
礼法を覚え。
舞踏を練習し。
最後には。
宮廷へ出てくる。
エレーナ「……はい」
エリザヴェータ「なら結構」
エリザヴェータは。
にこりと笑った。
エリザヴェータ「次も大丈夫ね」
エレーナ「陛下」
エリザヴェータ「何?」
エレーナ「今の話をお聞きになって、その結論でございますか」
エリザヴェータ「そうだけど?」
エレーナは。
小さく。
ため息をついた。
そして。
手元の書類を。
一枚。
差し出した。
エレーナ「では」
エリザヴェータ「ええ」
エレーナ「こちらが次回の候補者でございます」
エリザヴェータは。
その紙を受け取った。
名前を。
一つずつ。
眺めていく。
そして。
ある名前のところで。
指が止まった。
エリザヴェータ「あら」
エレーナ「何か」
エリザヴェータ「この人」
エレーナ「はい」
エリザヴェータ「まだ一度も着ていないのね」
エレーナは。
少し。
目を閉じた。
エレーナ「……そのようでございます」
エリザヴェータ「そう」
女帝は。
とても。
楽しそうに。
笑った。
こうして。
メタモルフォーゼ会は。
その夜も。
舞踏会が終わったあとも。
宮殿の外で。
ずっと。
続いていた。




