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第18章 グラーシャとキリル――見つかってもいいから


その夜。

キリルは。

屋敷の裏手にいた。

正確には。

庭の端。

馬車が裏手の通路を通って。

玄関近くへ回り込む途中。

植え込みが少しだけ張り出している場所だった。

ここなら。

見える。

絶対に。

見える。

馬車が戻ってくれば。

若旦那様は。

必ず。

この前を通る。

しかも。

道からは。

こちらが少し見えにくい。

キリルは。

昼のうちに。

確認していた。

たぶん。

ここが。

一番いい。

もし。

見つかったら。

当然。

怒られる。

仕事を終えたからといって。

こんなところで。

若旦那様の帰りを待ち伏せする理由など。

何もない。

だが。

キリルは。

もう。

半分。

開き直っていた。


キリル「……一回くらい、ちゃんと見たっていいだろ」


誰に言うでもなく。

そう呟いた。

何度も。

噂は聞いた。

綺麗だった。

女の人みたいだった。

奥様より若く見えた。

タチアナにも。

知らない人なら。

若い婦人と思うくらいには。

仕上げられたと聞いた。

だからこそ。

余計に。

見たかった。

本当に。

そこまで変わるのか。

自分の目で。

確かめたかった。

キリルは。

植え込みの陰で。

じっと待った。

その時。

後ろから。

小さな足音がした。


キリル「……?」


振り返る。

人影が。

こちらへ近づいてくる。

キリルは。

慌てて。

身を低くした。

誰だ。

見回りか。

使用人頭だったら。

最悪だ。

だが。

近づいてきたのは。


グラーシャ「……あ」

キリル「……お前」


グラーシャだった。

二人は。

しばらく。

無言で。

見つめ合った。


キリル「何してるんだ」

グラーシャ「それ、こっちの台詞よ」

キリル「何でここにいる」

グラーシャ「何でって」


グラーシャは。

少しだけ。

声を落とした。


グラーシャ「ここなら絶対見えるでしょ」


キリルは。

黙った。

完全に。

同じことを考えていた。


キリル「……お前もか」

グラーシャ「何よ、その言い方」

キリル「俺の方が先に見つけた場所だぞ」

グラーシャ「知らないわよ」

キリル「ここ、俺が昼に確認したんだ」

グラーシャ「私だって確認したわよ」

キリル「いつ」

グラーシャ「夕方」

キリル「……」

グラーシャ「……」


また。

少しだけ。

沈黙した。

グラーシャが。

植え込みの横に。

ちょこんとしゃがんだ。

当然のように。

キリルの隣だった。


キリル「おい」

グラーシャ「何」

キリル「一緒に見る気か」

グラーシャ「だって、あんたが騒いだら私も見つかるでしょ」

キリル「お前が騒いでも俺が見つかるんだよ」

グラーシャ「じゃあ利害一致ね」

キリル「……そういう問題か?」

グラーシャ「そういう問題よ」


キリルは。

ため息をついた。

追い返したところで。

グラーシャが素直に帰るとは。

まったく思えなかった。


キリル「見つかったら怒られるぞ」

グラーシャ「知ってる」

キリル「かなり怒られると思うぞ」

グラーシャ「たぶんね」

キリル「じゃあ帰れよ」

グラーシャ「嫌」

キリル「即答かよ」

グラーシャ「だって今日見なかったら、次いつ見られるか分からないじゃない」

キリル「……」

グラーシャ「それに」

キリル「何だよ」

グラーシャ「若旦那様、初めてなんでしょ?」

キリル「そうらしいな」

グラーシャ「初めての今日が見たいの」


キリルは。

少し。

横を見た。

グラーシャは。

本気だった。

目が。

完全に。

輝いている。


キリル「お前、本当に好きだな」

グラーシャ「何が」

キリル「こういうの」

グラーシャ「綺麗なもの見るの好きなの」

キリル「若旦那様だぞ」

グラーシャ「だから面白いんじゃない」


キリルには。

やっぱり。

よく分からなかった。

でも。

自分だって。

ここにいる。

人のことは。

言えない。


グラーシャ「ねえ」

キリル「何だよ」

グラーシャ「もし本当にすっごく綺麗だったらどうする?」

キリル「何がどうするだよ」

グラーシャ「びっくりする?」

キリル「そりゃするだろ」

グラーシャ「私、たぶん声出ちゃうかも」

キリル「出すなよ」

グラーシャ「努力する」

キリル「絶対出すな」

グラーシャ「分かったって」

キリル「本当だな」

グラーシャ「うるさいなあ」


その時。

遠くから。

音がした。

車輪。

馬の蹄。

キリルが。

すぐに。

顔を上げた。

同時に。

グラーシャが。

キリルの袖をつかんだ。


グラーシャ「来た」

キリル「分かってる」

グラーシャ「来た来た来た」

キリル「声!」

グラーシャ「ごめん」


二人とも。

急に。

静かになった。

馬車が。

ゆっくりと。

近づいてくる。

暗がりの中。

灯りが揺れる。

そして。

二人の前を通り過ぎ。

少し先で。

止まった。

イヴァンが。

先に動いた。

馬車の扉を開ける。

キリルも。

グラーシャも。

身を乗り出した。

最初に見えたのは。

布だった。

淡い色。

夜の灯りを受けて。

わずかに銀色に光る。

大きく。

広がった。

スカート。


グラーシャ「……!」


グラーシャが。

息を呑んだ。

馬車の中から。

若旦那様が。

ゆっくり。

姿を現した。

イヴァンが。

手を差し出す。

その手に。

細く整えられた指先が。

重なった。

裾を持ち。

慎重に。

馬車を降りる。

そして。

灯りの下へ。

出てきた。


挿絵(By みてみん)


キリルは。

言葉を失った。

知っている。

顔のはずだった。

何度も。

見ている。

若旦那様。

イリヤ・パーヴロヴィチ。

それなのに。

全然。

違って見えた。

白粉の乗った顔。

頬の紅。

整えられた髪。

淡いブルーグレーの。

宮廷婦人用のドレス。

大きなスカート。

細く見える腰。

遠目なら。

本当に。

若い貴婦人だった。

グラーシャは。

ほとんど。

息だけで。

呟いた。


グラーシャ「……綺麗」


キリルは。

反射的に。

答えてしまった。


キリル「……うん」


言ってから。

キリルは。

自分で。

驚いた。

横を見る。

グラーシャも。

こっちを見ていた。


グラーシャ「ね」

キリル「何だよ」

グラーシャ「綺麗でしょ」

キリル「……まあ」

グラーシャ「今、うんって言ったじゃない」

キリル「うるさい」


イリヤが。

玄関へ向かって。

歩き始める。

スカートが。

ゆっくり。

揺れる。

歩き慣れていないのか。

少しだけ。

慎重だった。

でも。

それが。

かえって。

女性らしく見えた。

グラーシャは。

もう。

完全に。

見入っていた。


グラーシャ「本当に若旦那様なんだ……」

キリル「声」

グラーシャ「だって」

キリル「聞こえるって」


その瞬間。

イリヤが。

ふと。

足を止めた。

そして。

こちらを。

見た。

二人とも。

固まった。


イリヤ「……?」


キリルの心臓が。

一気に跳ねた。


イリヤ「そこに誰かいるのか?」

グラーシャ「……!」

キリル「走るぞ」

グラーシャ「うん!」


二人は。

ほとんど同時に。

植え込みの陰から。

逃げ出した。


グラーシャ「ちょ、待って!」

キリル「お前遅い!」

グラーシャ「スカートなんだから仕方ないでしょ!」

キリル「俺まで怒られるだろ!」

グラーシャ「一緒に見てたじゃない!」

キリル「だから走れ!」


二人は。

笑いをこらえながら。

屋敷の裏手へ。

駆けていった。

見つかったのか。

見つからなかったのか。

それは。

分からない。

でも。

二人とも。

同じものを。

見た。

そして。

その夜。

グラーシャも。

キリルも。

若旦那様の。

あの淡いブルーグレーの姿を。

なかなか。

頭から追い出すことができなかった。


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