第12章 グラーシャちゃん 旦那様を目撃せよ!後編
結局。
私は負けた。
あれだけ一日中、あの部屋の近くをうろうろして。
掃除をして。
布を運んで。
お湯を運ぼうとして。
扉が開くたびに目を凝らして。
それでも。
旦那様がお支度をなさっている途中のお姿を、まともに見ることはできなかった。
一度だけ。
本当に一度だけ。
人と人の隙間から、鏡と椅子と、誰かの横顔らしきものが見えた。
でも、それだけ。
あれが旦那様だったのかどうかさえ分からない。
悲しい。
こんなに頑張ったのに。
けれど。
まだ終わったわけではない。
いよいよ、宮殿へ出発する時間が近づいてきた。
お屋敷の中が、また慌ただしくなってきた。
玄関では外套や手袋の確認。
外では御者が馬車を整えている。
従僕も行ったり来たりしている。
ということは。
もうすぐ旦那様がお出ましになる。
途中は駄目だった。
でも。
完成した旦那様なら、さすがに見ることができる。
ふふふ。
私は考えた。
旦那様がお出かけになるとき、どの廊下を通って玄関へ向かわれるのか。
そんなことくらい、私は知っている。
伊達に毎日このお屋敷で働いているわけではない。
ここ。
この廊下で待っていればいい。
私は仕事をしているふりをしながら、さりげなくその辺りに陣取った。
もちろん、本当に仕事もしている。
ただ、いつもより少しだけ時間をかけているだけである。
もうすぐ。
きっともうすぐ。
私は耳を澄ませた。
……来ない。
もう少し待った。
来ない。
おかしい。
そろそろ馬車へ向かわなければ間に合わないはずなのに。
旦那様はまだ支度が終わっていないのだろうか。
いや。
さっきから玄関のほうでは、明らかに出発準備が進んでいる。
私は嫌な予感がして、近くを通ったメイドを捕まえた。
「ねえ、旦那様は?」
「もう下へ向かわれたんじゃない?」
「え?」
「さっき奥のほうを通られたみたいよ」
私は固まった。
奥。
奥のほう?
そんな。
まさか。
旦那様。
今日に限って、いつもの道を使わなかったの?
そこでようやく気づいた。
そうだ。
旦那様だって分かっている。
今日、屋敷中の使用人が自分の姿を気にしていることくらい。
初めての舞踏会。
初めての女性装。
そんな格好で、いつものように屋敷の真ん中を堂々と歩きたいはずがない。
だったら、人目の少ない道を選ぶに決まっている。
なんてこと。
そこまで考えておけばよかった!
「ちょ、ちょっと行ってきます!」
「どこへ?」
返事はしなかった。
私は玄関へ向かって急いだ。
走るわけにはいかない。
屋敷の中をメイドが全力疾走するわけにはいかない。
でも、限界まで早足で進む。
廊下を抜ける。
階段を下りる。
玄関へ。
外が見えた。
馬車がある。
御者がいる。
扉が開いている。
間に合った!
そう思った、そのときだった。
大きく広がったスカートの後ろ姿が見えた。
ほんの一瞬。
淡い色の布。
たっぷりとした裾。
整えられた髪。
その上に外出用の羽織物。
どう見ても。
どう見ても、身分の高いご婦人だった。
その人が従僕の手を借りながら、慎重に馬車へ乗り込もうとしている。
私は足を止めた。
え?
誰?
今日、この屋敷から一緒に出かけるご婦人なんていたかしら。
いや。
待って。
まさか。
まさか、あれ。
「旦那様……?」
思わず小さな声が漏れた。
確かめたい。
顔を見たい。
せめて横顔だけでも。
あと少し。
もう少しこちらを向いてくだされば――。
ぱたん。
馬車の扉が閉まった。
「あっ」
御者が動く。
馬が歩き始める。
車輪が回る。
「ちょ、ちょっと――」
もちろん待ってくれるはずもない。
馬車は門のほうへ進んでいく。
私は玄関先で立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送った。
行ってしまった。
本当に行ってしまった。
朝からあれだけ頑張って。
何時間も追いかけて。
最後に見られたのは。
旦那様だったのかどうかも確信できない、ご婦人の後ろ姿だけ。
私は遠ざかっていく馬車を見つめた。
「……なんてことでしょう」
今日一日で、一番素直な言葉がそれだった。




