第11章 グラーシャちゃん 旦那様を目撃せよ!前編
朝から、お屋敷の中が妙に慌ただしい。
理由はもちろん分かっている。
今夜、旦那様が宮殿へお出かけになるからだ。
ただのお出かけではない。
あの、噂の――メタモルフォーゼ舞踏会。
つまり。
旦那様が、女の人の格好をなさる。
それも、ちょっとスカートを穿いてみるとか、そんな程度ではないらしい。
髪を整えて、顔に化粧をして、下着から何から全部変えて、最後には立派な宮廷婦人みたいなお姿になってお出かけになるのだとそいう。
しかも今回は、旦那様にとって初めての参加である。
失敗するわけにはいかない。
だから準備にはずいぶん時間をかけるらしい。
昨日の晩から、屋敷の中ではそんな話ばかりだった。
だったら。
だったら、見たい。
ものすごく見たい。
私は朝から、どうにかして旦那様のお姿を確認する方法はないかと考えていた。
「お茶をお持ちしましょうか?」
さりげなく申し出てみた。
「結構よ。今日は向こうで用意するから」
却下された。
「では、お湯を――」
「それも足りてるわ」
「何か運ぶものは――」
「ないわね」
ことごとく却下された。
おかしい。
私はこの屋敷のメイドなのに。
なぜ旦那様のお世話をしようとするたびに追い返されるのだろう。
まあ、普段から旦那様付きの侍女というわけではないので、当然と言えば当然なのだけれど。
それでも朝食のときだけは、なんとか遠くから旦那様のお姿を確認することに成功した。
いつもの旦那様だった。
男物の服を着て、いつもの髪で、いつもの顔で、普通に朝食を召し上がっている。
よし。
まず一回。
見た。
心の中で小さく拳を握る。
まだ何も始まっていない旦那様を見ただけなのだが、それでも妙な達成感があった。
しかも今日は、いつもよりしっかり朝食を召し上がっているように見えた。
それも当然なのかもしれない。
これから何時間もかけて衣装を着け、化粧をして、髪を整える。
いったん完全に宮廷婦人のお姿になってしまえば、好きなときに食事をしたり休んだりするのも面倒になるのだろう。
だから今のうちに、ということらしい。
聞けば、お手洗いのほうも済ませておくのだという。
なるほど。
大きなスカートをつけて、何枚もの衣類を重ねてから慌てるより、先にできることは全部やっておく。
考えてみれば当たり前の話である。
でも。
そういう話を聞けば聞くほど、私はますます気になってきた。
今はまだ、普通の旦那様。
この人が数時間後には、本当に宮廷婦人みたいになるのだろうか。
やがて朝食が終わった。
旦那様は席を立ち、屋敷の奥へ向かわれた。
どうやら、いよいよ支度が始まるらしい。
扉の向こうには、今日のために呼ばれた人たちも集まり始めている。
衣装。
髪。
化粧。
全部これからだ。
私は廊下の向こうを見つめた。
ここからが本番である。
なんとかして。
なんとかして、一度くらい見なければ。
私は決意した。
旦那様が宮廷婦人になっていくところを。
とはいえ、私には仕事がある。
旦那様が女の人になっていくからといって、廊下の掃除が勝手に終わってくれるわけではない。
朝食の食器を片づける。
厨房へ運ぶ。
戻ってくる。
そのついでに、少しだけ遠回りをする。
支度部屋の前を通る。
扉は閉まっている。
何も見えない。
仕方がないので廊下を掃く。
いつもより丁寧に掃く。
ものすごく丁寧に掃く。
扉の前あたりは特に丁寧に掃く。
「グラーシャ」
「はい!」
背後から声をかけられて飛び上がった。
先輩のメイドが、呆れた顔でこちらを見ていた。
「そこ、さっきも掃いてなかった?」
「……埃が」
「そんなに?」
「今日は特に多いような気がして」
「そう」
絶対に信じていない顔だった。
私は何食わぬ顔でもう一度箒を動かした。
すると。
かちゃり。
扉の金具が鳴った。
来た!
私は思わず背筋を伸ばした。
扉が開く。
ほんの一瞬だけ、部屋の中が見えた。
――けれど。
人が立っていて、よく見えない。
「ああ、こちらをお願いします」
誰かが布の束を受け取る。
扉が閉まる。
終わった。
何も見えなかった。
私は再び床を掃いた。
同じところを。
三度目である。
そのあと私は、清潔な布を運ぶ仕事があると聞いて、すぐに名乗り出た。
「私が行きます!」
「ずいぶん張り切るわね」
「働くのが好きなんです」
「朝からそんなこと言ってたかしら」
余計なことを言わないでほしい。
ともかく布を抱え、私は再び屋敷の奥へ向かった。
ところが、支度部屋の前まで来ると、そこにはもう受け取り役の女性が待っていた。
「あら、ありがとう。こちらで預かりますね」
「あの、中まで――」
「大丈夫ですよ」
にこやかに言われた。
入れてくれなかった。
私は布を渡す。
女性は扉を開ける。
私は首を伸ばした。
あと少し。
あと少しで中が――
ぱたん。
閉まった。
「……」
見えたのは、机の端だけだった。
ただ、その机の上には、小さな瓶や箱のようなものがいくつも並んでいた。
あれが化粧道具だろうか。
朝食のときにはいつもの顔をしていた旦那様が、今頃あれを使われている。
そう考えると、急に現実味が増してきた。
さらにしばらくすると、見覚えのない女性が屋敷へやってきた。
三十代か、もう少し上だろうか。
派手な格好ではない。
けれど服装はきちんとしていて、動きに迷いがない。
片手には小さな箱。
もう片方には布に包まれた細長い荷物。
その後ろから、さらに別の者が道具らしきものを運んでいる。
私は廊下の端で足を止めた。
女性は屋敷の者に案内され、そのまま旦那様のいる部屋へ向かっていく。
「旦那様のお支度はこちらですね」
そう言って、何のためらいもなく扉の向こうへ消えた。
私は隣にいたメイドへ小声で尋ねた。
「ねえ」
「何?」
「今の方、誰?」
「知らないの?」
「知らない」
「ああいうお支度をする方でしょう」
「ああいうって?」
相手は私の顔を見た。
「お化粧よ」
私は扉を見る。
「……旦那様の?」
「ほかに誰がいるのよ」
それはそうだった。
けれど。
分かっていたことなのに、改めて言葉にされると妙な感じがする。
今、この扉の向こうで。
朝まで普通に男の人の顔をしていた旦那様が。
あの女性に顔を触られて。
粉をつけられて。
紅を差されて。
眉や目元まで整えられている。
たぶん。
いや。
絶対に。
「どんなふうになるのかな……」
思わず呟くと、隣のメイドが笑った。
「そんなに気になるなら、帰ってくるまで待っていればいいじゃない」
「それでは途中が見られないじゃない」
「途中まで見たいの?」
「だって、朝は普通だったのよ?」
「知ってるわよ」
「そこからどうやって変わるのかが知りたいの」
相手は少し考えてから言った。
「……あなた、今日ちゃんと仕事してる?」
「してるわよ!」
そこだけは強く否定しておいた。
ちゃんと仕事はしている。
ただし。
可能な限り、この廊下の近くで。
昼が近づいてきても、支度はまだ終わらないらしい。
ずいぶん時間がかかるものだ。
途中でお湯が運び込まれた。
布が出てきた。
空になった小瓶の箱も運ばれていった。
一度だけ、男物の上着らしきものを抱えた使用人が部屋から出てくるのも見た。
私は思わずそれを目で追った。
あれ。
朝、旦那様が着ていたものではないだろうか。
ということは。
もう、少なくとも朝と同じ格好ではない。
当たり前だけれど。
扉一枚向こうで、確実に何かが進んでいる。
それなのに。
私には何も見えない。
なんともじれったい。
そのとき。
また扉が開いた。
今度こそ。
私はさりげなく――できるだけさりげなく――そちらへ顔を向けた。
ほんの一瞬。
人と人の間。
椅子。
白い布。
鏡。
そして。
誰かの横顔らしきものが――
「あ、グラーシャ!」
「はいっ!」
後ろから呼ばれた。
振り返る。
「厨房から呼ばれてるわよ!」
「い、今!?」
「今」
もう一度扉を見る。
ぱたん。
閉まった。
私はしばらく、その扉を見つめていた。
たぶん。
今。
もう少しだった。
絶対にもう少しだった。
「……負けないから」
私は誰にともなく呟いた。
旦那様のお支度が終わるのが先か。
私がそのお姿を目撃するのが先か。
勝負である。




