第一章 舞踏会の外側
こんにちは。
グラーシャです。
……ええと。
こういうのって、何から書けばいいんでしょう。
日記ならいつも書いているんですけど、人に読んでもらうつもりで書くとなると、なんだか急に難しくなりますね。
とりあえず自己紹介から。
グラーシャです。
十八歳です。
お屋敷でメイドをしています。
正しくはアグラフェーナという名前なんですけど、みんなグラーシャと呼ぶので、私も自分のことをグラーシャだと思っています。
お父さんもお母さんも、このお屋敷で働いています。
私は小さいころからここで育ちました。
だから、
「メイドになったのはいつですか?」
と聞かれると、ちょっと困ります。
十二、三歳のころにはもう、お母さんについて洗濯物を運んだり、布を畳んだりしていました。
十五歳くらいになると、普通に仕事を言いつけられるようになりました。
今では掃除もします。
縫い物もします。
荷物も運びます。
お客様がいらっしゃった時には、どこにいたら邪魔になるかも分かります。
失敗することもありますけど。
この間、お皿を一枚割りました。
あれは私が悪いんじゃありません。
床が滑ったんです。
……たぶん。
それから私は、日記を書いています。
毎日ではありません。
疲れて寝ちゃうこともありますし。
そもそも、毎日そんなに面白いことが起きるわけでもありません。
「今日は洗濯物を運びました」
「今日は床を掃除しました」
「今日はジャガイモの皮をむくのを手伝いました」
そんなことばっかり書いても、あとで読んで面白くないでしょう?
だから、面白いことがあった時に書きます。
誰かが変なことを言ったとか。
新しいお客様が来たとか。
旦那様が怒られたとか。
ヴァーニャが嘘をついたとか。
あ。
ヴァーニャというのは、イワンのことです。
小さいころからの友達です。
あいつもこのお屋敷で働いています。
今はフットマンです。
子供のころは一緒に遊んでいたのに、今では立派な服を着て、玄関に立ったり、馬車の扉を開けたりしています。
ちょっとだけ格好よくなりました。
本人には絶対に言いませんけど。
それでですね。
ここ最近、日記に書くことがずいぶん増えました。
理由は一つです。
旦那様です。
うちの旦那様が、このところ妙な舞踏会によく呼ばれるんです。
もちろん舞踏会そのものは珍しくありません。
旦那様は貴族ですから。
宮廷へ行くこともあります。
きれいな服を着て、髪を整えて、馬車に乗って出かけます。
そこまでは普通です。
でも最近は。
時々、朝から屋敷の様子がおかしいんです。
知らない仕立屋さんが来ます。
大きな箱が運ばれてきます。
女の人が何人か二階へ上がっていきます。
化粧道具が運ばれます。
鬘まで来ます。
しかも。
女性用です。
最初は、
「お客様でも来るのかな?」
と思いました。
でも違いました。
全部、旦那様のでした。
旦那様が、
女の人の格好をして、
宮廷へ行くんです。
……いやいや。
私だって最初は信じませんでしたよ。
そんなわけないじゃないですか。
だって旦那様、男ですよ?
しかも、その辺の娘が着るような服じゃないんです。
ものすごく大きいドレスです。
スカートなんて、
「これ、どうやって扉を通るんだろう」
と思うくらい横に広がっています。
私だってあんなの着たことありません。
たぶん一生着ません。
それを旦那様が着るんです。
で。
私は見たいんです。
すっごく見たいんです。
でも見られません。
私は旦那様付きの侍女ではありません。
勝手に旦那様のお部屋へ入ったら怒られます。
ましてや着替えているところなんか見られるわけがありません。
だから私は、情報を集めます。
誰が二階へ上がった。
どんな箱が届いた。
何色の布だった。
どんな靴だった。
鬘はどんな形だった。
そして一番頼りになるのが、ヴァーニャです。
あいつは旦那様が外出する時に近くにいますから。
「ねえ」
「なんだよ」
「昨日の旦那様、どんなだった?」
「知らねえ」
「見たでしょう」
「見てねえ」
「だって馬車に乗せたんでしょう?」
「仕事だからな」
「じゃあ何色だった?」
「何が」
「ドレス」
「知らねえよ」
「何色?」
「……青」
「見てるじゃない!」
こういう奴です。
本当に腹が立ちます。
でも、青だったそうです。
薄い青。
銀色の飾りがついていて。
髪も女性みたいにしてあって。
化粧までしていたそうです。
きれいだったか聞いたら、
「知らねえ」
と言いました。
絶対きれいだったんだと思います。
だって、否定しなかったから。
なので、その日の私の日記には、こう書いてあります。
――旦那様、青いドレス。
――ヴァーニャは何か隠している。
――たぶん綺麗だった。
私は、こういうことを書いています。
別に偉い人の記録を残そうなんて思っていません。
ただ、面白いからです。
だって。
旦那様が女の人みたいな格好をして宮廷へ行くんですよ?
書くでしょう。
普通。
* * *
――と。
もしグラーシャの日記が本当に残っていたなら。
私たちは、ずいぶん助かったはずなのです。
ここまで四巻にわたって描いてきたメタモルフォーゼ舞踏会。
その記録を調べていくと、分かることは意外なほど限られています。
エカチェリーナ二世の回想録などから、エリザヴェータ女帝の時代に、男女が服装を逆転させる仮面舞踏会が実際に行われていたことは分かります。
男性たちは女性の服を着せられました。
女性たちは男性の服を着ました。
男性の多くがそれを嫌がっていたことも記されています。
しかし。
そこで終わりです。
旦那様は、どこで着替えたのでしょう?
誰が着せたのでしょう?
家の使用人は見たのでしょうか?
馬車に乗る時、どうしたのでしょう?
巨大なスカートをどうやって車内へ収めたのでしょう?
宮殿の玄関で降りる時は?
そこにいたフットマンは何を思ったのでしょう?
門番は?
衛兵は?
給仕係は?
そういう記録は、ほとんど残っていません。
グラーシャちゃんが本当に熱心に日記を書いてくれていたとしても、それが今日まで残っていない以上、どうしようもありません。
ロシア革命の混乱で消えてしまったのか。
どこかの屋敷の倉庫で朽ちたのか。
うっかり者のグラーシャちゃん本人が失くしたのか。
あるいは。
「お前、俺のことをこんなに書いていたのか!」
と旦那様に発見されて、暖炉に放り込まれたのか。
それも分かりません。
そもそもグラーシャそのものが、本作の架空人物なのですが。
しかしですね。
記録が残っていないからといって、
「何も考えられません」
で終わる必要はありません。
分かっていることを一つずつ並べていくと、かなり面白いことが見えてきます。
まず。
メタモルフォーゼ舞踏会へ参加する男性は、完全な宮廷婦人姿になります。
簡単な仮装ではありません。
女性用の下着類。
身体の形を整える衣類。
大きく横へ広がるスカート。
宮廷用のドレス。
女性風の髪。
必要なら鬘。
そして化粧。
これを何十人もの男性について、宮殿へ到着してから一斉に行う。
そんな大規模な専用更衣施設が用意されていた、という記録は今のところ確認できません。
もちろん宮殿に部屋がなかった、という意味ではありません。
宮殿なのですから、部屋ならたくさんあります。
特別な催しのため、宮殿側で着替えを行った参加者がいた可能性もあります。
しかし当時の宮廷仮面舞踏会では、招待客に指定された衣装で来場することを求める例があります。
となれば。
少なくとも多くの参加者は、
自分の屋敷などで支度を済ませ、その姿のまま馬車で宮殿へやって来た。
そう考えるのが、かなり自然なのです。
想像してみてください。
若い美男子でも。
立派な髭のある軍人でも。
お腹の出た中年貴族でも。
白髪のおじいさんでも。
その日の招待客であれば、自宅で女性用の衣装を身につける。
化粧をする。
髪を整える。
巨大なスカートを装着する。
そして。
その格好で自分の部屋を出る。
廊下を歩く。
階段を下りる。
玄関を通る。
庭へ出る。
待っている馬車へ向かう。
もう、この段階で、
「誰にも見られたくない」
という願いは、かなり難しい。
着付けをした人には見られる。
化粧をした人にも見られる。
髪を整えた人にも見られる。
玄関の使用人にも見られる。
御者もいる。
フットマンもいる。
馬車の扉を開けてもらわなければならない。
巨大なスカートを着たまま一人で軽々と馬車へ飛び乗る、というわけにもいかない。
ここで、ヴァーニャのような男が登場するわけです。
「旦那様、お手を」
いつもなら男性貴族として仕えている主人が、その日に限って完全な宮廷婦人姿。
白手袋をした主人の手を取る。
裾を踏まないよう気をつける。
馬車へ乗せる。
扉を閉める。
そして御者が馬を走らせる。
……見ていますよね。
どう考えても。
馬車そのものは閉じられたものもありますから、街中の人々が車内の主人を全員見た、とまでは言えません。
しかし出発するところ。
到着するところ。
そこで働いている人々。
少なくとも、そのあたりから完全に隠れるのは難しい。
そして宮殿へ着けば、さらに人がいます。
玄関。
門番。
宮廷の従僕。
案内役。
警備。
給仕。
もちろん彼らまでドレスを着ていたという記録はありません。
むしろ通常の宮廷勤務と考えれば、フットマンはリヴリーを着て、衛兵は軍装をしていたと考える方が自然でしょう。
すると。
これまで私たちは、ずっと
「ドレスを着せられた男性はどんな気持ちだったのか」
ばかり考えてきました。
でも。
その横には必ず、
普通の格好をした人たちがいた。
わけです。
いい歳をした伯爵が、スカートの裾を持ち上げて歩いてくる。
若い軍人が化粧をしている。
高官が宮廷婦人のドレスを着て、馬車から降りようとして悪戦苦闘している。
彼らを仕事として迎える人たちは、何を思ったのでしょう。
「お気の毒に」
と思ったでしょうか。
「似合っているな」
と思ったでしょうか。
笑いをこらえた人もいたでしょうか。
何度も見ているうちに、
「はい、次の方どうぞ」
くらいになった人もいたでしょうか。
何も分かりません。
彼らは回想録を残してくれませんでした。
少なくとも、今のところ私たちはそれを読めません。
でも。
理屈を一つずつ積み上げていけば、
そこに彼らがいた
ことだけは見えてきます。
メタモルフォーゼ舞踏会は、大広間の中だけで起きていたのではありません。
屋敷でドレスを用意するところから始まっていた。
メイドが化粧道具を運ぶ。
仕立屋が裾を直す。
フットマンが主人を馬車へ乗せる。
御者が宮殿まで運ぶ。
宮廷使用人が迎える。
そして舞踏会が終われば、また馬車に乗せて家へ帰す。
翌朝には、ドレスを片付ける人がいる。
洗う人がいる。
破れた部分を直す人がいる。
そしてきっと。
使用人部屋のどこかでは、
「昨日の旦那様、どうだった?」
という話もしていたでしょう。
ここまで『カーテシー・クラブ』では、舞踏会の中にいる人々を描いてきました。
この巻では。
少しだけ扉の外へ出てみましょう。
メイド。
フットマン。
御者。
仕立屋。
宮廷使用人。
警備兵。
料理人。
そして、たまたまそれを目撃した人々。
歴史にはほとんど名前を残さなかった人たちから、
あの奇妙な宮廷行事を眺めてみます。
――「お城の外」のメタモルフォーゼ舞踏会。
どうぞ、お楽しみください。




