第73話 傷だらけの夜
町へ戻るころには、すっかり日が落ちていた。
北部の夜風は冷たい。
街道の両脇に並ぶ建物の屋根には薄く雪が積もり、窓から漏れる橙色の明かりだけが道を照らしている。
「……痛っ」
歩きながら、シルヴァが右肩を押さえた。
ラースに蹴り飛ばされた場所だ。
その後もネイラの鎖や体術を何度も受けたせいで、身体中が痛む。
黒い外套もところどころ裂けていた。
ティナが横目で見る。
「今さら痛がるの?」
「戦ってる時は気にならないんだよ」
「さっきまであれだけ動き回ってたのに」
「終わった瞬間に全部来た」
「自業自得」
「厳しくない?」
そう言うティナも、人のことは言えなかった。
脇腹にはゼインの短剣が掠めた傷。
腕にも細かな切り傷がある。
何より、《構装・連装》を長時間使った反動が大きい。
歩き方こそ普段と変わらないように見せているが、明らかに足取りが重かった。
少し後ろを歩くクジャは、さらに静かだった。
シルヴァが振り返る。
「クジャ、大丈夫?」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「右眼がちょっと痛いだけ」
クジャは眼帯の上から右眼へ触れる。
ネイラの《標跡》。
鎖の再生。
肉体の再生。
それらのオーラの流れを見続けた負担が残っている。
「頭は?」
ティナが聞く。
「少し重い」
「今日はもう右眼使わないでね」
「使う予定ない」
「予定なくても使う時あるでしょ」
「ティナ、最近心配性」
「誰のせいだと思ってるの」
クジャが少し笑った。
シルヴァも笑う。
その瞬間、肩へ響いた。
「いっ……」
「笑うだけで痛いの?」
「今のは響いた」
「早く宿行こう」
「その前に飯――」
「治療が先」
ティナが即答する。
クジャも頷いた。
「治療」
「二対一かよ」
「多数決」
「こういう時だけ民主的だな……」
◇
宿に入り、二部屋を取った。
そのまま三人は片方の部屋に集まり、治療を始める。
「動かないで」
「動いてないって」
「今動いた」
「薬がしみたから!」
椅子に座ったシルヴァの右肩へ、ティナが薬を染み込ませた布を押し当てる。
「痛っ!」
「だから動かない!」
「ラースの剣より痛いんだけど!」
ベッドに座っていたクジャが言う。
「それは嘘」
「体感ではこっち」
「ネイラに蹴られた時、笑ってた」
「戦ってる時だから!」
「じゃあ今も戦ってると思えば?」
ティナが傷を拭きながら言う。
「何とだよ」
「消毒液」
「勝てる気しねえ」
クジャが吹き出した。
シルヴァがそちらを見る。
「何笑ってるんだよ」
「シルヴァ、消毒液には弱い」
「誰でも弱いだろ!」
またクジャが笑う。
戦いの直後。
疲れている。
眼も痛い。
それでも。
以前より、クジャはこういう時に笑うようになった。
シルヴァが何となくその顔を見ていると。
「何?」
「いや」
「変な顔してる」
「してない」
その瞬間。
ティナが布を強めに押しつけた。
「痛っ!」
「ぼーっとしてるから」
「何でそれが罰になるんだよ!」
「治療中はじっとしてて」
「理不尽……」
◇
三人分の治療を終えた頃には、かなり遅い時間になっていた。
一階の食堂には、もうほとんど客がいない。
店主に頼み、残っていた肉と根菜の煮込み、パンを出してもらう。
湯気が上がる。
シルヴァは席に着くなり匙を取った。
「いただきます」
「早い」
ティナが言う。
「腹減ったんだよ」
一口。
シルヴァの表情が緩む。
「……うま」
クジャも食べる。
「うん」
三人とも。
しばらく無言だった。
朝の焼き菓子からまともな食事を取っていない。
煮込みとパンが次々減っていく。
シルヴァが二杯目を頼んだところで、ティナが口を開いた。
「ラース、強かったね」
「ああ」
シルヴァは迷わず答えた。
クジャがパンをちぎりながら見る。
「今のシルヴァより強い」
「……分かってる」
「素直」
「俺だって分かる時は分かる」
「途中から押されてたしね」
ティナが言う。
「それも分かってるって」
《絶対零度》の出力を上げたあとのラース。
速度。
剣技。
極端な冷気。
氷で戦場そのものを作り変える力。
シルヴァも食らいついた。
傷も入れた。
それでも。
戦いが続いていれば、今はラースの方が上だった。
「でも」
シルヴァが匙を置く。
「全然届かないって感じじゃなかった」
ティナが見る。
「今もう一回戦ったら?」
「負けるかも」
「かも?」
クジャが聞く。
「……たぶん負ける」
「そこは認めるんだ」
「うるさいな」
ティナが小さく笑う。
「でも楽しそうだった」
「そう?」
「かなり」
クジャも頷く。
「ラースも」
「最後はな」
シルヴァは頬へ一撃を入れた時のラースを思い出す。
あの瞬間。
明らかに目が変わった。
退屈そうだった男が。
初めて本気で戦いを楽しみ始めた。
「……あいつ、東に行くって言ってたよな」
空気が少し戻る。
ティナが頷いた。
「死んだはずの剣士がいるって」
「昔の王」
クジャが付け加える。
「一応ミルスに報告しよう」
◇
食事を終え、部屋へ戻る。
通信具を起動すると。
しばらくしてミルスの声が返ってきた。
『聞こえる』
「ミルス」
『三人とも無事?』
三人が顔を見合わせる。
シルヴァが答えた。
「まあ、一応」
『怪我したのね』
「何で分かるんだよ」
『その言い方で分かる』
ティナが横から言う。
「シルヴァは結構やられてる」
「ティナもだろ」
『順番に話して』
シルヴァたちは、今日起きたことを説明した。
ラースと接触したこと。
シルヴァが一対一で戦ったこと。
第三軍団長ネイラ。
副団長ゼイン。
《双身》。
ネイラの再生と、身体に残された見えない何か。
そして。
第三軍団が途中で撤収したこと。
『……ネイラはラースに何か残した?』
ミルスが聞く。
クジャが答える。
「確実に残ってる」
『あなたたちは?』
「シルヴァにもあった。でもネイラが再生を何度も使ったら弱くなった」
シルヴァが右腕を見る。
「今はほとんど感じない」
『なら、第三軍団はまだラースを追えるでしょうね』
「多分」
ネイラの最後の言葉。
――逃げても構いません。追えばいいので。
あれは強がりではなかった。
「そのラースなんだけど」
シルヴァが続ける。
「東へ行った」
『……やっぱり』
「分かる?」
『前にも話したけれど』
ミルスの声が少し真剣になる。
『東には、ヴェルグがいる可能性が高い』
「剣王」
『ええ』
六魔王の話を聞いた時。
一度名前は聞いている。
古い時代に生きた王。
歴史に名を残す剣士。
そして今。
死んだはずなのに再び動いている存在。
「ラースが言ってたのもそいつだと思う」
『でしょうね。強い剣士がいると聞けば、今のラースなら向かう』
ティナが通信具へ近づく。
「最近、ヴェルグについて何か分かった?」
『詳しい能力まではまだ』
一拍。
『ただ、以前より東部から入ってくる報告が増えてる』
「どんな?」
『死者が動いている』
三人の表情が変わった。
「死者?」
『古い墓地、戦場跡、廃村。それだけじゃない』
ミルスが続ける。
『東にある滅びた王国の周辺で、死んだはずの人間を見たという証言が急激に増えてる』
クジャが眼帯へ軽く触れる。
「蘇生?」
『分からない』
ミルスは即答した。
『少なくとも、私は実物を見てない。ヴェルグとの関係も高いと思うけど、今の段階で仕組みを決めつけるのは危険』
「じゃあ確認しに行くしかないか」
シルヴァが言う。
ティナが見る。
「行く気?」
「ラースもいる」
「それだけ?」
「第三軍団も追ってる」
ティナの表情が変わる。
シルヴァが続けた。
「ラースとヴェルグが戦ったら、どっちかが削られるだろ」
クジャが言う。
「そこにネイラが来る」
「ああ」
ネグロスと同じ。
戦いが終わった後に。
魔王軍が核だけ持っていく。
それは避けたい。
『その判断でいいと思う』
ミルスが言う。
『ただし、今日は行かないで』
「分かってる」
『珍しい』
「みんなそれ言うな」
クジャが小さく笑う。
『あなたたちの目的は、ヴェルグを倒すことじゃない』
ミルスの声が戻る。
『魔王核をゼノアへ渡さないこと。それは忘れないで』
「うん」
『それと、ラースとヴェルグが敵対するとは限らない』
「ラースは絶対戦うだろ」
『……それはそうね』
ティナが笑う。
ミルスも少しだけ声を緩めた。
『とにかく休みなさい。東はここまでより危険になる可能性が高い』
「分かった」
『クジャも右眼を休ませて』
「うん」
『ティナも《連装》の消耗を甘く見ないように』
「分かってる」
『シルヴァは――』
「俺も休むよ!」
『まだ何も言ってない』
「どうせ同じだろ」
『ええ』
「ほら」
三人が少し笑った。
通信を切る。
部屋に静けさが戻った。
◇
クジャが立ち上がった。
「私、今日は向こうの部屋で寝る」
ティナが見る。
「一人で大丈夫?」
「うん」
眼帯の上から右眼へ触れる。
「静かな方が寝やすいから」
「ああ」
シルヴァも頷く。
「何かあったらすぐ呼べよ」
「分かった」
クジャが扉へ向かう。
途中で振り返った。
「明日」
「何?」
「朝ご飯食べてから出る?」
「もちろん」
シルヴァが答える。
「ならいい」
「そこ大事なんだ」
「大事」
クジャはそれだけ言って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになる。
数秒。
「……」
「……」
シルヴァとティナが同時に部屋を見る。
ベッドは二つ。
一つは窓側。
一つは扉側。
シルヴァが口を開いた。
「……そういえば」
「今気づいたの?」
「何が?」
「今日、私たち二人なの」
「ああ」
「『ああ』じゃなくて」
「別にベッド二つあるし」
「それはそうだけど……」
ティナが微妙に視線を逸らす。
シルヴァが首を傾げる。
「嫌なら俺、下の食堂で寝ようか?」
「嫌とは言ってない!」
思ったより大きな声が出た。
二人とも止まる。
ティナの顔が少し赤くなる。
「……」
「……じゃあここで寝る?」
「その言い方、何か嫌」
「どう言えばいいんだよ!」
「普通に寝ればいいでしょ!」
「最初からそう言ってる!」
シルヴァは笑いながら窓側のベッドへ向かった。
「俺こっち使う」
「じゃあ私はこっち」
ティナも扉側へ。
しばらくして。
灯りを落とした。
◇
暗い部屋。
外から風の音が聞こえる。
シルヴァは仰向けになって天井を見ていた。
肩が痛い。
身体も重い。
なのに。
妙に目が冴えている。
「シルヴァ」
暗闇からティナの声。
「ん?」
「起きてる?」
「今から寝るところ」
「……そっか」
それきり。
ティナが黙る。
シルヴァは数秒待った。
「何?」
「何でもない」
「それ一番気になるやつ」
「寝れば?」
「呼んだのティナだろ」
また沈黙。
やがて。
「今日」
ティナが言った。
「ラースと戦ってた時」
「うん」
「ちょっと怖かった」
シルヴァがティナの方へ顔を向ける。
暗くて表情までは見えない。
「ラースが?」
「二人とも」
「俺も?」
「うん」
即答だった。
「強い相手が出てくると、シルヴァってたまに周り見えなくなるから」
「そんなに?」
「なる」
「でも今日はネイラ来てからちゃんと――」
「そういう意味じゃなくて」
ティナの声が少し小さくなる。
「怪我とか」
「ああ」
「ラースがどんどん強くなっていったのに、シルヴァも楽しそうに笑ってた」
「……笑ってた?」
「笑ってた」
「マジか」
「ネイラが来てからも」
「それはラースの方だろ」
「シルヴァも結構似た顔してたよ」
「嘘だろ……」
ティナが小さく笑った。
それから。
「でも」
「ん?」
「前よりは安心して見てられた」
シルヴァが少し驚く。
「何で?」
「無茶してるように見えて、ちゃんと考えてたから」
「そりゃ考えるよ」
「昔はもっと一人で全部やろうとしてた」
シルヴァは黙った。
ティナの声が続く。
「今日はラースの動きも使ってたし、クジャの声もちゃんと聞いてた」
「……そうだな」
「だから」
一拍。
「ただ心配だっただけ」
シルヴァは天井へ視線を戻した。
「ありがと」
「……」
「何?」
「急に素直になるのやめて」
「何でだよ」
「返しに困るから」
「じゃあ忘れて」
「それはそれで嫌」
「どっちなんだよ」
暗闇の中。
ティナがまた笑った。
シルヴァも少し笑う。
「ティナもな」
「何が?」
「今日、倒れそうだっただろ」
「……見てたの?」
「ちょっとだけ」
「自分もネイラと戦ってたのに?」
「風で分かる時あるから」
ティナが黙る。
「《連装》すごかったけど」
シルヴァが続ける。
「使いすぎるなよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「それ、さっき私がクジャに言った」
「じゃあお互い様だな」
「シルヴァに言われるのちょっと嫌」
「何で!」
「一番無茶するから」
「最近はしてないだろ」
「今日ラースと戦った」
「向こうから来た」
「受けなければよかったでしょ」
「それは無理」
「ほら」
「そこは別だろ!」
ティナが声を殺して笑う。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
でも。
気まずくはなかった。
外の風。
建物が時々軋む音。
それだけが聞こえる。
「シルヴァ」
「ん?」
「東でも」
「うん」
「ちゃんと戻ってこようね」
シルヴァは少しだけ目を開けた。
「当たり前だろ」
「三人で」
「ああ」
迷いなく答える。
「三人で戻る」
少しして。
「……おやすみ」
ティナが言った。
「おやすみ、ティナ」
やがて。
二人の呼吸が静かになっていく。
その夜。
三人は久しぶりに。
戦うことなく眠った。
明日。
向かうのは東。
死んだはずの王が待つ。
亡国へ。




