第65話 三か月ぶりの旅
リメアを出てから数時間。
三人は北へ続く山道を歩いていた。
西部特有の深い森を抜けるたびに視界が開き、その向こうに遠い山々が見える。空気はすでに冷たかったが、まだ雪が積もるほどではない。
先頭を歩くシルヴァが、大きく息を吸った。
「やっぱ外っていいな」
後ろからティナの声が飛ぶ。
「二回目」
「何が?」
「それ言うの」
「もう二回目?」
「リメア出てすぐ言ってた」
クジャが付け足す。
「正確には三回目」
「嘘だろ」
「霧を抜けた時にも言った」
「……言ったかも」
ティナがため息をつく。
「三か月同じ場所にいた反動なんじゃない?」
「そうかもな」
シルヴァは歩きながら片手を上げた。
指の間を、冷たい風が抜けていく。
修練領域にも風はあった。
ミルスが作った空も、森も、雨も、触れれば本物と区別がつかないほど精巧だった。
それでも。
今の風は違う。
遠くの森を抜け。
谷を上り。
岩肌へぶつかり。
何度も形を変えてここまで来ている。
以前なら、そんなことを意識したところで何も感じなかった。
今は。
「前から鳥」
シルヴァが突然言った。
ティナが顔を上げる。
「鳥?」
数秒後。
木々の向こうから、小さな鳥の群れが飛び出してきた。
十羽ほど。
三人の頭上を横切り、そのまま南へ消えていく。
ティナが少し驚いた顔でシルヴァを見る。
「見えてたの?」
「いや」
「じゃあ何で分かったの?」
「風」
シルヴァは振り返らない。
「羽ばたきで少し乱れた」
クジャが空を見る。
「結構遠かった」
「俺もまだ慣れてないけどな」
「便利ね」
ティナが言う。
「だろ?」
「調子に乗らなければ」
「そこ余計だろ」
クジャが小さく笑った。
◇
昼を過ぎたころ。
三人は山道の途中で休憩を取った。
道の脇に大きな岩があり、その下に少しだけ平らな場所がある。
シルヴァが荷物を下ろす。
「腹減った」
「朝から何回目?」
「これは一回目」
「本当?」
「数えてない」
「じゃあ分からないじゃない」
クジャは荷物から保存食を取り出した。
「私もお腹空いた」
ティナが一瞬クジャを見る。
「珍しい」
「何が?」
「クジャから言うの」
「最近言ってる」
「そうだけど」
クジャは干し肉を一枚取って、そのままシルヴァへ差し出した。
「半分」
「くれるの?」
「違う。硬いから切って」
「そっちか」
シルヴァが剣を抜こうとする。
ティナがすぐに止めた。
「待って」
「何?」
「それで切るの?」
「切れるだろ」
「人と戦う剣で食べ物切らないで」
「拭いてあるぞ」
「そういう問題じゃない」
ティナは腰の小袋から小さなナイフを取り出した。
「これ使って」
「準備いいな」
「普通でしょ」
クジャがナイフを受け取りながら言う。
「ティナ、生活用品はちゃんとしてる」
「シルヴァが雑すぎるだけ」
「そこまで?」
二人とも答えなかった。
「最近、沈黙で攻撃してくるよな」
クジャがまた笑う。
◇
食事を終えたあと。
三人は再び歩き始めた。
道は少しずつ下りへ変わり、森の向こうに街道が見え始める。
その途中。
小さな谷があった。
橋はない。
幅は四メートルほど。
下には浅い川が流れている。
シルヴァは一度見ただけで、そのまま助走をつけた。
「先行くぞ」
地面を蹴る。
足元へ風が入り。
身体が軽く浮く。
着地。
以前よりずっと静かだった。
大きく風を吹かせることもない。
ティナも続く。
一歩踏み込んだ瞬間。
足元に薄い半透明の板が形成された。
《構装》。
わずか一瞬。
足場を蹴った直後には、もう消えている。
反対側へ着地。
シルヴァが横を見る。
「今の、前より速くない?」
「そう?」
「足場出たの一瞬だった」
「長く残す必要ないから」
ティナは何でもないように答える。
「踏む瞬間だけあればいいし」
クジャがこちら側から言う。
「前はもう少し残ってた」
「そうね」
ティナが自分の足元を見る。
「残してるだけでもオーラ使うから」
シルヴァが少し感心したように頷く。
「修行ちゃんとしてたんだな」
「あなたに言われたくない!」
クジャが谷の手前に立つ。
「私は?」
「跳べる?」
シルヴァが聞く。
「たぶん」
「その言い方怖いな」
クジャは助走した。
普通に跳ぶ。
届かない。
「クジャ!?」
ティナが声を上げる。
だが。
空中で一枚のカードが飛ぶ。
《♦3》。
谷の壁へ当たり、オーラの反発が生まれる。
クジャはその反動を利用して僅かに身体の向きを変え、反対側の縁へ手をかけた。
シルヴァが腕を掴んで引き上げる。
「最初からそれやる気だった?」
「うん」
「落ちたらどうするんだよ」
「シルヴァがいるから」
「……それ言われると怒りづらいな」
クジャが服についた土を払う。
「じゃあ成功」
「そういう問題?」
ティナが呆れた。
◇
夕方前。
三人は街道沿いの町へ入った。
北部へ向かう旅人が立ち寄る、小さな交易町だった。
道の両側には石造りと木造の建物が混ざり、露店には厚手の服や乾物、毛皮、薬草が並んでいる。
人間。
魔族。
獣人。
様々な種族が同じ通りを歩いている。
クジャがきょろきょろと周囲を見た。
「何か探してる?」
ティナが聞く。
「まだ」
「まだ?」
「見てから決める」
シルヴァが笑う。
「買う気満々じゃん」
「三か月ほとんど同じ服だったから」
「それは俺らもだろ」
「私は別に」
「シルヴァはそう言うと思った」
「何で?」
「服に興味なさそう」
ティナが頷く。
「分かる」
「そんなことないぞ」
二人が同時にシルヴァを見る。
黒い上衣。
黒いパンツ。
黒いブーツ。
黒い長外套。
「……何その目」
「別に」
「別に」
「お前らほんと仲良くなったな」
その時。
クジャの足が止まった。
視線の先。
屋台。
薄い生地の中に、焼いた肉と野菜を詰めた料理が並んでいる。
香辛料の匂いが漂ってくる。
「……あれ食べたい」
シルヴァとティナが同時にクジャを見る。
「何?」
クジャが聞く。
「いや」
シルヴァが少し笑う。
「前より言うようになったな」
「何を?」
「食べたいとか」
クジャは屋台を見る。
「食べたいから」
「それでいいんだけど」
「じゃあ行く」
そのまま歩き出す。
シルヴァも続いた。
「俺も」
「ちょっと待って」
ティナが二人を止める。
「先に宿」
「食べながら探せばいい」
クジャが言う。
「クジャまで!」
数分後。
三人とも同じ料理を手にしていた。
ティナも。
シルヴァが横を見る。
「食ってるじゃん」
「……いい匂いだったから」
「負けた?」
クジャが聞く。
「何に?」
「匂い」
「それなら負けた」
クジャが少し満足そうに一口食べた。
◇
防寒具を扱う店では。
今度はクジャが先に棚へ向かった。
黒い毛皮付きの外套。
手袋。
厚手の靴下。
ひとつずつ手に取っていく。
「結構買うな」
シルヴァが言う。
「寒いの嫌」
「そういうの前は言わなかったよな」
「だから何?」
「いや、いいと思う」
クジャがシルヴァを見る。
「ならシルヴァもちゃんと買えば?」
「俺はあるから」
ティナが即座に首を振る。
「足りない」
「また?」
「北部はもっと寒いって言ったでしょ」
クジャが棚から厚い上着を取った。
「これ」
「俺の?」
「似合いそう」
黒い防寒着。
普通だった。
シルヴァが少し警戒する。
「……ほんとに?」
「今回は」
「今回はって何」
クジャの視線が隣の棚へ移る。
そこには毛皮の大きな帽子が並んでいた。
シルヴァが一歩下がる。
「それはやめろよ」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
ティナが帽子を一つ取った。
「これとか」
「ティナ!?」
「ちょっと被ってみて」
「嫌だ!」
クジャが笑う。
結局。
シルヴァは逃げ切った。
◇
宿を取ったのは、日が落ちる少し前だった。
三人は一階の食堂で夕食を取っていた。
肉と根菜の煮込み。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
シルヴァが二杯目を頼む。
ティナが呆れる。
「昼も食べてたよね?」
「歩いたから」
「何でもそれで済ませるのやめない?」
クジャがパンをちぎる。
「私は昼、三つ食べた」
「三つ?」
シルヴァが驚く。
「いつ?」
「防寒具見る前」
「一個じゃなかった?」
「二人が宿探してる間にもう一つ買った」
ティナが笑う。
「ほんと変わったね」
クジャがパンを持ったまま止まる。
「……そう?」
「うん」
ティナの声は穏やかだった。
「前より、好きなものを好きって言うようになった」
クジャは少し考えてから、パンを口へ運んだ。
「悪い?」
「誰も悪いなんて言ってないでしょ」
「むしろ助かる」
シルヴァが言う。
「何でもいいって言われるより分かりやすいし」
ティナが横目でシルヴァを見る。
「そういうところだけ現実的ね」
「大事だろ」
クジャは少しだけ笑った。
「じゃあ明日の朝、甘いもの食べたい」
「急だな」
「今言った方が分かりやすいんでしょ?」
シルヴァが笑う。
「確かに」
その時だった。
食堂の扉が開いた。
冷たい風が吹き込む。
二人の旅人が入ってくる。
外套の肩には、薄く雪が付いていた。
クジャの視線が止まった。
「北から」
シルヴァも気づく。
この町ではまだ雪は降っていない。
二人はカウンターへ座り、温かい酒を頼んだ。
少しして。
一人が店主へ言った。
「北道を使うなら気をつけろ」
「何か出たのか?」
「魔獣じゃねえ」
男は外套を脱いだ。
「黒い服の魔族どもだ」
シルヴァたちの会話が止まる。
「魔王軍か?」
「たぶんな」
「軍勢?」
「いや。それが妙なんだ」
旅人は酒を一口飲んだ。
「数は少ねえ。十人かそこらしか見なかった」
「それなら盗賊じゃないのか?」
「盗賊があんな動きするかよ」
男は首を振る。
「全員、同じ間隔で歩いてた。無駄口もなし。俺たちには目もくれねえ」
「何してた?」
「人探し」
隣の旅人が口を挟んだ。
「水色の髪した若い剣士を知らないかって聞かれた」
シルヴァがティナを見る。
ティナも同じ顔をしていた。
ラース。
店主が聞く。
「見つかったのか?」
「さあな。ただ」
男が少しだけ声を落とした。
「追ってるのは、あいつらの方らしい」
「どういう意味だ?」
「北から来た別の商隊が見たそうだ」
酒の入った杯が机へ置かれる。
「黒服の連中が、水色髪の剣士を囲んだ」
三人が聞き入る。
「それで?」
「次に通った時には――」
一拍。
「魔王軍の方が転がってた」
ティナの表情が変わる。
「何人?」
気づけば、シルヴァが声を掛けていた。
旅人が振り向く。
「ん?」
「倒れてた魔族。何人くらい?」
「俺が見たわけじゃねえぞ」
「それでもいい」
「四、五人って話だったな」
「剣士は?」
「いなかったらしい」
シルヴァが席へ戻ろうとした時。
旅人が続けた。
「でも変な話も聞いた」
「変?」
「ああ」
シルヴァが振り返る。
「その水色髪の奴」
男は眉を寄せた。
「逃げてるようには見えなかったってさ」
「……?」
「追いつかれたら戦って、また自分の行きたい方へ歩いていく」
ティナが小さく呟く。
「逃げてない……?」
「知らねえよ。俺も聞いただけだ」
旅人は肩を竦める。
「ただ、魔王軍の方は相当しつこく追ってるらしい」
シルヴァは何も言わず席へ戻った。
クジャがスープを飲みながら聞く。
「どうする?」
「予定通り」
シルヴァが答える。
「明日の朝、北へ行く」
ティナも頷いた。
「うん」
クジャが少しだけ考えてから言う。
「甘いものは?」
シルヴァが止まった。
ティナもクジャを見る。
クジャは真顔だった。
「……買ってから行こう」
シルヴァが答える。
「よし」
「そこは忘れないのね」
ティナが笑った。
けれど。
三人とも分かっている。
北へ進めば。
もうすぐ。
魔王軍第三軍団と。
六魔王ラース。
そのどちらかに、辿り着く。




