第64話 北へ
ギラルーンが通信結晶を置いた。
さっきまで残っていた軽い空気が、それだけで消える。
シルヴァは壁際から身体を起こした。
「何かあった?」
ギラルーンはすぐには答えず、中央塔の机へ向かった。
「北部で、魔王軍の動きが確認されました」
ミルスの表情が変わる。
「どの軍団?」
「第三軍団でございます」
その名前に、シルヴァたちはまだ馴染みがない。
ティナが尋ねた。
「第三軍団って?」
「追跡、捕獲、暗殺。特定の対象を狩ることに長けた軍団です」
ギラルーンが机の上へノクティスの地図を広げる。
指先が、西部にあるリメアから北へ滑っていく。
「他の軍団と比べれば規模は小さい。しかし、その分だけ構成員の練度は高いと聞いております」
「少数精鋭ってことか」
「そう考えていただければ」
クジャが地図を覗き込む。
「北に何があるの?」
ギラルーンの指が止まった。
「問題はそこです」
一拍。
「彼らが探しているのは、おそらくラース」
シルヴァの目が細くなった。
「六魔王……」
「はい」
部屋の空気がさらに重くなる。
黒牙山脈で倒れたネグロス。
その魔王核は、すでに魔王軍へ渡った。
ゼノアが元から持っていた核と合わせれば、現在二つ。
そこへラースまで奪われれば――。
「もう次を取りに来たのね」
ティナが呟いた。
「向こうにとっては当然でしょうね」
ミルスが腕を組む。
「六つに分かれた核を取り戻す。それがゼノアの目的の一つなら、ネグロスだけで止まる理由はない」
シルヴァは地図から目を離さなかった。
「ラースは魔王軍側じゃないんだよな?」
「少なくとも、そのような情報はありません」
ギラルーンが答える。
「なら、第三軍団は捕まえに行った?」
「その可能性が高いでしょう」
「ラースの居場所は分かってるの?」
クジャが聞く。
「正確には不明です。北部で目撃例が増えている、という程度でございます」
ミルスがギラルーンを見る。
「第三軍団はどこまで進んでる?」
「すでに北部へ入っております」
「早いな」
シルヴァが呟く。
ティナも地図を見る。
「軍団長もいるの?」
「確認されている名前は二つ」
ギラルーンが指を二本立てた。
「第三軍団長、ネイラ。そして副団長、ゼイン」
「能力は?」
クジャがすぐに聞く。
ギラルーンは首を横へ振った。
「そこまでは分かりません」
「ギラルーンでも?」
シルヴァが顔を上げる。
「私を何だと思っているのでございますか」
「何でも知ってる人」
「随分と雑な評価でございますね」
ティナが小さく笑った。
だが、ミルスは真面目な表情のままだった。
「そのくらいでいい」
シルヴァが見る。
「いいの?」
「確証のない能力情報を頭に入れて、実戦でそれに引っ張られる方が危ない」
「……確かに」
「分かっていることだけ覚えておけばいい。第三軍団は少数精鋭。追跡と捕獲に慣れている。軍団長ネイラ、副団長ゼイン。このくらい」
クジャが静かに頷く。
「後は見て判断する」
「そういうこと」
ミルスの言葉を聞きながら、シルヴァはもう一度北部へ目を落とした。
第三軍団はすでに動いている。
ラースがどんな人間なのかは分からない。
協力してくれるかも分からない。
それでも。
ネグロスの時とは一つだけ違う。
まだ核は奪われていない。
「……行こう」
シルヴァが言った。
ティナが横を見る。
「北へ?」
「ああ」
答えは決まっていた。
「今度は取られてから追うんじゃ遅い」
ミルスが黙ってシルヴァを見る。
「ラースがあなたたちの味方になる保証はないわよ」
「分かってる」
「魔王核を渡したくないって言っても、素直に話を聞くとは限らない」
「それも分かってる」
「じゃあ、どうするの?」
シルヴァは少しだけ考えた。
「まず話す」
ティナが意外そうに瞬きをした。
「まず?」
「何その反応」
「前なら『とりあえず行く』だったから」
「俺だって考えるようになったんだよ」
クジャが口を挟む。
「でも話を聞かなかったら?」
シルヴァが止まる。
「……その時考える」
「ちょっと怪しい」
「何でだよ」
ティナが小さく笑う。
「その言い方、戦う選択肢も入ってるでしょ」
「相手次第だろ」
「やっぱり」
「いや、だって六魔王だぞ?」
「関係ある?」
「少しは気になるだろ。どんな奴か」
クジャがシルヴァを見る。
「戦いたい?」
「まだ会ってもない」
「否定してない」
「クジャ、お前ほんと最近そこ拾うよな」
「三か月一緒にいたから」
即答だった。
シルヴァが何か言い返そうとして、やめた。
「……それ言われると弱いな」
ティナが笑う。
ミルスもわずかに口元を緩めたが、すぐに地図へ視線を戻した。
「行くなら、目的だけは忘れないで」
三人がミルスを見る。
「第三軍団を倒すことじゃない」
シルヴァが先に答えた。
「ラースの核を、ゼノアに渡さないこと」
「そう」
「分かってる」
「ならいい」
ミルスは地図の北部を指でなぞる。
「ここから北へ行くなら、一度街道沿いの町を経由した方がいい。北部へ入る前に防寒具も揃えなさい」
「そんな寒い?」
「行けば分かる」
「風で何とか――」
「しないで」
ティナに即座に止められた。
シルヴァが振り向く。
「まだ最後まで言ってないけど」
「どうせ『風で何とかする』でしょ」
「……正解」
「ほら」
クジャが小さく笑った。
◇
準備はその日のうちに始めた。
保存食、薬、簡単な野営道具。
リメアで過ごした三か月の間に荷物は増えていたが、持っていける量には限りがある。
シルヴァが食料袋を持ち上げる。
「これくらい?」
ティナが中を見る。
「少ない」
「町寄るんだろ?」
「途中で何があるか分からないでしょ」
「じゃあ増やす」
隣ではクジャが自分のカードケースを開いていた。
一枚ずつ確認し、傷のあるカードだけを抜いていく。
シルヴァが覗き込む。
「交換するの?」
「少しだけ」
「前のカードも使う?」
「使えるのは残す」
クジャは古い一枚を指先で撫でてから、ケースへ戻した。
シルヴァはそれ以上聞かなかった。
「これ」
ティナから何かが飛んでくる。
受け取ると、厚手の手袋だった。
「俺の?」
「そう」
「持ってるけど」
「予備」
「二ついる?」
クジャが顔を上げる。
「濡れたら困る」
「乾かせばいい」
「風で?」
「そう」
「寒い場所で濡れた手袋に風当てたら、たぶんもっと寒い」
シルヴァが数秒黙る。
「……なるほど」
ティナが呆れた顔をする。
「本気で今気づいたの?」
「便利だから何でもいける気がするんだよ」
「その考えやめた方がいいよ」
クジャが言う。
「クジャまで」
「二対一ね」
「お前ら修行中に妙に仲良くなったよな」
ティナが眉を上げる。
「シルヴァ抜きで話す時間も結構あったからね」
「何話してた?」
「秘密」
「何で」
クジャも続ける。
「秘密」
「絶対俺のこと話してただろ」
二人とも答えなかった。
「その沈黙やめろよ」
準備の間。
そんな会話が続いた。
三か月前なら。
出発前はもっと静かだった。
誰かが考え込み。
誰かがそれを気にして。
言葉を選ぶ時間があった。
今は違う。
くだらないことを話しながら準備して。
必要なことは自然に補い合う。
いつの間にか。
それが当たり前になっていた。
◇
翌朝。
三人はリメアの外れに立っていた。
街を隠す霧が、山間をゆっくりと流れている。
ミルスとギラルーンが見送りに来ていた。
「何か分かったら連絡を」
ミルスが言う。
「できれば戦う前に」
「できれば?」
シルヴァが聞き返す。
「あなたがいるから」
「信用ないな」
「実績があるからよ」
ティナが笑いを堪えている。
シルヴァがそちらを見る。
「何で笑ってる」
「別に」
「絶対笑ってるだろ」
クジャが一歩先へ進んだ。
「行こう」
シルヴァとティナが振り向く。
「珍しいな。クジャが一番乗り」
「北まで遠いから」
「それだけ?」
「途中の町も見たい」
シルヴァが少し笑った。
「そっちが本音?」
「両方」
「じゃあ行くか」
三人が霧の中へ入る。
少し進んだところで。
シルヴァの黒い外套が、ふわりと持ち上がった。
山の外から流れ込んだ風。
冷たい。
土と木と、遠い雪の匂いがする。
シルヴァは歩きながら目を細めた。
「……外だ」
ティナが横を見る。
「当たり前でしょ」
「三か月ぶりなんだぞ」
「外では三日だけどね」
「俺らには三か月だろ」
クジャが前を向いたまま言う。
「シルヴァ、またそれ何回も言いそう」
「まだ一回目だろ」
「覚えとく」
「数える気?」
「暇だったら」
三人の声が、霧の向こうへ遠ざかっていく。
目指すのは北。
魔王軍第三軍団。
そして。
まだ見ぬ六魔王――ラース。




