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風葬のシルヴァ  作者: 桜
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第59話 黒牙墜つ

 黒牙山脈。


 三日目。


 バルガンの《魔装》が完成すると、戦場の空気そのものが変わった。


 額から伸びた黒い角。


 赤黒く染まった瞳。


 全身から噴き上がる、濃密な魔の力。


 そして何より大きく変わったのは、バルガン一人ではなかった。


 《戦鳴》によって繋がっていた第四軍団全体へ、彼の《魔装》からごく薄く力が流れ込んでいく。


 傷が消えたわけではない。


 疲労がなくなったわけでもない。


 それでも、限界に近かった兵士たちの身体が、もう一度だけ戦える状態まで押し上げられていた。


「第一隊、前へ!」


 バルガンの声が響く。


 兵士たちが一斉に動いた。


 三日間の疲労を抱えているとは思えないほど、正確な動きだった。


 前衛が左右へ広がる。


 その間を縫って槍兵が入り、ネグロスの前脚へ集中して攻撃を仕掛ける。


 ネグロスが前脚を振るった。


 まともに受ければ、人間など数人まとめて吹き飛ぶ。


 だが。


「下がれ!」


 攻撃が来る直前。


 前衛が一斉に引く。


 空振り。


 その瞬間を狙い、後方から鎖が飛んだ。


 一本。


 二本。


 三本。


 今度は首ではない。


 右前脚だけ。


 一点へ集中する。


 ネグロスはすぐに理解した。


 軍は自分を拘束しようとしているのではない。


 動きを一瞬だけ止めようとしている。


「グルルル……!」


 低い唸り声。


 ネグロスの右肩が大きく膨らむ。


 黒い外殻。


 厚くなる。


 そして。


 力任せに前脚を振った。


 鎖がまとめて引き千切られる。


「予想通りだ」


 バルガンが踏み込んだ。


 ネグロスが防御へ《喰装》を寄せた瞬間。


 速度は落ちる。


 三日間。


 何度も見てきた。


「そこだ!」


 大剣が振り下ろされる。


 狙いは。


 外殻の薄くなった後脚。


 刃が食い込んだ。


 ネグロスの巨体が傾く。


 だが。


 倒れない。


 振り向きざま。


 牙。


「軍団長!」


 兵士たちが叫ぶ。


 バルガンは剣を抜くより早く、空いた左腕を前へ出した。


 噛みつかれる直前。


 数十人分の《戦鳴》が一斉に脈打つ。


 身体が押し戻される。


 ほんの半歩。


 それだけで。


 巨大な牙が腕の横を通過した。


 バルガンはそのまま大剣を引き抜き、ネグロスの顔面へ叩き込む。


 血が飛んだ。


「リエル!」


「分かってる!」


 上空。


 炎の翼。


 リエルが降下する。


 白を含んだ炎が両腕へ集まった。


 ネグロスは気づく。


 即座に。


 バルガンから離れようとした。


「逃がすな!」


 兵士たちが動く。


 右。


 左。


 後方。


 三方向から。


 槍と鎖。


 完全に止める必要はない。


 リエルが触れるまで。


 数秒。


 それでいい。


 ネグロスの身体が。


 また変わった。


 外殻が消える。


 胸部が縮まり。


 脚へ筋肉が集中する。


「速度型!」


 副官が叫ぶ。


 次の瞬間。


 ネグロスが横へ飛んだ。


 兵士たちの包囲を突き破る。


 二人。


 三人。


 撥ね飛ばされる。


 リエルの炎が空を切った。


「ちっ……!」


 地面へ降りる。


 ネグロスは距離を取っていた。


 赤い瞳。


 リエル。


 バルガン。


 兵士。


 それぞれを見る。


 そして。


 方向を変えた。


「北へ行く!」


 兵士が叫ぶ。


 逃走。


 そう見えた。


 だが。


 バルガンはすぐに叫ぶ。


「追うな!」


 前衛が止まる。


 直後。


 ネグロスが岩壁を蹴った。


 反転。


 速度を乗せたまま。


 軍の側面へ突っ込んでくる。


「誘いか!」


 副官が歯を食いしばる。


 逃げるふりをして。


 追撃してきた部隊を崩すつもりだった。


 ネグロスは。


 完全に。


 こちらの戦い方を学んでいる。


「だから面倒なのよ、この獣」


 リエルが呟く。


 ネグロスが兵士の列へ飛び込む。


 爪。


 槍。


 牙。


 盾。


 軍の陣形が乱れる。


 だが。


 完全には崩れない。


 《戦鳴》。


 誰かが倒れれば。


 隣が埋める。


 隙間ができれば。


 後ろが進む。


 一人一人では。


 到底敵わない。


 だから。


 軍として戦う。


「第四隊、右から押せ!」


 バルガンが走る。


 ネグロスの視線が。


 また。


 彼へ向く。


 三日間。


 何度も。


 正面から斬り合った。


 自分を止め続けた人間。


 そして今。


 最も濃い力を放っている存在。


 ネグロスの身体が。


 低くなる。


「来い」


 バルガンが大剣を構えた。


 ネグロスが地面を蹴る。


 真正面。


 今度は。


 罠も。


 奇襲もない。


 牙。


 大剣。


 衝突。


 凄まじい音が山に響いた。


「ぐっ……!」


 バルガンの足元が崩れる。


 《魔装》状態でも。


 重い。


 ネグロスはさらに押し込む。


 バルガンの両腕から血が滲む。


「まだだ!」


 《戦鳴》。


 軍全体の力が。


 ほんの僅か。


 バルガンを支える。


 大剣を押し返す。


 ネグロスの牙が外れる。


 バルガンは一歩。


 踏み込む。


「三日も」


 剣を振り上げる。


「俺の兵を喰ってくれたな!」


 斬撃。


 ネグロスの胸部。


 黒い外殻が割れる。


 深い傷。


 血。


 ネグロスが吠える。


 前脚。


 バルガンの肩へ。


 直撃。


「がっ!」


 鎧が砕ける。


 身体が地面へ叩きつけられた。


「軍団長!」


「見るな!」


 倒れたまま。


 バルガンが叫ぶ。


「お前たちは配置を守れ!」


 ネグロスが。


 止めを刺そうとする。


 その時。


「こっちよ」


 リエルの声。


 ネグロスが振り向く。


 遅かった。


 白い炎が。


 顔面へ。


 直撃。


「――ッ!」


 巨体が大きく仰け反った。


 燃えてはいない。


 皮膚も。


 毛も。


 残っている。


 だが。


 ネグロスは。


 今までで最も激しく暴れた。


 リエルは退かない。


 炎を消さない。


「見つけた」


 静かに呟く。


 炎が。


 ネグロスの身体へ染み込んでいく。


 胸。


 そこから。


 全身。


 二年間。


 魔王核の力によって変質していた部分を。


 リエルの炎が辿っていく。


「焼いてるんじゃない」


 バルガンが立ち上がる。


「何をしている」


「余計なものを浄めてる」


 リエルの額に汗が浮かぶ。


「こいつ自身の肉と」


 炎が強くなる。


「核から流れ込んだ力を」


 ネグロスが吠える。


 リエルへ飛びかかろうとする。


 だが。


 脚が。


 僅かに止まった。


 今まで。


 完全に一体化していた力。


 それが。


 うまく身体へ流れない。


 《喰装》。


 外殻を作ろうとする。


 途中で。


 止まる。


 速度へ切り替えようとする。


 後脚だけが。


 不自然に変化する。


「効いてる!」


 兵士が叫ぶ。


「まだよ!」


 リエルの声が飛ぶ。


「これは核を消してるわけじゃない!」


 魔王核。


 それ自体は。


 リエルの炎でも燃えない。


 浄化しているのは。


 その周囲。


 ネグロスの身体へ広がった。


 核由来の異質な力。


「核が浮く!」


 リエルが叫ぶ。


「その瞬間に仕留めて!」


 バルガンが大剣を構え直す。


「どれくらいだ」


「分からない!」


「役に立たん!」


「じゃあ自分で見なさい!」


 ネグロスが。


 突然。


 前へ出た。


「速――」


 リエルの目が見開く。


 不完全な《喰装》。


 それでも。


 最後に。


 速度へ振った。


 牙が。


 リエルへ迫る。


 避けられない。


 その間へ。


 バルガンが飛び込んだ。


 左腕。


 差し出す。


 牙が。


 深く食い込んだ。


「ぐっ……!」


「バルガン!」


「続けろ!」


 ネグロスが首を振る。


 バルガンの身体が持ち上がる。


 それでも。


 離さない。


 右手。


 大剣。


 逆手に持つ。


 ネグロスの首へ。


 突き立てた。


 血が噴き出す。


 ネグロスが咆哮する。


 さらに。


 暴れる。


 バルガンの腕から。


 血が流れる。


「まだ……か!」


「あと少し!」


 リエルが両手を重ねる。


 炎の翼が。


 大きく広がる。


 白い炎。


 ネグロスの全身を包んだ。


 黒い瘴気。


 身体の各所から。


 吹き出す。


 そして。


 胸。


 深い場所。


 何かが。


 脈打った。


 どくん。


 ネグロスの動きが。


 一瞬。


 止まる。


 リエルの瞳が開く。


「出る!」


 胸元。


 黒い毛皮の下から。


 暗赤色の光が浮かび上がった。


 魔王核。


 完全に外へ出たわけではない。


 それでも。


 位置が。


 初めて。


 はっきり分かる。


「そこ!」


 リエルが叫ぶ。


 バルガンは。


 噛まれていた左腕を。


 自ら引き抜いた。


 肉が裂ける。


 血が飛ぶ。


 構わない。


 両手で。


 大剣を握る。


 《魔装》。


 《戦鳴》。


 《軍魔共有》。


 三日間。


 第四軍団が。


 繋いできた全てを。


 その一撃へ。


「終わりだ」


 踏み込む。


 ネグロスも。


 バルガンを見る。


 赤い瞳。


 まだ。


 死んでいない。


 前脚。


 振り上げる。


 最後まで。


 戦う。


「――黒牙!」


 大剣が。


 胸へ。


 深く。


 突き刺さった。


 同時に。


 ネグロスの爪が。


 バルガンの身体を捉える。


 鮮血。


 双方。


 動きが止まる。


 数秒。


 山に。


 何の音もなくなった。


 ネグロスの口から。


 低い息が漏れる。


 赤い瞳は。


 最後まで。


 バルガンを見ていた。


 怒りでも。


 恐怖でもない。


 ただ。


 自分の縄張りへ入り。


 三日間。


 自分と戦い続けた敵を。


 見ていた。


 やがて。


 前脚が。


 地面へ落ちる。


 巨大な身体が。


 ゆっくり傾いた。


 そして。


 黒牙山脈の大地へ。


 倒れた。


     ◇


 誰も。


 すぐには動かなかった。


 三日間。


 兵士たちは。


 何度も。


 この獣が倒れそうになる姿を見た。


 そのたび。


 立った。


 身体を変え。


 また襲ってきた。


 だから。


 待った。


 十秒。


 二十秒。


 ネグロスは。


 動かない。


「……終わった?」


 兵士の一人が呟く。


 リエルだけが。


 首を振った。


「まだ」


 ネグロスの胸。


 傷口の奥。


 暗赤色の光。


 消えていない。


 むしろ。


 肉体が死んだことで。


 はっきりしていく。


 バルガンが大剣を引き抜いた。


 そのまま。


 膝をつく。


「軍団長!」


「騒ぐな」


 左腕。


 胸。


 肩。


 三日分の傷。


 《魔装》も。


 限界だった。


 黒い力が。


 身体から消えていく。


 角。


 紋様。


 赤黒い瞳。


 少しずつ。


 元へ戻る。


 同時に。


 兵士たちへ流していた力も消えた。


 一人。


 また一人。


 その場へ座り込む。


 限界を超えていた身体が。


 ようやく。


 止まることを許された。


「リエル」


 バルガンが言う。


「核を」


「分かってる」


 リエルがネグロスの亡骸へ近づく。


 胸。


 手を当てる。


 白い炎。


 今度は。


 静かに。


 ゆっくり。


 燃える。


 死んだ肉体を焼くためではない。


 残っている。


 最後の結びつきを。


 浄める。


 暗赤色の光が。


 少しずつ。


 上がってくる。


 肉。


 血。


 骨。


 それらを傷つけることなく。


 光だけが。


 抜け出していく。


 やがて。


 リエルの手のひらほどの。


 黒く。


 赤く。


 脈打つ塊が。


 宙へ浮かんだ。


 魔王核。


 誰も。


 触れない。


「これが……」


 副官が呟く。


 リエルの炎が。


 核の周囲を包んだ。


「近づかないで」


「危険なのか?」


「当然」


 リエルは核から目を離さない。


「これはまだ生きてる」


 バルガンが見る。


「ネグロスは死んだ」


「宿主はね」


 暗赤色の核。


 どくん。


 また。


 脈打った。


 リエルの表情が。


 少しだけ険しくなる。


「でも、これは別」


 炎を。


 さらに重ねる。


 核の動きが。


 少しずつ。


 落ち着いていく。


「持ち帰れるか?」


「そのために私が来た」


「なら任せる」


 バルガンが立とうとする。


 足が。


 僅かに崩れた。


 副官が支える。


「触るな」


「ですが」


「自分で立てる」


 そう言いながら。


 一度。


 ネグロスの亡骸を見る。


 三日間。


 第四軍団を。


 たった一体で。


 ここまで削った怪物。


「……化け物め」


 侮辱ではなかった。


 むしろ。


 それしか言葉がなかった。


 リエルも。


 ネグロスを見る。


「元々、この山では王だったのよ」


「魔王になる前から?」


「ええ」


 白い炎の中。


 魔王核が浮かぶ。


「核なんてなくても」


 リエルが静かに言う。


「十分、怪物だった」


     ◇


 黒牙山脈。


 三日目。


 長かった戦いが。


 終わった。


 第四軍団は。


 勝った。


 だが。


 失った兵も。


 傷ついた兵も。


 あまりに多い。


 そして。


 彼らが手にしたものは。


 勝利だけではない。


 一つの。


 魔王核。


 六つに分かれた。


 リベリオン・ゼノアの力の一つ。


 リエルは炎に包まれた核を見つめたまま。


 ほんの僅か。


 目を細めた。


「……帰りましょう」


 その先にいる者を。


 思い浮かべるように。


「ゼノアが待ってる」

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