第58話 炎翼リエル
黒牙山脈。
三日目。
第四軍団の兵士たちの前へ降り立った女を見て、ネグロスの様子が明らかに変わった。
三日間。
矢を浴びても。
魔術を叩き込まれても。
バルガンの剣で肉を裂かれても。
巨獣は一度も怯まなかった。
だが今は。
岩山の上から、リエルだけを見ている。
「……随分嫌われたものね」
リエルが呟く。
「お前が何者か分かるらしい」
バルガンが言った。
「私じゃないわ」
「何?」
「こっち」
リエルは自分の胸元へ指を置いた。
そこから。
小さな炎が灯る。
赤でもない。
橙でもない。
白を含んだ、澄んだ炎。
周囲の温度はほとんど変わらない。
それなのに。
近くに漂っていた黒い瘴気だけが、炎へ吸い寄せられるように消えていった。
バルガンが横目で見る。
「相変わらず気味の悪い火だ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めていない」
「知ってる」
リエルは岩山を見上げた。
ネグロスの身体の奥。
魔王核。
それが獣の身体と深く絡み合っている。
二年間。
ただ内側に入っていたわけではない。
血。
肉。
骨。
そして、元々ネグロスが持っていた《喰装》。
それら全てと馴染み続けている。
「面倒ね」
「剥がせないのか?」
「剥がせる」
リエルの返事は早かった。
「でも、先に弱らせて」
「三日かけて十分弱らせた」
「まだ立ってるでしょう?」
「……」
「なら足りない」
その瞬間。
ネグロスが岩山から消えた。
いや。
跳んだ。
翼ではない。
脚。
身体を覆っていた重い外殻が、一斉に縮んでいく。
代わりに。
後脚が細く。
長く。
筋肉質に変化する。
速度へ。
《喰装》を切り替えた。
「リエル!」
兵士が叫ぶより早く。
ネグロスが眼前へ迫る。
狙いは。
迷いなくリエル。
「分かってる」
リエルは動かない。
巨大な爪が。
振り下ろされる。
その間へ。
大剣が入った。
バルガン。
刃と爪がぶつかる。
地面が大きく沈んだ。
「俺を忘れるな」
ネグロスが吠える。
バルガンは大剣を両手で支えながら、僅かに笑った。
「そうだ」
「お前が殺すべきは俺だ」
力比べ。
人と獣。
体格差など比べるまでもない。
それでも。
バルガンは押し潰されなかった。
「全軍!」
声が山へ響く。
同時に。
数百のオーラが脈打つ。
《戦鳴》。
疲労していた兵士たちの動きが。
揃う。
「第二隊、脚を狙え!」
槍兵が左右から入る。
「第四隊、退路を塞げ!」
巨大な杭が地面へ打ち込まれる。
「魔術隊!」
一斉射撃。
ネグロスはバルガンを押し飛ばし、横へ跳んだ。
魔術が地面を吹き飛ばす。
そこへ。
槍。
十本。
二十本。
巨体へ突き立つ。
浅い。
だが。
血が飛ぶ。
ネグロスは一人の兵士へ噛みつこうとした。
「散れ!」
《戦鳴》を通した指示。
兵士たちが一斉に左右へ割れる。
噛みつきが空を切った。
代わりに。
ネグロスの正面へ。
バルガンが戻っている。
「ふっ!」
大剣。
振り上げる。
下顎へ。
直撃。
ネグロスの頭部が跳ね上がった。
初めて。
巨体が大きくよろめく。
「今だ!」
兵士たちが鎖を投げる。
前脚。
後脚。
首。
何重にも巻き付いていく。
ネグロスが暴れる。
一本が切れる。
もう一本。
それでも。
今度は兵士たちも離さない。
三日間。
何度も逃がした。
同じ失敗はしない。
「リエル!」
「聞こえてる」
炎の翼が開く。
リエルの身体が地面から浮き上がった。
ネグロスの赤い瞳が。
再び。
彼女へ向く。
敵意。
いや。
警戒。
その炎が。
自分の中の何かへ届くと。
本能で理解している。
ネグロスの身体が変化する。
外殻。
再び。
全身を覆い始める。
「防御へ切り替えた!」
副官が叫ぶ。
リエルはその変化を見て。
「違う」
呟いた。
「私の火は」
片手を伸ばす。
「硬くなっても意味がない」
炎が飛ぶ。
ネグロスの肩へ。
小さな火だった。
巨体から見れば。
火の粉ほどしかない。
黒い外殻へ触れる。
しかし。
燃えない。
毛も。
肉も。
焼けない。
「……?」
兵士たちが戸惑う。
次の瞬間。
ネグロスが。
凄まじい咆哮を上げた。
今までとは違う。
痛み。
巨体が暴れる。
地面が割れ。
鎖が一気に数本切れた。
「何をした?」
バルガンが聞く。
「触れただけ」
「何に」
リエルの目が。
ネグロスの胸の奥を捉える。
「混ざってるものに」
◇
ネグロスは、生まれた時から魔王だったわけではない。
何百年も。
この山脈で生きてきた。
喰い。
適応し。
生き残った。
その身体へ。
二年前。
異物が入った。
魔王核。
ネグロスは。
それさえも。
喰った。
普通の生物なら耐えられなかった。
だが。
ネグロスは適応した。
魔王核すら。
自分の一部に変えた。
だからこそ。
強い。
そして。
だからこそ。
リエルの炎が効く。
「無理やり混ざったものを」
炎が。
ネグロスの身体を這う。
「一度、分ける」
焼くのではない。
浄める。
異物と。
元々そこにあったものの境界を。
浮かび上がらせる。
ネグロスの胸元。
黒い毛皮の下。
一瞬。
暗い光が脈打った。
バルガンの目が動く。
「そこか」
「まだ」
リエルが言う。
「完全に剥がれてない」
「なら」
バルガンが剣を構える。
「剥がれるまで殴る」
「単純ね」
「戦場で複雑なことを考えるのは参謀の仕事だ」
「あなた軍団長でしょう」
「だから部下に考えさせている」
「随分偉そう」
「偉いからな」
リエルが僅かに笑った。
ネグロスが。
再び吠える。
今度は。
明確に。
怒っていた。
胸の奥。
自分の力を。
引き剥がされる。
それを理解している。
身体が。
また変わる。
外殻を捨てる。
脚。
速度。
さらに。
背中。
壊れていた翼とは別に。
小さな膜状の器官が伸び始める。
完全な飛行ではない。
跳躍の補助。
逃げるためではない。
リエルへ届くため。
「来るわよ」
ネグロスが地面を蹴った。
一度。
視界から消えるほどの加速。
「前!」
バルガンが剣を振る。
しかし。
ネグロスは直前で方向を変えた。
岩壁。
蹴る。
膜状の翼。
一瞬だけ。
身体を浮かせる。
バルガンを越えた。
「っ!」
リエルの眼前。
牙。
開く。
リエルが炎の翼を広げた。
避ける。
だが。
ネグロスも。
空中で身体を捻る。
前脚。
リエルの脇腹へ。
「――!」
直撃。
リエルの身体が吹き飛んだ。
岩壁へ。
激突。
「リエル!」
土煙。
ネグロスが。
さらに追う。
だが。
「行かせるか!」
バルガン。
横から。
大剣を叩き込む。
ネグロスの腹。
深く。
刃が入った。
血が噴き出す。
それでも。
止まらない。
ネグロスは身体を回し。
爪。
バルガンの胸へ。
鎧が裂ける。
血。
バルガンも吹き飛んだ。
双方。
地面へ転がる。
「軍団長!」
兵士たちが動こうとする。
「来るな!」
バルガンが叫ぶ。
すぐに立つ。
胸から。
血が流れている。
深い。
それでも。
剣は離していない。
「配置を崩すな!」
兵士たちが止まる。
《戦鳴》。
維持。
バルガンはネグロスを見る。
獣も。
かなり傷ついている。
腹。
肩。
脚。
三日間の傷。
そして。
リエルの炎。
今。
その身体の奥で。
魔王核との境界が。
少しずつ崩れ始めている。
土煙の向こう。
「……痛い」
リエルの声。
バルガンが見る。
岩壁の前。
リエルが。
立ち上がっていた。
脇腹を押さえている。
「死んだかと思った」
「勝手に殺さないで」
「避けきれなかったな」
「うるさい」
炎の翼。
再び。
開く。
だが。
先ほどより少し小さい。
ネグロスの一撃は。
確実に効いている。
「もう一度」
リエルが言う。
「今度は少し長く触れる」
「できるのか?」
「あなたが止めれば」
「なら止める」
バルガンが大剣を地面へ突き立てた。
息を吐く。
そして。
初めて。
自分の胸へ手を当てる。
「三日間」
低く。
「よく持たせた」
誰に向けた言葉か。
兵士たちはすぐに理解した。
「ここから先は」
バルガンの身体から。
黒いオーラが立ち上る。
普段の《戦鳴》とは。
違う。
重い。
濃い。
どこか。
人間のものではない。
兵士たちの表情が変わった。
「軍団長……」
バルガンの額。
小さな角。
皮膚の一部へ。
黒い紋様。
瞳。
赤黒く染まる。
リエルが横目で見る。
「使うのね」
「ああ」
「長くは持たないでしょう?」
「分かっている」
大剣を抜く。
その刃にも。
黒い力が纏わりついた。
軍団長奥義。
《魔装》。
さらに。
バルガンを中心に広がっていた《戦鳴》へ。
黒い力が。
ほんの僅かずつ。
混ざっていく。
周囲の兵士たち。
疲労で震えていた脚が。
止まる。
握れなくなりかけていた武器を。
再び。
強く握る。
リエルの目が細くなる。
「《軍魔共有》」
「これで最後だ」
バルガンが前へ出る。
「全軍!」
何百という兵士の呼吸が。
一つになる。
「黒牙を落とす!」
ネグロスが。
それに応えるように。
咆哮した。
山全体が。
震える。
人。
魔。
獣。
三日間続いた戦いが。
最後の局面へ入った。




