第40話 母さん
アルセリアの朝は、昨日までの戦いが嘘だったように静かだった。
大通りではすでに復旧作業が始まっている。
崩れた壁の前では職人たちが石を積み直し、商人たちは割れた看板を掛け直していた。
まだ傷跡は残っている。
それでも。
街は、もう前を向き始めている。
「シルヴァ」
後ろからティナの声が飛んできた。
「ちょっと待ちなさいよ」
「普通に歩いてるよ」
「怪我人の普通じゃないの」
「昨日よりだいぶマシ」
「昨日死にかけてた人が言う台詞じゃないでしょ」
シルヴァは振り返った。
少し遅れてティナとクジャがついてくる。
ティナは完全に監視役の顔をしていた。
クジャはいつも通り。
眠そうな顔で歩いている。
「ティナ、昨日からずっとそれ言ってる」
クジャが呟いた。
「だってこの人、放っておいたらすぐ無茶するでしょ」
「しないよ」
「する」
「クジャまで?」
「する」
「二対一だ」
シルヴァは諦めたように肩を落とした。
それから。
再び前を向く。
三人が歩いているのは、大聖堂とは反対側。
アルセリアの西端へ続く道だった。
ティナが周囲を見回す。
「ところで」
「どこに向かってるの?」
「もうすぐ」
「だから、どこ?」
「着いたら分かる」
「そういうところよ」
「何が?」
「何でも説明しないところ」
クジャがシルヴァを見る。
「秘密?」
「別に秘密じゃないよ」
「じゃあ言えばいいじゃない」
「着いた方が早い」
「絶対今言った方が早い!」
三人の声が。
朝の街へ溶けていく。
やがて。
家々が少なくなった。
石畳の道が細くなり。
緩やかな坂道へ変わる。
丘の上。
白い石碑がいくつも並んでいた。
ティナの表情が変わる。
「……ここ」
シルヴァは。
何も言わず墓地へ入った。
クジャも静かになる。
三人の足音が。
柔らかな草の上を進む。
そして。
一つの墓標の前で。
シルヴァが止まった。
そこに刻まれていた名前。
――エリナ・ライズ。
「母さんの墓」
シルヴァが言った。
短く。
それだけ。
ティナは墓標を見る。
「……そっか」
シルヴァが二人へ振り返った。
「少しだけ」
「一人でいい?」
ティナはすぐに頷いた。
「もちろん」
「待ってる」
クジャも続く。
「ありがとう」
二人は墓地の入口近くにある大きな木の方へ歩いていった。
シルヴァは。
一人で母の墓へ向き直る。
風が。
静かに吹いていた。
草が揺れる。
白銀の髪が少しだけ流れる。
シルヴァは。
しばらく何も言わなかった。
何を言おうか。
昨日から考えていた。
けれど。
実際にここへ来ると。
上手い言葉なんて出てこなかった。
「……久しぶり」
一言。
口にしてから。
少しだけ苦笑する。
「久しぶりっていうか」
「全然来てなかったんだけど」
返事はない。
当たり前だ。
それでも。
昔とは違った。
以前なら。
母親のことを考えるだけで。
胸の中に黒いものが溜まった。
悲しい。
悔しい。
寂しい。
そんな感情が混ざりすぎて。
何も言えなかった。
今は。
少しだけ。
話したいことがある。
シルヴァは墓前へ腰を下ろした。
「帰ってきたよ」
風。
「……二年も遅くなったけど」
それだけで。
胸が少し締め付けられる。
でも。
声は止まらなかった。
「いろいろあった」
「本当に」
「いろいろ」
どこから話せばいいのか。
分からない。
だから。
思いついた順番に。
「レオンは」
一度。
言葉が止まる。
「……死んだ」
墓標を見る。
「最後まで」
「俺を助けてくれた」
少しだけ。
笑う。
「今日」
「俺が昔、選抜大会に出られたのも」
「レオンが色々やってくれてたって知った」
「全然知らなかった」
「何も言わなかったから」
シルヴァは膝の上へ腕を置く。
「ずるいよね」
「死んでから知ることばっかり」
遠くで。
鳥の鳴き声。
「ディーンも生きてる」
「相変わらず口悪い」
「ミルスも」
少しだけ。
表情が変わる。
「たぶん、生きてる」
「会いに行くつもり」
そこで。
シルヴァは。
少し離れた木陰を見る。
ティナとクジャ。
二人ともこちらを見ないようにしている。
ティナは木に寄りかかり。
クジャはしゃがんで草を触っている。
「それと」
「仲間ができた」
小さく。
笑った。
「ティナ」
「昔、選抜大会の決勝で戦った子」
「今はずっと一緒にいる」
木陰。
ティナが。
なぜかこっちを見た。
目が合う。
シルヴァが少し首を傾げる。
ティナは慌てて顔を逸らした。
「……聞こえてるのかな」
「聞こえてないか」
そして。
「もう一人」
「クジャ」
「変な子」
「聞こえてる」
遠くから。
クジャの声。
シルヴァが固まった。
「……聞こえてるの?」
「そこそこ」
「離れててって言ったじゃん」
「離れてる」
「距離じゃなくて」
ティナの声も飛んでくる。
「クジャ、聞かないの!」
「聞こえる」
「聞こえても聞こえないふりするの!」
「難しい」
「難しくない!」
シルヴァは。
思わず笑った。
「……こんな感じ」
墓標へ戻る。
「結構うるさい」
「でも」
一拍。
「楽しいよ」
それは。
自然に出た言葉だった。
シルヴァ自身が。
少し驚く。
「俺」
「ちゃんと生きてる」
母に。
一番伝えたかった言葉。
「昔みたいに」
「生きてるだけじゃなくて」
「ちゃんと」
「生きてるよ」
風が吹いた。
墓前に咲く小さな白い花が。
静かに揺れる。
「だから」
「もう少し」
「いろんなところ行ってくる」
「また来るよ」
シルヴァは立ち上がった。
そして。
「母さん」
少しだけ。
笑う。
「行ってきます」
その時。
「シルヴァ」
後ろから声がした。
振り返る。
ゲイルがいた。
腕には。
白い花。
「父さん」
「……来ていたのか」
「うん」
それだけ。
ゲイルはシルヴァの隣へ来ると。
エリナの墓前へ花を置いた。
二人。
並んで墓を見る。
「昨日の傷は」
「大丈夫」
「そうか」
「ティナには大丈夫じゃないって言われてるけど」
「なら聞いておけ」
「父さんまで?」
ゲイルの視線が。
少し離れた二人へ向く。
「彼女たちか」
「うん」
「ティナとクジャ」
シルヴァが手を上げる。
「二人とも」
ティナとクジャが近づいてくる。
ティナは少し姿勢を正した。
「ティナ・ルクスです」
「昨日はお世話になりました」
「いや」
「こちらこそシルヴァが世話になっているらしい」
「ものすごく」
「ティナ」
「事実でしょ」
クジャも。
「クジャ」
「……それだけ?」
「クジャ・ローズ」
「よろしく」
ゲイルは。
二人を見る。
「シルヴァの仲間か」
「はい」
ティナが答える。
クジャも。
静かに頷いた。
シルヴァが。
ほんの一瞬だけ。
父を見る。
ゲイルは何も言わず。
ただ。
「昼は食べたか」
「まだ」
「なら家へ来い」
シルヴァの反応は早かった。
「行く」
ティナが呆れる。
「即答ね」
「ご飯は大事」
クジャも頷く。
「大事」
「クジャまで」
ゲイルが二人を見る。
「君たちも来るといい」
「いいんですか?」
「ああ」
「シルヴァの仲間だろう」
その一言で。
シルヴァは。
少しだけ。
何も言えなくなった。
そして。
「……うん」
小さく答えた。
四人は墓地を出る。
途中。
シルヴァが一度だけ振り返った。
母の墓。
白い花。
風。
「またね」
今度は。
自然に言えた。
◇
昼。
ゲイルの家。
「……これ」
シルヴァの動きが止まった。
目の前。
湯気の上がるスープ。
野菜。
肉。
少しだけ香草。
見覚えがある。
「母さんの?」
ゲイルが椅子に座る。
「昔の作り方を思い出して作った」
「父さんが?」
「嫌なら食べるな」
「嫌とは言ってない」
シルヴァが。
スプーンですくう。
一口。
「……」
ティナが横からシルヴァを見る。
クジャも。
ゲイルは見ていないふりをしている。
シルヴァは。
もう一口飲んだ。
「ちょっと違う」
「そうか」
「母さんの方が」
「もうちょっと薄かった気がする」
「そうか」
「あと野菜もう少し小さかった」
「そうか」
「肉はこっちの方が多い」
「文句が多いな」
「でも」
シルヴァが。
また一口。
「おいしい」
ゲイルが。
ほんの僅かに。
息を吐いた。
「そうか」
ティナも食べる。
「本当においしい」
クジャ。
「おかわりある?」
「ある」
「クジャ早い」
「まだ一杯目でしょ!」
「なくなる前に予約」
「そんな制度ないわよ!」
ゲイルが。
少しだけ。
笑った。
シルヴァは。
それを見た。
でも。
何も言わなかった。
普通に。
食事を続けた。
その方が。
今は良かった。
◇
「で」
午後。
商店街。
シルヴァが聞いた。
「なんで買い物?」
「なんでって」
ティナがシルヴァの袖を摘まむ。
「これ」
裂けている。
「まだ着れる」
「着れない」
「旅してる人はこのくらい普通」
「あなたの普通は信用しない」
クジャが。
シルヴァの背中を見る。
「マントも破れてる」
「これは直せる」
「ここも」
「……そこも?」
「ここも」
「いっぱいあるな」
「昨日どれだけ斬られたと思ってるのよ!」
「覚えてない」
「覚えてなさい!」
三人は衣料店へ入った。
しばらくして。
ティナが一着持ってくる。
「これ」
青。
シルヴァが。
露骨に嫌そうな顔をした。
「黒がいい」
「たまには違う色着なさいよ」
「落ち着かない」
「服の色で?」
「うん」
クジャが。
別の服を持ってくる。
濃い青。
ほとんど黒に近い。
「これ」
シルヴァが見る。
「……これなら」
ティナ。
「私のよりクジャの方がいいの?」
「黒に近いから」
「ふーん」
「何?」
「別に」
クジャが。
ティナを見る。
「妬いてる?」
「妬いてない!」
店員が。
びくっとする。
「声大きい」
「誰のせいよ!」
「クジャ?」
「私?」
シルヴァは本気で分かっていない。
ティナが頭を抱えた。
「もういい……」
結局。
シルヴァは。
今までとほとんど変わらない黒い軽装を買った。
黒い上着。
黒いパンツ。
黒いブーツ。
そして。
黒い長いマント。
ティナが。
袋の中を見る。
「何も変わってないじゃない」
「新品」
「そういう意味じゃない」
「シルヴァは黒」
クジャが言う。
「ほら」
「クジャも分かってる」
「クジャが言うと納得するの何なの?」
「妬――」
「言わなくていい!」
次は。
雑貨店。
武具店。
食料。
薬。
旅に必要なものを補充していく。
そして。
一軒の小さな店の前で。
クジャの足が止まった。
「……」
店先。
並べられたカード。
子供向けのもの。
占い用。
遊戯用。
その中に。
一組のトランプ。
黒い縁。
銀色の細い模様。
派手ではない。
けれど。
クジャは。
しばらくそれを見ていた。
シルヴァが横へ来る。
「欲しい?」
「別に」
「欲しい時の顔」
「そんな顔ある?」
「今の」
「適当」
ティナも覗き込む。
「あ」
「綺麗じゃない」
クジャが。
カードへ手を伸ばす。
そして。
途中で止めた。
「今のがある」
「でも」
シルヴァが。
クジャの腰に下げられたカードケースを見る。
角が削れている。
何枚か。
かなり傷んでいる。
「結構ボロボロじゃん」
「使える」
「予備」
「いらない」
「いるよ」
「いらない」
「じゃあ」
シルヴァが店主へ。
「これください」
クジャが。
珍しく。
少し慌てた。
「シルヴァ」
「何?」
「高い」
「大丈夫」
「私のお金で買う」
「いいよ」
「なんで」
「カードないと困るでしょ」
「戦う時も使うし」
「……」
ティナが。
横から。
じっとシルヴァを見る。
「何?」
「なんでクジャにはそんなに甘いの?」
「甘い?」
「そうよ」
「必要なもの買ってるだけだけど」
「私にも必要なものあるけど」
「何欲しい?」
「そういうことじゃない!」
クジャが。
店主からカードを受け取る。
そして。
「ティナ」
「何よ」
「妬いてる?」
「妬いてない!!」
また。
店内へ声が響く。
シルヴァ。
「何に?」
「シルヴァは黙ってて!」
「なんで!?」
クジャの口元が。
少しだけ。
上がる。
その時。
新品のカードの箱へ触れた指が。
止まった。
――これ。
――クジャにあげる。
「……」
声。
子供の声。
薄暗い部屋。
何人かの小さな影。
差し出される。
古いカード。
笑っている誰か。
顔は。
見えない。
――これ持ってたら。
――一人でも遊べるから。
パキン。
「……っ」
景色が戻る。
カードの箱。
自分の手。
目の前に。
シルヴァ。
「クジャ?」
ティナも。
すぐに気づく。
「どうしたの?」
「……」
右眼ではない。
頭。
胸。
どこかが。
少しだけ痛い。
「何でもない」
「本当?」
「うん」
クジャは。
新しいカードを。
両手で持つ。
もう一度。
小さな声。
笑い声。
でも。
掴めない。
「……昔」
「何か似たの」
「持ってた気がする」
シルヴァが聞く。
「孤児院?」
「多分」
「誰かにもらった?」
「……分からない」
クジャは。
少しだけ。
考え。
やめた。
「思い出せない」
ティナが。
何か言おうとする。
だが。
クジャは。
新しいカードの箱を見る。
「でも」
「これ」
シルヴァを見る。
「大事にする」
シルヴァが。
いつものように。
軽く笑った。
「うん」
「壊れたらまた買えばいいよ」
「……」
クジャ。
「シルヴァ」
「何?」
「そういうところ」
「何?」
ティナが。
じっと見る。
「本当にそういうところよ」
「だから何?」
二人。
同時に。
ため息。
「なんで?」
シルヴァだけ。
最後まで分からない。
◇
夕方。
三人は。
両手いっぱいに荷物を抱えて。
アルセリアの街を歩いていた。
シルヴァ。
新しい黒い服。
ティナ。
旅用品の袋。
クジャ。
新しいカード。
そして。
三人共通。
大量の菓子。
「……買いすぎた」
シルヴァが言う。
「誰のせいよ」
「ティナ?」
「どうして私!?」
「最後の店で一番買ってた」
「旅用よ!」
「お菓子が?」
「疲れた時に必要なの!」
クジャが。
自分の袋を抱く。
「これは全部必要」
「クジャの半分お菓子だよ」
「必要」
「便利な言葉になってない?」
三人は。
夕焼けの街を進む。
昨日まで。
戦場だった場所。
今日は。
子供たちが走っている。
露店が開き。
職人が怒鳴り。
どこかの家から夕食の匂い。
普通の街。
普通の時間。
シルヴァは。
ふと。
二人を見る。
ティナはまだ何か言っている。
クジャは新しいカードの箱を眺めている。
母さんにも。
見せたかったな。
そう思った。
でも。
以前のような。
苦しいだけの気持ちではなかった。
「シルヴァ?」
ティナが気づく。
「何笑ってるの?」
「別に」
「絶対何かある顔じゃない」
「ないよ」
クジャが。
「怪しい」
「二人とも疑いすぎ」
「普段の行いよ」
「俺そんなに信用ない?」
「ある」
ティナが答える。
一拍。
「……けど」
「ちょっとだけ」
シルヴァが笑う。
「どっち」
「うるさい」
クジャが。
小さく笑う。
三人の声が。
夕暮れのアルセリアへ響いていく。
そして。
シルヴァは。
一度だけ。
西の丘の方を見る。
母の墓がある場所。
明日。
また旅が始まる。
今度は。
帰る場所を知らなかった頃とは違う。
帰ってきてもいい場所がある。
それを。
ようやく少しだけ。
分かり始めていた。




