第38話 五つの恩寵
翌朝。
アルセリアの空は、昨日までの戦いが嘘だったように晴れていた。
大聖堂の尖塔へ朝日が差し込み、白い石壁を淡く照らしている。
ただし街には、まだ戦いの傷が残っていた。
崩れた外壁。
補修のために積まれた木材。
道の端には、ヴァイラ率いる第二軍団との戦闘で砕けた石が集められている。
「……痛っ」
大聖堂へ続く階段を上りながら、シルヴァが脇腹を押さえた。
その横からティナの目が飛んでくる。
「だからゆっくり歩きなさいって言ったでしょ」
「歩いてるよ」
「どこがよ」
「いつもの半分くらい」
「それでも速いの!」
シルヴァが首を傾げる。
反対側を歩いていたクジャが、ぼそりと言った。
「ティナ、昨日からずっとそれ」
「だってこの人、自分が怪我人だって自覚ないんだもの」
「あるよ」
「じゃあ走らない」
「走ってない」
「階段三段飛ばしは走ってるのと同じ!」
「……細かいなあ」
「誰のせいよ!」
クジャが少しだけ笑った。
三人が大聖堂へ入る。
高い天井。
色硝子から差し込む光。
朝の祈りを終えた聖職者たちが、三人を見ると静かに頭を下げた。
以前とは違う。
シルヴァを見て怯える者は、少なくなっていた。
昨日。
この街を守ったからだ。
だがシルヴァは、その視線にどう反応すればいいのか分からず、少しだけ目を逸らした。
「こっちだ」
声の先。
祭壇脇にガルドが立っていた。
いつもの法衣。
昨日の戦いで負った傷のため、右腕にはまだ包帯が巻かれている。
「地下へ行く」
「地下?」
シルヴァの足が止まった。
ほんの一瞬。
ティナだけが、それに気づいた。
ガルドも振り返る。
「お前がいた場所とは違う」
「……別に」
シルヴァは軽く肩をすくめた。
「何も言ってないけど」
「そうか」
ガルドはそれ以上触れなかった。
石造りの階段を下りる。
一段。
また一段。
地上の光が遠ざかっていく。
冷たい石の匂い。
湿った空気。
足音だけが長い通路に響いた。
シルヴァの指が、無意識に握られる。
ティナは何も言わず、その隣を歩いた。
クジャも気づいていたのか、普段より少しだけシルヴァとの距離を詰めている。
やがて。
ガルドが巨大な石扉の前で止まった。
扉には五つの紋章。
渦巻く風。
燃え上がる炎。
水滴。
大地を表す山。
そして、光。
「ここは?」
ティナが訊く。
「アルセリアに残る最古の記録庫だ」
ガルドが手を伸ばした。
その掌から黄褐色の光が広がる。
――大地の恩寵。
低い音を立てて石扉が開いた。
内部には無数の石板と巻物。
古びた本。
壁一面に刻まれた文字。
中央には、大きな円形の石卓が置かれている。
シルヴァが目を丸くした。
「こんなのあったんだ」
「教える必要がなかった」
「便利な言葉だね、それ」
ガルドは無視した。
石卓まで歩き、一枚の薄い石板を置く。
「昨日、ヴァイラが口にした言葉を覚えているな」
ティナの表情が引き締まった。
「恩寵……」
「ああ」
ガルドが頷く。
「お前たちは、知る必要がある」
少しの沈黙。
「二百年以上前」
「まだ魔大陸ノクティスが今の姿になる以前の話だ」
ガルドの指が、石板に刻まれた古い文字をなぞる。
「神と魔王リベリオン・ゼノアは戦った」
シルヴァは黙って聞いている。
「人間の伝承では、その戦いを神魔大戦と呼ぶ」
「そして――」
ガルドが顔を上げた。
「神は敗れた」
ティナの眉が僅かに動く。
クジャも石板を見る。
「……神様が?」
「ああ」
「ゼノアによって殺された」
静かな声だった。
だが、その一言が地下の記録庫へ重く落ちる。
シルヴァが自分の手を見た。
「じゃあ」
「俺のこれは……」
「神が死ぬ直前に残したものだ」
ガルドが答える。
「五つの恩寵」
石卓の五つの紋章へ、ガルドが順番に触れていく。
「風」
青白い風の紋章。
シルヴァ。
「炎」
赤い炎。
「水」
青い水滴。
「大地」
黄褐色の山。
そして。
「光」
白金の紋章。
ティナの胸が。
どくん。
大きく鳴った。
「……っ」
「ティナ?」
シルヴァが振り向く。
「何でもない」
反射的に答えた。
胸の奥が熱い。
痛いわけではない。
懐かしいような。
知っているような。
そんな奇妙な感覚。
ティナは無意識に胸元を押さえた。
だが数秒で、その感覚は消えた。
ガルドは続ける。
「恩寵は血統によって継承されるものではない」
「保持者が死ねば、力そのものが世界を巡る」
「そして次の適合者を選ぶ」
クジャが訊いた。
「シルヴァは?」
「風の最初の保持者だ」
「最初?」
シルヴァが目を瞬いた。
「今までいなかったの?」
「記録上はな」
「二百年も?」
「ああ」
シルヴァはしばらく考え。
「……なんで俺?」
「知らん」
「そこ一番知りたいんだけど」
「神に聞け」
「死んでるんでしょ」
「だから分からん」
「……この人、説明向いてないよね」
「今さら?」
クジャが答えた。
ティナが僅かに吹き出す。
「聞こえているぞ」
三人が黙った。
ガルドは次の石板を取り出す。
「大地の恩寵は私が保持している」
「これは既に知っているな」
シルヴァが頷いた。
「昨日、嫌ってほど見た」
「そして光」
その言葉で。
今度はティナだけでなく、シルヴァの表情も変わる。
ガルドは古い記録を開いた。
「確認されている最初の保持者は――レオン」
シルヴァの青い瞳が細くなる。
「……うん」
白金の光。
二年前。
最後に自分を包んだ光。
『生きろ、シルヴァ』
あの声。
シルヴァは視線を落とした。
ガルドは敢えて何も言わなかった。
代わりにクジャが訊く。
「レオンが死んだなら」
シルヴァの肩が僅かに揺れる。
「今は?」
「分からん」
ガルドが答えた。
「恩寵自身が新たな保持者を選んでいる可能性は高い」
「だが、光の恩寵が現在どこにあるのか、アルセリアでは確認できていない」
「……そう」
ティナが小さく呟いた。
胸の奥。
また一瞬だけ。
温かい。
だが誰にも言わなかった。
「水は?」
クジャが訊く。
「現在の保持者は不明だ」
「記録そのものが少ない」
「数十年前までは各地に痕跡があるが、その後途絶えている」
「死んだ?」
「可能性はある」
「別の者へ移った可能性もな」
そして。
ガルドの指が。
最後の紋章へ。
炎。
「問題はこれだ」
シルヴァが覗き込む。
「炎?」
「ああ」
ガルドが一枚の古い巻物を開く。
さらに別の石板。
さらに古い羊皮紙。
年代が違う。
文字も違う。
だが。
そこに描かれている人物像は。
酷似していた。
長い髪。
背中に翼。
そして炎。
「最古のものは?」
ティナが訊く。
「およそ二百年前」
「神魔大戦の直後だ」
「じゃあ新しいのは?」
「十七年前」
沈黙。
シルヴァが眉を寄せる。
「……同じ人?」
「記録が正しければ」
ガルドが言う。
「炎の恩寵は、二百年前から一度も保持者を変えていない可能性がある」
「人間じゃない?」
クジャ。
「その可能性が高い」
ガルドの声が低くなる。
「古い記録では、その者を――」
そこで。
ガルドは口を閉じた。
シルヴァが首を傾げる。
「何?」
「名前が欠けている」
「そこだけ?」
「ああ」
羊皮紙の一部。
明らかに名前が書かれていた場所だけが焼け落ちていた。
炎によって。
クジャが顔を近づける。
「……わざと?」
「分からん」
ガルドが巻物を閉じた。
「ただし確かなことがある」
「五つの恩寵は、今もこの世界に存在している」
「そして」
「魔王軍は、それを調べている」
ヴァイラ。
地下封印。
シルヴァ。
ガルド。
昨日の戦い。
全てが繋がり始める。
ティナが腕を組んだ。
「恩寵を集めるつもり?」
「目的までは分からん」
「だがゼノアが神を殺した本人なら」
ガルドは五つの紋章を見下ろした。
「神の残した力を放置する理由もないだろう」
シルヴァは風の紋章へ触れる。
冷たい石。
なのに。
指先へ僅かな風が集まった。
「二百年前から……か」
「俺が生まれるずっと前から」
「全部続いてるんだね」
「ああ」
ガルドが答えた。
「お前が望むかどうかに関係なくな」
「……またそれ?」
「事実だ」
シルヴァは少し嫌そうな顔をした。
だが。
今度は目を逸らさなかった。
「じゃあ」
「知るよ」
ガルドを見る。
「俺に関係あるなら」
「ちゃんと全部」
ガルドは数秒。
シルヴァを見つめ。
「そうしろ」
短く答えた。
その時だった。
「……待って」
クジャの声。
ティナが振り返る。
「どうしたの?」
クジャは答えない。
右手を。
眼帯へ添えていた。
「クジャ?」
「少しだけ」
黒い眼帯を持ち上げる。
閉じられていた右眼。
ゆっくり。
開く。
――ズキン。
「っ……」
右眼の奥が痛む。
だがクジャは石卓を見た。
五つの恩寵。
それぞれ違う光。
風。
炎。
水。
大地。
光。
力の流れ。
構造。
残された痕跡。
そして。
「…………」
クジャの表情が消えた。
五つの紋章の下。
石卓のさらに奥。
地面の下。
そこに。
恩寵とは違う。
細い。
黒い。
何かの痕跡。
まるで。
遥か昔。
何かがこの場所を通ったような。
一本の線。
「何が見える?」
ガルドの声。
クジャは答えない。
もう少しだけ見ようとする。
――ズキン。
「……っ!」
右眼から涙が滲む。
ティナが慌てて腕を掴んだ。
「もう閉じて!」
クジャは眼帯を戻した。
しばらく俯く。
シルヴァも近づいた。
「大丈夫?」
「うん」
「何かあった?」
「……分からない」
クジャが石卓を見る。
もう。
普通の目では何も見えない。
「でも」
一拍。
「この五つとは違う何かが」
「ここにいた」
ガルドの目が細くなる。
「いつだ」
「分からない」
「今?」
クジャは首を横に振った。
「もっと前」
「ずっと」
「……ずっと昔」
冷たい地下室。
誰も言葉を発さなかった。
五つの恩寵。
神の死。
二百年生き続ける炎の保持者。
そして。
その記録のさらに奥に残る。
正体不明の痕跡。
シルヴァは石卓を見下ろした。
知らないことが。
まだ多すぎる。
だが。
今度は。
そこから逃げるつもりはなかった。




