第24話 父
「……ただいま」
自分でも。
どうしてその言葉が出たのか分からなかった。
二年間。
一度も帰らなかった家。
それより前ですら。
自分にとってここが「帰る場所」だったのは、ずっと昔のことだ。
「…………」
ゲイルは。
目の前に立つ息子を見つめていた。
何かを言おうとして。
何度か口を開いて。
結局。
「……ああ」
それしか出なかった。
「おかえり」
その声を聞いた瞬間。
シルヴァの胸の奥が。
少しだけ痛んだ。
◇
「入ってくれ」
ゲイルが扉を大きく開く。
「二人も」
「あ、お邪魔します」
ティナが頭を下げた。
「お邪魔します」
クジャも続く。
シルヴァは。
玄関を跨いだところで立ち止まった。
「…………」
匂い。
古い木。
乾いた薬草。
暖炉。
全部。
覚えている。
「変わってない」
「……あまり弄っていないからな」
ゲイルが答える。
居間。
テーブル。
椅子。
棚。
壁に掛かった古い時計。
そして。
「…………」
棚の上。
一つだけ。
小さな陶器の花瓶が置かれていた。
白い花。
シルヴァの視線に気づき。
ゲイルが言う。
「今日、替えたばかりだ」
「……そう」
その花を。
母が好きだったことを。
シルヴァは覚えていた。
「座ってくれ」
ゲイルが慌てたように動く。
「茶を――」
「いいよ」
「しかし」
「いいって」
「……そうか」
また。
沈黙。
ティナとクジャが。
静かに顔を見合わせる。
普段なら。
三人いれば、何かしら誰かが喋っている。
だが。
今だけは。
ティナも何を言えばいいか分からなかった。
ゲイルが二人を見る。
「その……」
「はい?」
「シルヴァの」
言葉を探す。
「仲間か?」
「はい」
ティナが答えた。
「一緒に旅をしています」
「そうか」
ゲイルの顔が。
僅かに緩んだ。
「こいつが誰かと一緒に帰ってくるとは思わなかった」
「どういう意味?」
シルヴァが聞く。
「そのままの意味だ」
「俺、普通に友達いるよ」
クジャが言う。
「私たち友達?」
「違うの?」
「確認」
「今する?」
ティナが思わず笑った。
「こんな時までいつも通りね」
「何が?」
「そういうところ」
ゲイルも。
少しだけ。
笑った。
その顔を見て。
シルヴァが一瞬。
言葉を失う。
昔。
何度も見た顔だった。
◇
「腹は減っているか?」
ゲイルが聞いた。
「減ってる」
即答。
「あなた昼ご飯食べたでしょ!」
ティナが振り向く。
「歩いたから」
「まだそんなに歩いてない!」
「家まで来た」
「街の中よ!」
ゲイルが。
また少し笑った。
「昔からだ」
「昔からなの!?」
ティナが驚く。
「よく食べる子だった」
「成長期だから」
「今も?」
「今も」
「まだ成長してる」
「便利な言葉にしない!」
ゲイルが台所へ向かう。
「簡単なものなら作れる」
「俺も手伝う」
「シルヴァが?」
ティナが驚く。
「何その反応」
「だって」
「料理くらいできるよ」
「魚焼くくらいでしょ?」
「スープも作れる」
「エマさんに教えてもらったやつ?」
「うん」
ゲイルの足が。
少し止まった。
「……エマさん?」
「あ」
シルヴァが普通に答える。
「二年間、一緒にいた人」
「そうか」
「キャラバンで」
「そうだったのか」
「うん」
ゲイルは。
それ以上聞かなかった。
ただ。
「なら」
小さく笑う。
「教えてもらったものを食べてみたいな」
「今日は作らないよ」
「何故だ」
「疲れた」
「今の流れ何だったの!?」
ティナが頭を抱えた。
◇
夕方。
テーブルには。
肉と根菜を煮込んだスープ。
焼いたパン。
卵。
山菜。
簡単な料理が並んでいた。
「…………」
シルヴァがスープを一口。
止まる。
「どうしたの?」
ティナが聞く。
「……同じ」
「何が?」
「昔の味」
ゲイルが。
少しだけ目を伏せる。
「エリナに教わったからな」
「…………」
シルヴァは。
もう一口。
食べる。
母の料理と。
完全に同じではない。
でも。
近い。
懐かしい。
「美味しい?」
クジャが聞く。
「うん」
「よかった」
何故かクジャが頷く。
シルヴァが見る。
「何でクジャが嬉しそうなの?」
「シルヴァ嬉しそうだから」
「俺?」
「うん」
「…………」
ティナが少し微笑む。
「よかったじゃない」
「何が?」
「別に」
「二人とも今日変だね」
「あなたに言われたくない!」
◇
食事が進むにつれて。
最初の硬い空気は。
少しずつ。
和らいでいった。
ゲイルが聞く。
「この二年間は」
「どうしていたんだ?」
「旅してた」
「それは聞いた」
「キャラバンの護衛」
「ずっと?」
「うん」
「どんな人たちだ」
シルヴァが少し考える。
「ロイド」
「エマ」
「ドラン」
「ルカ」
「ミア」
名前が。
次々に出る。
「ロイドはまとめ役」
「エマは料理うまい」
「ドランは剣見てくれて」
「ルカはうるさい」
「ミアも結構うるさい」
「シルヴァ大好きだったけどね」
ティナが言う。
「そう?」
「ずっとくっついてたじゃない」
「子供?」
ゲイルが聞く。
「八歳です」
「そうか」
シルヴァがパンをちぎる。
「今は東方の砦にいる」
「安全なのか?」
「ティナのところだから」
ゲイルがティナを見る。
「君は軍人なのか?」
「東方防衛隊の隊長をしていました」
「隊長?」
ゲイルが驚く。
「この年で?」
「十六です」
「シルヴァと同じか」
「はい」
ゲイルがシルヴァを見る。
「立派な仲間だな」
「うん」
「…………」
ティナの頬が。
僅かに赤くなる。
クジャが見た。
「嬉しそう」
「普通!」
「顔赤い」
「暖炉!」
「今日便利だね」
「クジャ!」
ゲイルが。
何となく察したような顔をする。
「……そうか」
「何ですか!?」
「いや」
「絶対何か思いましたよね!?」
「何も」
「今の『そうか』何ですか!」
シルヴァだけが。
普通にスープを飲んでいた。
「ティナうるさいよ」
「あなたは少し気づきなさいよ!」
「何に?」
「もういい!」
◇
食器を片づけた後。
四人は再び。
居間へ戻った。
今度は。
さっきまでの笑い声はなかった。
シルヴァが。
ずっと聞かなければならないと思っていたこと。
でも。
ずっと聞きたくなかったこと。
「父さん」
「……ああ」
ゲイルも。
分かっていたのだろう。
シルヴァの声を聞いた瞬間。
背筋を伸ばした。
「聞きたいことある」
「何でも聞け」
「…………」
シルヴァの手が。
膝の上で握られる。
「何で」
一度。
言葉が止まる。
「俺を閉じ込めるのに」
「賛成したの」
ティナとクジャは。
口を挟まない。
ゲイルも。
すぐには答えなかった。
「…………」
長い沈黙。
「覚えていたか」
「忘れるわけないだろ」
「……そうだな」
ゲイルが。
両手を組む。
「お前の風が暴走した後」
ゆっくり。
話し始める。
「聖都では」
「お前を生かしておくべきではないという声が出た」
シルヴァの目が。
僅かに細くなる。
「……知ってる」
「どこまでだ」
「俺が危ないって言われてたくらい」
「そうか」
ゲイルは。
一度目を閉じた。
「処刑の話まで出ていた」
「…………」
ティナの顔が変わった。
クジャも。
僅かに目を細める。
シルヴァだけは。
何も言わない。
「私は反対した」
ゲイルが続ける。
「当然だ」
「お前は私の息子だから」
「…………」
「だが」
拳が強く握られる。
「それだけでは止められなかった」
「じゃあ」
シルヴァが聞く。
「ガルド?」
ゲイルの目が上がった。
「ああ」
「最高司祭ガルドが」
「処刑ではなく」
「封印を提案した」
「…………」
シルヴァの表情は。
変わらない。
だが。
指だけが。
僅かに動いた。
「地下へ隔離し」
「風を封じ」
「外へ出さない」
「その条件なら」
「命は保証すると」
シルヴァが。
低く聞く。
「それで父さんは頷いた?」
「……ああ」
短い。
答え。
「頷いた」
「…………」
「お前を生かすためだった」
シルヴァの目が。
一瞬だけ鋭くなる。
「それ言えば」
「許すと思ってる?」
「思っていない」
即答だった。
シルヴァが止まる。
ゲイルは。
正面から。
息子を見る。
「お前を生かしたかった」
「それは本当だ」
「だが」
声が少し震える。
「お前を地下へ送ることに同意したのも」
「私だ」
「…………」
「何年も」
「お前をあそこに置いた」
「それも事実だ」
ゲイルは。
目を逸らさない。
「私は」
「お前に許してもらえるとは思っていない」
静かな声。
「…………」
シルヴァが。
目を伏せる。
「俺」
「うん」
「父さんが」
一度。
息を吸う。
「俺のこと捨てたんだと思ってた」
「…………」
「母さんは来た」
「何回も」
「でも父さんは」
「途中から来なくなった」
ゲイルの顔が。
苦しそうに歪んだ。
「それは……」
「何?」
「最初は」
ゲイルが言う。
「何度も行った」
シルヴァの眉が動く。
「覚えていないか」
「…………」
「お前は」
苦く笑う。
「私の顔を見るたび」
『帰れ』
「そう言った」
シルヴァの中。
ほんの僅か。
記憶。
鉄格子。
その向こう。
父。
『シルヴァ』
『帰れ!!』
風。
叫び。
「…………」
「覚えてる」
「そうか」
ゲイルは頷く。
「その度に」
「私は」
「自分が来ることでお前を苦しめていると思った」
「だから来なくなった?」
「ああ」
「…………」
「間違っていた」
ゲイルが言った。
「今なら分かる」
「お前がどれだけ怒っていても」
「どれだけ嫌われても」
「私は行くべきだった」
シルヴァが。
拳を握る。
「母さんは来た」
「……ああ」
「ずっと」
「ああ」
「父さんは来なかった」
「……ああ」
「だから」
シルヴァの声が。
ほんの少し震えた。
「捨てられたと思うだろ」
「そうだな」
ゲイルの声も。
震えていた。
「そう思わせたのは」
「私だ」
沈黙。
長い。
誰も。
何も言わない。
◇
「ガルドは」
シルヴァが聞いた。
「昔から、あの力使ってたよね」
「……あの力?」
「俺の風を封じてたやつ」
「ああ」
「今日」
白嶺山脈で見たもの。
「同じ力を見つけた」
ゲイルが顔を上げる。
「山で?」
「崩落が止まってた」
「…………」
「クジャが」
クジャを見る。
「俺の風とか、ティナの光と同じ種類の力だって見た」
ゲイルの目が。
ティナへ移った。
「光?」
「…………」
ティナが一瞬迷う。
シルヴァが言う。
「後で話す」
「……そうか」
「多分」
シルヴァが続ける。
「ガルドが使ってたの」
「大地の恩寵だ」
ゲイルは。
しばらく黙っていた。
「私は」
「その名前では聞いたことがない」
「ガルドからも?」
「あの方は」
少し考える。
「自分の力について、ほとんど語らない」
「昔から?」
「ああ」
「ただ」
「?」
「お前の封印区画を作る時」
ゲイルの表情が険しくなる。
「ガルド自身が地下へ何度も降りていた」
シルヴァの目が。
少し細くなる。
「やっぱり」
「床や壁に」
「特殊な封印を刻んでいた」
「…………」
「お前の風が外へ漏れないように」
シルヴァは。
自分の右手を見る。
あの感覚。
クジャが見た。
恩寵の残滓。
「……間違いなさそうだね」
ティナが呟く。
「大地の恩寵」
「うん」
シルヴァは。
嬉しそうではなかった。
◇
「それから」
ゲイルが言った。
「大聖堂へ行くつもりなのか?」
「明日」
シルヴァが答える。
「ガルドに会う」
「…………」
「嫌だけど」
「そうか」
「あとディーン探してる」
「ディーン?」
ゲイルの反応が変わる。
「知ってるの?」
「知っている」
「レオンと一緒にいた頃」
「何度かここへ来た」
「ここに?」
「お前が旅立つことになった時にな」
シルヴァが少し驚く。
「何しに?」
「私に文句を言いに」
「ディーンが?」
「ああ」
ゲイルが苦笑する。
「お前の剣の動きが悪いのは、幼い頃まともに身体を動かせなかったせいだ、と」
「……言いそう」
「かなり怒られた」
「ディーン誰にでも言うね」
少しだけ。
空気が和らぐ。
「それで」
シルヴァが身を乗り出す。
「最近見てない?」
「…………」
ゲイルが。
妙な顔をした。
「何?」
「いや」
「何?」
「……三日前だ」
シルヴァの動きが。
止まった。
「え?」
「三日前」
「ディーンが聖都に戻っている」
「――!」
シルヴァが立ち上がった。
「どこ!?」
「落ち着け」
「どこにいる!?」
「シルヴァ!」
ティナが袖を掴む。
「今から探しに行かない!」
「でも!」
「もう夜!」
「聖都明るいよ!」
「そういう問題じゃない!」
ゲイルが。
久しぶりに。
少し大きく笑った。
シルヴァが振り向く。
「何?」
「いや」
ゲイルは。
どこか懐かしそうに息子を見る。
「変わったようで」
「変わっていないと思ってな」
「どっち?」
「両方だ」
「意味分かんない」
ティナが言う。
「私、ちょっと分かります」
「ティナまで?」
クジャも頷く。
「私も」
「何で?」
「分かりやすいから」
「それ最近よく言われる」
◇
「ディーンは」
ゲイルが続けた。
「大聖堂へ向かった」
「ガルドのところ?」
「おそらく」
「何のために?」
「そこまでは知らない」
「ただ」
ゲイルの表情が。
再び真剣になる。
「最近、大聖堂の様子がおかしい」
「おかしい?」
ティナが聞く。
「ああ」
「数日前から警備が増えた」
「地下へ入れる人間も制限されている」
「それに」
ゲイルが窓の外。
街の中心にそびえる大聖堂を見る。
「昨日の夜」
「地面が僅かに揺れた」
「地震?」
「違うと思う」
「何で?」
「聖都では」
ゲイルが言う。
「小さな地震なら珍しくない」
「白嶺山脈の麓だからな」
「だが昨日のものは」
少し言葉を選ぶ。
「揺れたというより」
「?」
「地下で」
低く。
「何かが動いたような感覚だった」
三人の表情が変わった。
エルネア。
盗まれた資料。
古代封印。
聖都。
そして。
魔族たち。
「……偶然?」
クジャが聞く。
「だったらいいけど」
ティナが答える。
シルヴァは。
大聖堂を見た。
「明日」
「行く」
「うん」
ティナも頷く。
「ディーンも」
「ガルドも」
「地下の封印も」
クジャが言う。
「全部あそこ」
「…………」
シルヴァが。
少し嫌そうな顔をした。
「やっぱり帰りたい」
「駄目」
「早い」
「言うと思ったから!」
◇
その夜。
ティナとクジャは。
ゲイルが用意した二階の客室へ向かった。
「二部屋?」
ティナが聞く。
「ああ」
「君たち二人で一部屋」
「シルヴァは昔の部屋が残っている」
「……残ってるの?」
シルヴァが聞く。
「そのままだ」
「…………」
「使いたくなければ客室を――」
「いい」
シルヴァが答える。
「使う」
「そうか」
◇
二階。
廊下の奥。
シルヴァは。
一人で扉を開けた。
「…………」
小さな部屋。
ベッド。
机。
棚。
子供用の木剣。
昔のまま。
「……これまだあったんだ」
木剣を取る。
軽い。
短い。
小さい頃。
勇者でも。
恩寵でも。
何でもなかった時。
ただ。
剣士になりたいと思って振っていた。
『シルヴァ』
母の声。
『ご飯よ』
「…………」
机。
その上。
一枚。
古い布。
母が縫ったもの。
シルヴァは。
ベッドへ座った。
「母さん」
声は。
誰にも聞こえない。
「帰ってきたよ」
返事はない。
でも。
今日は。
昔より。
少しだけ。
この家が。
息苦しくなかった。
◇
同じ頃。
聖都アルセリア。
大聖堂。
地下。
幾重もの石扉を越えた先。
巨大な封印陣。
地面を走る。
無数の古い紋様。
その中心に。
一人の男が立っていた。
白と土色を基調とした法衣。
長い聖杖。
年齢は五十前後。
厳格な顔。
聖都アルセリア最高司祭。
ガルド。
「…………」
聖杖を。
地面へ突く。
――ゴン。
茶金色の光。
地面を走る。
封印陣。
その一部。
黒い。
細い線。
「……」
ガルドの目が。
険しくなる。
それは。
この聖都の封印には存在しないはずの力だった。
外から。
何かが。
地中へ。
入り込んでいる。
「侵入者か」
背後。
石壁にもたれていた男が答える。
「多分な」
黒髪。
黒い旅装。
腰の剣。
「面倒なのが来てる」
ガルドが振り返る。
「ディーン」
「何だ」
「その言葉をお前から聞くと」
「説得力がない」
「どういう意味だ」
「お前自身が面倒だからだ」
「……相変わらず嫌な爺だな」
「お前も相変わらずだ」
ディーンが壁から身体を起こす。
そして。
封印陣を走る。
黒い線を見る。
「こいつ」
低く言った。
「俺が山で会った魔族と」
「同じ臭いがする」
ガルドの瞳が。
細くなる。
「魔王軍か」
「さあな」
「まだ名前までは吐かなかった」
ディーンが剣の柄へ手を置く。
「ただ」
大聖堂の地下。
さらに深い場所。
「ここを」
「探してるのは間違いない」
茶金色の光と。
黒い脈。
二つの力が。
地の底で。
静かにぶつかっていた。




