第18話 残された足跡
翌朝。
学術都市エルネア。
湖から吹き込む涼しい風が、宿の窓を揺らしていた。
街はすでに目を覚ましている。
通りを行き交う学生。
大量の本を荷車で運ぶ職員。
朝から議論を始めている研究者たち。
王都レグナとはまるで違う、静かだが忙しい朝だった。
そして。
宿の一階にある食堂では――。
「…………」
ティナが、一枚の紙を見つめていた。
朝食の伝票だった。
「シルヴァ」
「ん?」
向かいでは、シルヴァが最後のパンを口へ放り込んでいる。
「昨日、私が何て言ったか覚えてる?」
「いっぱい言ってた」
「その中から察しなさいよ!」
「難しい」
「旅費!」
「ああ」
「『旅費は大事に使おう』って話したでしょ?」
「したね」
「じゃあこれは何?」
ティナが伝票を突きつける。
シルヴァが覗いた。
「朝飯」
「見れば分かるわよ!」
パン。
卵。
腸詰め。
焼いた鶏肉。
豆の煮込み。
スープ。
追加のパン。
追加の肉。
さらに食後の焼き菓子。
三人分の朝食代の半分以上を、シルヴァ一人で占めていた。
「エルネアの飯、美味しいね」
「感想は聞いてない!」
隣で牛乳を飲んでいたクジャが伝票を覗いた。
「昨日より高い」
「ほら!」
「量も多かった」
「クジャまで!」
「事実」
シルヴァが首を傾げる。
「歩くから腹減るんだよ」
「私たちも同じ距離歩いてる!」
「ティナはまだ怪我治ってないから、あんまり食べてないし」
「それとあなたの食べすぎは別問題!」
「じゃあ昼減らす」
ティナが疑うように見る。
「本当に?」
「肉一枚減らす」
「誤差よ!」
食堂にいた学生たちが、ちらちらと三人を見る。
ティナはそれに気づき、慌てて声を落とした。
「……もう。朝から目立たないでよ」
「ティナが大声出したんじゃん」
「誰のせいよ……」
クジャが最後のパンへ手を伸ばす。
「今日、研究院?」
「そう」
ティナもようやく表情を切り替えた。
机の上には、王都レグナの王立資料局から渡された紹介状が置かれている。
「まずディーンさんの足取りを確認する」
「うん」
「その後、五大恩寵について調べる」
「うん」
「それから」
ティナがシルヴァをじっと見る。
「勝手にいなくならない」
「俺?」
「あなた」
「いなくなってないよ」
「昨日、古武器屋を見つけた瞬間に消えたでしょ!」
「十歩くらいしか離れてない」
「振り向いたら店の中にいたの!」
「剣が見えたから」
「だからよ!」
ティナは今度はクジャを見る。
「クジャも」
「何?」
「露店を見つけるたびに止まらない」
「昨日は三回だけ」
「数えてるなら自覚あるじゃない!」
「カードがあった」
「……二人ともほんと自由ね」
ティナが頭を抱える。
「隊長やってた時より疲れるかもしれない」
「俺たち兵士じゃないよ」
「なお悪いわよ!」
◇
王立古代史研究院。
昼間に見るその建物は、昨夜以上に巨大だった。
白い石造りの本館。
左右へ広がる研究棟。
湖上へ張り出す観測塔。
各建物を結ぶ長い渡り廊下。
正面の広場だけでも、百人近い学生や研究者が行き交っている。
「でかい」
シルヴァが見上げた。
「迷ったら面倒」
クジャも言う。
「だから離れないでね」
ティナが念を押す。
「子供じゃないよ」
「昨日の行動を思い出して」
「…………」
「何で黙るの?」
三人は受付へ向かった。
ティナが軍属証と紹介状を提示する。
受付の女性が内容を確認し、奥へ人を呼びに行った。
しばらくして。
何冊もの本を両腕に抱えた老人が現れた。
長い白髪。
細い眼鏡。
書物に埋もれるような姿だ。
「東方防衛軍のティナ・ルクス殿ですね」
「はい」
「お待ちしておりました」
老人は抱えていた本を近くの机へ置き、眼鏡を直す。
「古代戦史を担当しております、ハインと申します」
「ティナ・ルクスです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ハインの視線が横へ動く。
シルヴァを見る。
「そして……」
「シルヴァ・ライズ」
「やはり」
「俺のこと知ってるの?」
「もちろんですとも」
ハインの目が一気に輝いた。
「風の恩寵を宿した少年。その存在については、当研究院でも以前から――」
一歩。
ハインが近づく。
「可能であれば、少々測定を――」
「駄目です」
ティナが即答した。
「まだ何も言ってませんが!?」
「顔で分かります」
「ほんの少しです! オーラの波長を測定し、可能ならば血液を――」
「もっと駄目です!」
「血くらいなら別に」
シルヴァが言った。
「あなたは黙ってて!」
「何で?」
「何されるか分からないでしょ!」
「研究です!」
「だから怖いんです!」
ハインは本気で残念そうに肩を落とした。
「貴重な機会なのですが……」
「今日は人探しです」
「……そうでしたな」
ハインが咳払いをする。
「ディーンという剣士についてでしたね」
シルヴァの顔から一瞬でふざけた色が消えた。
「覚えてる?」
「ええ」
即答だった。
「四か月ほど前になります」
「本人だった?」
「本人かどうかまでは私には分かりません。しかし――」
ハインは三人を自分の研究室へ案内した。
壁一面の本棚。
机には古い地図や石板の写しが山積みになっている。
その中から、一冊の入館記録を取り出した。
「忘れられる方ではありませんでした」
古びたページを開く。
指先が一つの名前で止まった。
――ディーン。
「…………!」
シルヴァが身を乗り出す。
「名前まで書いてある」
「本人がそう名乗りましたからな」
「偽名かもしれない」
クジャが言う。
「ディーンは偽名なんか使わないよ」
「何で分かるの?」
「面倒くさがるから」
ティナが少し考える。
「……確かに、あなたの話を聞く限り使わなそうね」
「でしょ」
ハインが苦笑した。
「彼は三日間、この研究院へ通っていました」
「何を調べてた?」
「神魔大戦についてです」
ハインは記録を辿る。
「魔王ゼノア。そして――魔王核」
シルヴァの目が細くなる。
「魔王核……」
「さらに五大恩寵についても資料を閲覧しています」
ティナが無意識に胸元へ手を置いた。
「光も?」
「五大恩寵の一つですから、当然」
「ディーンが恩寵を……」
二年前。
ディーン自身は恩寵を持っていなかった。
雷を纏う剣士。
己のオーラを極め、その性質を雷へ変えた純粋な人間の戦士。
そんなディーンが。
なぜ今になって、恩寵を調べているのか。
「何か話してなかった?」
シルヴァが聞く。
「ほとんど話しませんでした」
「やっぱりディーンだ」
「それだけで?」
ティナが呆れる。
「必要なことしか言わないから」
「シルヴァと逆」
クジャが言った。
「俺も必要なことしか喋らないよ」
ティナとクジャが同時に見た。
「何?」
「何でもない」
二人の声が重なる。
「……?」
ハインは話を続けた。
「ただ、最後の日に一つだけ尋ねられました」
「何を?」
「聖都アルセリアなら、さらに古い原典が残っているか、と」
シルヴァの表情が止まった。
「…………」
「そしてその日の夕刻、西門からエルネアを出ています」
「方向は?」
「白嶺山脈方面です」
その先にある場所は。
言われなくても分かる。
聖都アルセリア。
「……やっぱり」
小さく呟く。
四か月前。
ディーンは確かにここにいた。
生きていた。
そして。
自分たちと同じものを追っている。
「シルヴァ」
ティナが横から声をかけた。
「何?」
「よかったわね」
「…………」
シルヴァは記録に書かれた名前をもう一度見る。
それから。
ほんの少しだけ笑った。
「うん」
ティナも微笑んだ。
◇
「それでは」
ハインが席を立つ。
「せっかくですから、五大恩寵について現在閲覧できる資料もご案内しましょう」
「お願いします」
ティナが頭を下げた。
シルヴァも立つ。
だが。
ハインの表情が少し曇った。
「ただ……一つ問題がありまして」
「問題?」
「ここ数日、一部の古文書の所在が分からなくなっています」
空気が変わった。
クジャが真っ先に聞いた。
「盗まれた?」
「まだ断定できません」
ハインは首を振る。
「研究者が別区画へ持ち出したまま返却を忘れている可能性もあります」
「何がなくなったの?」
「神魔大戦期の古文書が数点」
そして。
「五大恩寵について記された写本」
ティナとシルヴァが目を合わせた。
昨日の夜。
閉館後の研究院。
窓を横切った人影。
そして。
クジャが感じた違和感。
「昨日の夜」
シルヴァが聞く。
「研究院に人いた?」
「当然です」
「当然?」
「研究者というものは、興味のある資料を見つけると昼夜を忘れますので」
「自信満々に言うことじゃないと思う」
ティナが呆れる。
「地下にも?」
シルヴァが続けた。
ハインの顔が止まる。
「……地下?」
「地下書庫とか」
「何故、その存在をご存じで?」
「あるんだ」
「ありますが、一般には公開しておりません」
クジャが口を開いた。
「昨日、下から変な感じがした」
ハインが彼女を見る。
「変な感じ?」
「オーラみたいな」
「みたいな?」
「普通じゃなかった」
眼帯を指先で触る。
「うまく説明できない」
「クジャの眼なら、普通の人には分からない力が見えることがあります」
ティナが補足する。
ハインの目がまた輝いた。
「その眼も是非――」
「駄目です」
「まだ何も!」
「同じ顔してました」
シルヴァが笑う。
ハインが咳払いした。
「ともかく、本来であれば地下への立ち入りには院長の許可が必要です」
ティナが軍属証を取り出す。
「資料盗難の可能性があり、魔族や魔王軍が関与している可能性も否定できないなら、東方防衛軍として確認することはできます」
「まだ魔族とは決まっていませんが……」
「昨日、閉館後の建物でクジャが不自然な力を感じています」
「…………」
ハインはしばらく考えた。
「分かりました」
頷く。
「私の責任でご案内しましょう」
「ありがとうございます」
「ただし」
ハインがシルヴァを見る。
「資料には触れないでください」
「何で俺だけ見るの?」
「何となくです」
「ひどい」
「妥当」
クジャが言った。
◇
地下へ向かう途中。
三人とハインは、湖を望む長い渡り廊下を歩いていた。
外には青い水面。
小さな研究船がゆっくり湖を進んでいる。
「綺麗ね」
ティナが言った。
「うん」
シルヴァが窓の外を見る。
「魚いるかな」
「景色見て最初にそれ?」
「湖だし」
「食べることしか考えてないの?」
「剣のことも考える」
「どっちも同じくらいじゃない!」
クジャは二人から少し遅れて歩いていた。
湖を見つめている。
「…………」
ティナが気づいた。
「クジャ?」
「何?」
「こういう湖、ノクティスにもあった?」
「…………」
何気ない質問だった。
クジャの足が少しだけ遅くなる。
「分からない」
「あ……」
昨日の話を思い出し、ティナが慌てる。
「ごめん。無理に思い出さなくていいから」
「別にいい」
クジャは気にしていないように答えた。
もう一度。
水面を見る。
「でも」
「ん?」
「孤児院の近くに……」
そこで言葉が止まる。
「近くに?」
「水が」
クジャが眉を寄せた。
「水?」
「大きい水」
「湖?」
「……多分」
その瞬間。
視界の奥で。
何かが揺れた。
夕焼け。
暗い水面。
古びた石造りの建物。
子供の手。
『クジャ! 早く!』
「…………っ」
ズキッ。
右眼。
クジャが眼帯を強く押さえた。
「クジャ!」
シルヴァが振り返る。
「大丈夫?」
「……うん」
「眼?」
「少し痛い」
ティナが近づく。
「座る?」
「平気」
「無理しないで」
クジャは眼帯から手を離した。
「今」
「何?」
「何か思い出した気がした」
シルヴァとティナが黙る。
「どんな?」
「…………」
クジャが目を閉じる。
探す。
でも。
もう何もない。
「忘れた」
「今の今で?」
「うん」
自分でも少し不思議そうだった。
「誰かに呼ばれた」
「名前を?」
「多分」
「誰?」
「分からない」
シルヴァはしばらくクジャを見る。
それ以上は聞かなかった。
「じゃあ思い出した時でいいよ」
「……うん」
ティナも頷く。
「焦って思い出す必要ないわ」
「そう?」
「そうよ」
「分かった」
クジャはまた歩き始めた。
ただ。
今度は湖を見なかった。
◇
研究院地下。
白い石壁から、古い灰色の石壁へ。
空気が変わる。
湿っている。
肌寒い。
「この地下区画は、エルネアが学術都市として成立する以前から存在しています」
ハインがランプを掲げる。
「古代遺構の一部を、そのまま書庫として利用しているのです」
「古いね」
シルヴァが壁へ目を向ける。
「二百年前より?」
「一部はさらに古い可能性があります」
「へえ」
シルヴァが触ろうとする。
「触らない」
ティナに手首を掴まれた。
「まだ何もしてない」
「しようとしてた」
「見るだけ」
「手が出てた」
クジャが言う。
「二人とも俺に厳しくない?」
「自業自得よ」
さらに奥へ。
人の声が消えていく。
研究院の地下とは思えないほど静かだった。
やがて。
ハインが一つの重い鉄扉の前で止まる。
「この先が古代資料区画です」
鍵を取り出す。
カチャ。
扉が開く。
長い廊下。
その先にいくつもの書庫。
シルヴァが一歩入った。
その時。
――グルルルル……。
「…………」
足が止まった。
「今の聞こえた?」
ティナも剣の柄へ手を置く。
「聞こえた」
クジャが言う。
ハインだけが顔を青ざめさせた。
「……何ですか、今のは」
「動物?」
「この地下に生き物などいるはずが……」
もう一度。
――グルルルルルル……。
低い唸り。
今度は明確だった。
「ハインさん」
「はい」
「後ろにいて」
シルヴァの声が変わる。
「ティナ」
「分かってる」
細身の剣を抜く。
まだ傷は完全には治っていない。
無茶はできない。
クジャは右眼の眼帯へ手をかけた。
「ちょっと見る」
「大丈夫?」
「少しなら」
紐を外す。
右眼が露わになる。
「…………」
世界が変わった。
物の輪郭。
生き物の中を流れる力。
ハイン。
普通の人間。
ティナ。
通常のオーラの奥。
まだ眠るように存在する白金の光。
シルヴァ。
身体と最初から一つであるかのように循環する風。
そして。
廊下の奥。
「いる」
クジャが言った。
「何人?」
「……三人」
シルヴァが剣を抜く。
「人?」
「多分違う」
「魔族?」
「シルヴァたちとは流れが違う」
そして。
さらに奥。
巨大な塊。
「もう一つ」
「何?」
「魔物」
右眼を細める。
異常だった。
魔物そのものが持っている力。
その上から。
別の力が絡みついている。
黒く。
太く。
本来の流れを押し広げるように。
「……変」
「何が?」
ティナが聞く。
「あの魔物」
クジャは奥を見たまま答える。
「元々持ってる力だけじゃない」
「どういうこと?」
「誰かが後から入れてる」
「オーラを?」
「多分」
クジャにも。
それが誰の力なのか。
どういう能力なのか。
そこまでは分からない。
ただ。
明らかに。
本来の魔物の力ではなかった。
「身体の中の道を」
クジャが小さく呟く。
「無理矢理広げてる」
「それで?」
「力が増えてる」
「どのくらい?」
「分からない」
少し間を置き。
「でも、かなり」
シルヴァが廊下の奥を見る。
鉄扉の隙間。
一瞬。
巨大な獣の前脚が見えた。
普通の魔物より遥かに太い。
爪が石床を削っている。
「魔王軍が魔物を強くしてるってこと?」
ティナが言う。
「かもしれない」
シルヴァは答えた。
そして。
頭の片隅に。
東方防衛拠点を襲った魔物たちが浮かぶ。
ガルゼムの指揮下。
野生の魔物とは明らかに違っていた。
統率され。
人間の防御線へ躊躇なく突撃し。
致命傷に近い傷を負っても止まらなかった個体さえいた。
当時は。
魔王軍によって捕獲され、訓練された魔物だと思っていた。
「ティナ」
「何?」
「東の砦に来た魔物」
「…………」
ティナもすぐに気づく。
「まさか」
「同じかは分からない」
「でも」
「調べる価値はある」
クジャが頷いた。
「もし同じ力だったら、見れば分かると思う」
その時。
「あなた方は――」
ハインが口を開いた。
しかし。
途中で。
声が消えた。
「…………?」
シルヴァが振り返る。
ハインの口が動いている。
声が聞こえない。
「ハインさん?」
自分の声も。
聞こえなかった。
「――?」
シルヴァが口元へ手を当てる。
ティナも何か叫んでいる。
だが。
完全な無音。
足音。
衣擦れ。
呼吸。
剣を抜いた音。
すべて消えている。
クジャの右眼が動く。
「…………!」
見えた。
廊下全体。
薄いオーラの膜。
壁。
床。
天井。
一定範囲を覆うように展開されている。
その中心。
奥の暗闇から。
一人の男が歩いてきた。
黒い外套。
人間とほとんど変わらない外見。
ただし。
瞳は赤い。
男――セイルは。
三人を見た。
そして。
僅かに笑う。
ティナが剣を構える。
シルヴァも。
クジャはカードケースへ手を伸ばす。
セイルの唇が動いた。
声は聞こえない。
シルヴァには何を言っているのか分からない。
だが。
クジャには見えていた。
セイルの全身から伸びるオーラ。
周囲を覆う膜へ繋がっている。
――こいつ。
この無音を作ってる。
セイルが右手を上げた。
指を鳴らす。
当然。
音はない。
直後。
鉄格子が開いた。
「――!」
巨大な影。
四足の魔物が飛び出した。
黒い毛皮。
巨大な牙。
不自然なほど膨れ上がった筋肉。
シルヴァの身長を軽く超える体高。
赤く血走った目。
口が開く。
咆哮。
――のはずだった。
何一つ聞こえない。
それがかえって異様だった。
魔物が地面を蹴った。
「!」
速い。
巨体から想像できない加速。
一直線に。
シルヴァへ。
剣を横へ構える。
受ける。
衝突。
音はない。
だが。
衝撃だけは確かに存在した。
「っ……!」
腕が痺れる。
シルヴァの足が石床から浮く。
身体が後方へ弾き飛ばされた。
壁。
背中から叩きつけられる。
それでも。
音がしない。
ティナが走る。
《構装》。
足元へ薄いオーラの足場。
一歩だけ加速する。
魔物の側面へ剣を振るう。
だが。
刃が届く直前。
魔物が異常な反応速度で前脚を振った。
「――!」
ティナが身を引く。
紙一重。
完全には避けきれない。
傷口へ負担がかかり、顔を歪める。
クジャが五枚のカードを引いた。
♠。
♣。
♦。
♥。
残る一枚。
瞬時に手札を見る。
その間に。
セイルの背後へ。
二人の魔族が現れた。
片方は短剣。
もう片方は長槍。
三人。
そして強化された魔物。
シルヴァが壁へ手をつき。
立ち上がった。
肩を回す。
「…………」
音がないから。
自分の言葉も分からない。
それでも。
口元が。
少しだけ笑った。
ティナがその顔を見る。
「――――!!」
何かを叫んでいる。
聞こえない。
だが。
シルヴァにはなんとなく分かった。
多分。
『絶対今、馬鹿なこと考えたでしょ!』
そんな感じだ。
シルヴァは剣を構える。
目の前。
セイルが冷静にこちらを観察している。
そのさらに奥。
クジャの右眼だけに見える。
魔物の全身を侵す。
異物のような力。
そして。
シルヴァたちはまだ知らない。
この強化魔物も。
東方を襲った軍勢も。
エルネアで盗まれようとしている記録も。
すべて。
一人の軍団長が進める。
アステラ攻略のための調査へ。
少しずつ繋がっていることを。
無音の地下書庫で。
最初の衝突が始まった。




