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呼吸が内なる奇跡を産む

**内側の声**


夜が深くなると、街のざわめきは薄い膜のように張りついて、やがて破れる。破れた先に残るのは、自分の鼓動と、誰も聞いたことのない声だった。


最初に気づいたのは、電車の中だった。満員の車内で、隣の男の肩が触れるたびに、耳の奥で微かな音がした。息を吸う音ではない。吐く音でもない。もっと深いところから来る、無と有が交互に切り替わるリズムだった。


「……無……有……無……有……」


男の内側で、何かが働いていた。空気洗浄機のように、古いものを吸い込み、分解し、新しいものに変えて吐き出す。エネルギーが砕かれ、別のエネルギーとして生まれ直す。その音は静かで、しかし確かに存在していた。


私は目を閉じた。自分の内側にも同じ音があるはずだ。耳を澄ませると、確かに聞こえた。自分の胸の奥で、無と有が規則正しく入れ替わっている。吸気の瞬間に無が広がり、呼気の瞬間に有が立ち上がる。その繰り返しが、命を支えていた。


そして、もう一つ気づいた。


人は、無を無意識にイメージしながら呼吸しているのではないか。


吸うたびに、誰もが無意識のうちに「無」を思い浮かべている。黒い穴のようなものでも、虚空でもなく、ただの「ない」という感覚。それが肺の奥に流れ込み、有と入れ替わる。意識してはいない。ただ、体が勝手にそうしている。朝、目が覚めて最初の息を吸うときも、忙しい昼の合間に浅く息をつくときも、眠る直前の長い吐息のときも、無意識のイメージが無を呼び出している。


なぜこれが奇跡なのか。


動物は、生まれる前には呼吸をしていなかった。子宮の中で羊水に浸かり、母体の血流から酸素を受け取っていただけだ。外界に出た瞬間、肺が初めて開き、空気を取り込む。その一瞬で、ゼロからエネルギーを生み出す回路が起動する。分解と変換。無から有への転換。空気洗浄機のような構造が、突然、稼働し始めるのだ。そしてそのときから、無意識に無をイメージしながら呼吸し続けることになる。生まれたばかりの赤ん坊でさえ、すでにそうしている。言葉を知らないうちから、無を知っている。


私はその仕組みを、人々の内側で聞くようになった。


老いた女の内側では、切り替えの速度が遅かった。無が長く滞留し、有が細く立ち上がる。それでも止まらない。彼女は無意識に、深い無をイメージしていた。若い男の内側では、激しく、ほとんど暴力的に入れ替わっていた。怒りや欲望が、エネルギーを過剰に分解し、過剰に変換している。彼の無意識のイメージは、薄く、すぐに有に押し流されていた。子供の内側は、純粋だった。無と有の境界が曖昧で、まるで遊びのように混じり合っている。子供は無をイメージすることすら、楽しんでいるかのようだった。


ある日、私は病院の廊下を歩いていた。重篤な患者の部屋から漏れ出る声を、どうしても聞いてしまった。


「……無……無……無……」


有が立ち上がらない。切り替えが止まっている。エネルギーは分解されず、ただ淀んでいる。その音は、死の手前の沈黙に近かった。しかし、ふと、ごく弱い有が顔を出した。一瞬だけ。そしてまた無に沈む。そのとき、患者の無意識が、かすかに無をイメージしていたのがわかった。意識はもうほとんどなかったのに、体だけが、習慣のように無を呼び出し続けていた。奇跡は、まだ完全には消えていなかった。


私は自分の内側に問いかけた。


「なぜ、ゼロから生み出せるのか」


答えはすぐに返ってきた。内側の声は、私の声でもあり、私以外の声でもあった。


「生まれる前にしてこなかったからこそ、だ。初めての呼吸は、世界との契約だ。無を引き受け、有を返す。その交換が続く限り、命は続く。空気洗浄機は止まらない。止まれば、すべてが無に還るだけだ。そして人は、その無を、無意識にイメージしながら呼吸している。意識の表面では何も考えていなくても、体の奥では常に無を描いている。それが、変換を可能にしている」


夜、私は窓を開けた。外気が一気に流れ込んできた。肺が膨らみ、内側で無が広がる。次の瞬間、有が立ち上がる。分解されたエネルギーが、新しい形になって体を巡る。


私は意識的に、無をイメージしてみた。何もない空間。色もなく、形もなく、ただの無。それを思い浮かべながら息を吸うと、内側の声が少しはっきりした。「……無……有……」。無意識でやっていたことを、意識の光の下に置いた瞬間、変換の感触が肌に近いところまで上がってきた。


この繰り返しは、奇跡以外の何ものでもない。


人間は、知らず知らずのうちに、毎日、ゼロからエネルギーを生み出している。生まれる前には存在しなかった行為を、死ぬまで続けている。そしてその行為の最中、無意識に無をイメージしている。内側の声は、その事実をただ淡々と告げるだけだ。美しくも恐ろしくもなく、ただ、事実として。


私はその声を聞き続けた。電車の中で、街角で、眠る前に。誰の内側も、同じ構造を持っていた。無と有の交替。空気洗浄機のような働き。エネルギー変換。そして、無意識のイメージとしての無。


ある朝、目が覚めたとき、自分の内側の声がいつもよりはっきりと聞こえた。


「……無……有……無……有……」


私は深く息を吸った。ゼロから始まる呼吸を、意識的に行った。生まれる前にしてこなかった行為を、改めて引き受けた。無をイメージしながら。意識の端で、静かに無を描きながら。


そして思った。もしすべての人間が、自分の内側の声を聞けたなら、どうなるだろうか。無を無意識にイメージしながら呼吸していることを、もし意識できたなら、どうなるだろうか。奇跡が日常になり、日常が奇跡になるのか。それとも、ただの機械的な音として聞き流されるのか。


答えはまだない。内側の声は、答えを急がない。ただ、無と有を交互に切り替え続けているだけだ。人々は、今日も無意識に無をイメージしながら、息を吸っている。


空気洗浄機は、今日も静かに動いている。

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