久々の自分語り
何故秦君は、僕の事を絶縁体と呼んだのか。それは彼が自信をもって僕の事を友達と認めたのに、素直に喜べない僕に愛が届かなかったからだ。愛によって縁が出来るというのに。未だに自信を持てない僕は呼吸すら淀んでいくんだ。
放課後の教室は、西日が斜めに差し込んで、机の影を長く伸ばしていた。黒板には数学の公式が白く残り、チョークの粉が静かに床に落ちている。僕は窓際の席で、ノートの端を無意味に折り曲げていた。
「おい、絶縁体」
背後から声がした。秦君だ。身長が高く、肩幅が広く、いつもどこか余裕のある声をしている。僕は顔を上げずに答えた。
「……何だよ」
「また一人でいるのか。部活も行かないのか」
「行く気がない」
「行く気がない、か。お前、本当に絶縁体だな」
絶縁体。初めてその言葉を聞いたのは、一学期の終わりだった。物理の授業で電流の話が出たとき、秦君が僕のほうを見て小さく笑った。
「お前みたいな奴を絶縁体って言うんだよ。周りがどれだけ近づいても、何も通さない」
そのときは冗談だと思った。いや、冗談だと信じたかった。でもそれから秦君は、僕を呼ぶときにたびたびその言葉を使った。親しみを込めたようにも、突き放すようにも聞こえた。
僕は秦君と友達だと思っていた。少なくとも、彼はそう言った。中学からの付き合いで、クラスが分かれても、休み時間には必ず席を寄ってきた。僕が黙っていると、勝手に話を続けて、僕が少しでも反応すると「ほら、通った」と笑う。その笑顔が、ひどく眩しかった。
でも僕は、その笑顔を受け止めることができなかった。
「友達だろ、お前と俺は」
そう言われた夜がある。夏休みの終わり、駅前のベンチで缶ジュースを飲みながら。空は紫色に溶けていて、電車の音が遠くで響いていた。
「ああ」
僕は短く答えた。それ以上の言葉が出てこなかった。嬉しかったのに。喉の奥が熱くなったのに。喜ぶべきなのに、胸のどこかが硬くなって、何も通さないように閉じた。
秦君は少し黙ってから、缶を軽く振った。
「お前、本当に絶縁体だな。俺が近づいても、何も伝わらない」
その言葉が、今も耳の奥に残っている。
秋になっても、僕の呼吸は浅いままだった。朝、鏡を見るたびに、自分の顔がどこか遠くに感じられた。教室で笑い声が上がると、その輪の外側に自分がいる気がした。秦君が隣に座ってきても、会話が弾んでも、心のどこかで「これは本物じゃない」とつぶやいてしまう。
なぜだろう。
彼が僕を友達と認めたのに。彼が何度も「お前といると楽だ」と言ってくれたのに。愛によって縁が出来るというのに、僕はそれを拒んでいるように見えた。
ある日、雨の降る放課後。僕は傘を持たずに校門を出た。濡れた制服が肌に張り付いて、寒い。駅までの道を歩いていると、後ろから足音がした。
「おい、絶縁体」
秦君が走ってきた。自分の傘を差して、僕の頭の上にも被せる。水滴が傘の縁から落ちて、アスファルトに小さな円を描く。
「傘くらい持ってこいよ」
「忘れた」
「嘘つけ。わざとだろ」
僕は何も言わなかった。秦君はため息をついて、歩調を合わせた。
「お前、最近さらに通さなくなってる。何かあったのか」
「何もない」
「何もない、か。……俺はお前の友達だと思ってる。お前は?」
質問が、雨音の間に落ちた。僕はしばらく考えてから、答えた。
「……わからない」
「わからない、で済ませるなよ」
秦君の声が少し低くなった。怒っているのか、悲しんでいるのか、わからなかった。僕は傘の下で、彼の横顔を見た。雨に濡れた髪が額に張り付き、目がいつもより鋭く見えた。
「俺はお前を友達だと思ってる。それだけじゃ足りないのか」
「足りないんじゃない。……受け取れないんだ」
言葉が、意外と簡単に出てしまった。秦君は足を止めた。僕も止まった。傘の下で、二人だけが雨から守られている。
「受け取れない?」
「そうだ。お前がそう言ってくれても、僕は……自分がそれに値する人間だと思えない。だから、素直に喜べない。喜ぼうとすると、胸が苦しくなる」
秦君はしばらく黙っていた。雨音だけが聞こえる。それから彼は、傘を少し傾げて、僕の顔を覗き込んだ。
「絶縁体か。……なるほどな」
「何が」
「お前は、自分を守るために何も通さないようにしてるんだ。電気みたいに、突然流れてきたら壊れそうだから」
僕は目を伏せた。当たっている気がした。幼い頃から、何かを期待しては裏切られることを繰り返してきた。親の離婚、転校、友人の突然の無視。何度も「縁」が切れるのを見てきた。だから、新しい縁が近づくと、反射的に遮断してしまう。
「でもな」と秦君が続けた。「絶縁体でも、条件が揃えば通ることもあるだろ。電圧を上げるとか、温度を変えるとか」
「物理の話か」
「お前にわかるように話してやってるんだよ」
彼は少し笑った。その笑顔が、雨の中で柔らかく見えた。
「俺は諦めてない。お前が通すまで、ずっと隣にいる。それが愛ってやつなんだろ」
愛。
その言葉が、胸の奥に小さく響いた。これまで僕は、愛を遠いものだと思っていた。特別な人だけが持つもので、自分には関係ないものだと。でも秦君は、それを当たり前のように口にした。
その日から、少しずつ変わった。
秦君は相変わらず僕を「絶縁体」と呼んだ。でもその響きが、少し違って聞こえるようになった。からかいというより、確認のように。僕がまだ通していないことを、優しく指摘するように。
冬になって、学校の屋上で二人で弁当を食べたことがある。風が冷たくて、手の指が赤くなった。秦君が自分のマフラーを半分ちぎるようにして、僕の首に巻いてくれた。
「これで少しは通るか?」
「寒いのは関係ないだろ」
「関係ある。体温が上がれば、何か変わるかもしれない」
冗談めかして言う彼の声が、温かかった。僕はマフラーの端を握りしめて、小さく笑った。初めて、自然に笑えた気がした。
春が近づく頃、僕はようやく気づいた。
絶縁体と呼ばれたのは、僕が彼の愛を拒んでいたからではない。拒んでいるように見えて、実は恐れていただけだ。愛によって縁が出来るというのに、縁が切れることを恐れて、最初から通さないようにしていた。
でも、秦君は諦めなかった。電圧を上げるように、何度も近づいてきた。温度を変えるように、季節ごとに違う距離で僕の隣にいた。
ある晴れた午後、僕は彼に言った。
「秦君」
「ん?」
「もう、絶縁体って呼ばなくていい」
彼は目を丸くして、それから大きく笑った。
「通ったか」
「……少し、通った気がする」
「少し、か。じゃあまだ完全には通ってないな。まだまだ呼ぶぞ、絶縁体」
「……勝手にしろ」
僕も笑った。胸の奥で、何かがゆっくりと流れ始めた気がした。淀んでいた呼吸が、少しだけ深くなった。
愛によって縁が出来る。その言葉が、ようやく本当に聞こえた。
そして僕は、まだ自信を持てないまま、でも彼の隣を歩き続けた。絶縁体のままでもいい。いつか完全に通る日が来るかもしれない。来なくても、彼が隣にいる限り、縁は切れない。
そう信じて、僕は今日も、彼の声を待っている。




