第八話(前編)
「アレックス!ぼうけんの旅に出るよ!」
「わん!」
テオくんが木の剣を持ち、アレックスと一緒に庭で遊んでいるのを木陰から眺めている。
ハンナは、テーブルの上に置かれたガラスカップをぼんやりと見つめた。
隣国産のガラスカップ。カップの縁から底へ向けて、青空が夕焼けに変わる瞬間を閉じ込めたようなグラデーションを描く、なんとも美しい品だ。ただし、持ち手がついていない。隣国のカップは大半がカップをそのまま掴み使用されるタイプだ。
風習の違いによるものだが、この国で販売するには難がある。母が一度茶会のもてなしで試してくれたが、反応は今ひとつだった。
「せっかくこんなにも美しいのに……」
テオくんがご機嫌で目の前を走り抜け、アレックスがそれを追う。
「あっ…!テオくん、大丈夫?」
温室横の鉢植えを倒してしまったみたい。
(怪我はないかしら)
私が慌ててテオくんのそばへ行く。幸い庭師がすぐ側にいたので、鉢植えの片付けを頼む。他の鉢植えも移動させようとして……ふと考えこんだ。
庭師に謝罪していたテオくんを膝に乗せ、侍女に紙とペンを用意してもらう。
「テオくん、お姉様はね、テオくんがたくさん遊んでも、鉢植えさんもここで過ごせる方法を考えているの」
テオくんは紙の下の方に、勇者テオくんと従犬アレックスの絵を描き始めた。私はその横に、植物を描いてみる。棚に乗せる?ううん、…紐で縛る?鉢植えの横に、紐を描き足す。
「お姉さま、ブランコの絵を描いているの?」
「ブランコ……そうね!鉢植えさんのブランコを作りましょうか」
テオくんの言葉に思わぬヒントを得て、私は胸が高鳴る。吊るす構造にすれば倒す心配もないし、空間も華やかになるわ。
「ハンナ様、エイカー様がお見えになりました」
侍女の言葉に振り返ると、学園の制服に身を包んだノア様が、庭園の小道をこちらへと歩いてくるところだった。
◇
学園が終わった後、ハンナ様からのお呼び出しを受けて、伯爵邸へと足を運んだ。
(何か不手際でもあっただろうか)
昨日の窯元での出来事——ハンナ様を強く抱きしめてしまった失礼を思い出し、制服の襟元を正す。緊張しながら侍女に案内されて庭園へ足を踏み入れると、そこには思いがけない温かな光景が広がっていた。
木陰のテーブルで、テオドール様を膝に乗せ、楽しそうに紙にペンを走らせるハンナ様。柔らかく風にそよぐ髪、幼子に向ける優しい眼差し。木漏れ日に照らされて輝く彼女の姿に、僕は思わず足を止め、息を呑んだ。
(……美しい)
見惚れてしまった自分を慌てて誤魔化すように、深呼吸をしてから一歩を踏み出す。
「お呼びでしょうか、ハンナ様」
僕の声に気付いたハンナ様が顔をあげ、ぱっと花が咲くような笑顔を向けた。
「まあ、ノア様。急にお呼び立てしてしまってごめんなさいね。……あら、制服姿もとても素敵ですわ」
「ありがとうございます…!」
褒められて嬉しいはずなのに、服一枚で、自分が未だ学生であり、ハンナ様に近づくことのできない距離を感じてしまう。
「その……本日はどのようなご用件でしょうか」
ハンナ様が微笑む。
「昨日は咄嗟のことで御礼もできずにおりました…ありがとうございました。上着を汚してしまったでしょう、お詫びも兼ねて、ノア様に新しいお洋服をお仕立てしたいのです」
「ハンナ様がご無事でなによりです。どうかお気になさらずに……」
「…実はもう、採寸の方も来ておりますの。どうか受け取ってくださいな」
「お姉さま!ぼく、もっとたくさんの絵を描きたい!」
膝から飛び降りたテオドール様が、屋敷に向かって駆け出した。侍女が慌てて後を追う。
「あっノアさま!ごきげんよう!ぼくはこれから図書室へ行きます!」
『色の図鑑』を見に行くのだと嬉しそうに話すテオドール様を、ハンナ様は屋敷に入るまで見守り、それから採寸のために僕たちも屋敷の中へと向かうことになった。
◇
背後でシュッとメジャーの音がする。首周り、肩幅、胸囲…と順に、手際よく採寸されてゆく。隣で仕立て屋の助手のメモする音が響く。
応接室にいたのはベテランの仕立て屋で、僕が制服の上着を脱ぐと、ほう…と感心したようにため息をついて、真剣な顔で採寸をし始めた。
衝立の向こうで、ハンナ様がデザイナーと話す声が聞こえた。
「そうね、ノア様は上背があるから、深みのある色も似合いそうね。クラバットは幾つか用意がある?」
「エイカー様はスラリと上背がおありですが、胸板や背筋が大変美しく引き締まっていらっしゃいますね。スーツ姿が映えますよ」
仕立て屋の感心したような声に、僕は思わず頰を掻いた。実家では馬を走らせたり、領地の作業を手伝っていたりしたから、見かけより鍛えられているかもしれない。……ハンナ様の前で体格を褒められるのは、少し気恥ずかしいものだな。
仕立て屋が提示してくれた生地のサンプルは、どれも僕が普段着ているものとは比べものにならないほど滑らかで、光の加減で優美な光沢を放っていた。その中から普段着ている紺色を選んだ。ウエストを絞り、裾に綺麗なドレープが出る仕立てになると聞き、あまりの上質さに思わず喉が鳴る。
「ノア様、クラバットに色のお好みはありますか?一応、ノア様の瞳や髪のお色味に合いそうなものを選んでみたのですけれど」
ハンナ様がシャンパンゴールドのクラバットを持って近づいてきた。
「……!!」
近い。ハンナ様が真剣な瞳で僕の首元にクラバットを当てて、じっと見ている。
ふわりと甘い香りがして、胸の鼓動が早まる。
僕は慌てて視線を逸らした。
「こちらのボルドーも捨てがたいのだけれど、どちらがいいかしら?」
ハンナ様が僕の両肩にクラバットをかけ、姿見を一緒に覗き込む。
手が…ハンナ様の手が、僕の肩に。息が止まる。
「ノア様の優しい髪色にどちらも映えますわね。いかがですか?ノア様」
「あ…はいっ。どちらも素晴らしい品ですね」
「うーん。ではこうしましょう。同じ色でハンカチーフを作っていただける?差し色にして、場に応じて色合わせを楽しめるようにしましょうか」
ハンナ様がテキパキと指示を出していく。
「では、申し訳ないけれど、早めにお願いしますね」
仕立て屋たちは深々と頭を下げ、満足気な笑みを浮かべて退室していった。
僕は上着を羽織りながら、小さく息を吐き出す。
「ノア様、お疲れ様でした。少し休憩をしましょうか」
長いため区切りました。




